正解がひとつでない時代を生きる
私のNoteの数少ない、でも熱心な読者の方から、「文体が丁寧すぎる。ですます調は合わないのではないか」とご指摘をいただいたので、一度、変えてみます。
いや、変えてみる。
入学説明会の折、参加した保護者のみなさんに時々話すことがある。「選択する」ということについての話だ。
説明会にくる保護者は、果たしてこの学校を選ぶべきか、そうするべきでないかを検討しにきている。熱心に話を聞きながら、我が子にとって「最善の選択」をしようと考える。
では、「最善の選択、ベストな選択」とは何なのか。
大抵の人は潜在的な意識の中で、「正しい選択をしなくてはならない、間違った選択をしてはならない、それが最善の選択である」と考える。
気持ちはとても良くわかるけれど、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという選択は学校選びには合わないという話を参加者に話している。
つまりは、どちらも「一長一短」それぞれに良さがあり、それぞれに足りない部分がある・・・
それを踏まえて、「自分はどう考えるのか」「自分は我が子にどういう道を歩ませたいのか」
その決心を固めることがこの場における「選択」ではないか、と。
どこまでも「正解を求めようとする」メンタリティーは、真面目な日本人にとってはあたかもDNAに刷り込まれているような性格だ。
何か先生に問われると、即座に「正しい答えを言わなくてはならない、間違った答えを言ってはいけない」と、子どもたちは必死で先生の心のうちを読もうとする。
日本人はしたがって、クイズ番組が大好きだと言われる。とにかく白黒つけたがるタチなのだろうか。日本には「あいまいさ」の文化もあるはずなのに、興味深い。
正解を求めたがるのは、私たちが受けた学校教育もあるのかも知れない。大人にほめられたい子ども達にとって一番わかりやすい基準が、テストで良い点を取ることになっていれば、それもわからなくもない。
ただ、今、私たちは変化の時代、正解がない、答えがひとつではない時代を生きている。そのことを子ども達に話して聞かせることは大切だ。
自分自身の生い立ちを振り返る時、「大人が喜ぶことをして、大人の期待にこたえることが正しいことだ」と考えていた気がしてならない。逆に、自分の考えや、自分のしたいことがあっても「大人がそれはダメだ、良くない」と言えばそれはしてはいけないことだと思っていた。
しかし大人になった今、実は自分の人生を守り抜くのは自分しかいないことに気づく。大人になったら自分の人生を誰かが守ってくれるわけではない。
これからの時代を生きる子ども達には「考える力」を養うことが本当に大切だ。
グローバル社会においては特に、多様な考え方がある。まったく違う常識がある。
以前なら通用していた常識や「正解」が、今は通用しないケースは山ほどある。さらに言えば、フェイクな情報が錯綜し、正しい情報を得ることさえ難しい時代でもある。
人生は選択の連続だ。その都度、正しい、間違い、の選択ではなく、「自分はどう考えるのか、どうしたいのか」を考えることが選択だ。
子ども達に伝えなくてはいけない。
今は正解がひとつではない時代であること、どうするのか、どうしたいのかは自分の頭で考える必要があること、そしてどのような道を選んだとしても、その道が平坦であることはなく、必ず困難が立ちはだかること、でもそんな時は色々なアイデアを巡らせて、忍耐強く向かっていけば大抵のことは必ず乗り越えられるのだと。
IBのミッションステートメントにはこのようなことが書いてある。
「人がもつ違いを違いとして理解し、自分と異なる考えの人々にもそれぞれの正しさがあり得ると認めることの出来る人」
そして自分と異なる考えの人を、攻撃するような人に絶対になってはいけないということをしつこく言い聞かせていく必要がある。
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