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【SS】金木犀の眠る墓【短編小説】

金木犀、私はお前が嫌いだ。
お前は秋になると必ず現れるから。新しい季節を告げる甘ったるい匂いとともに、あの日々の記憶を連れてくるから。
だから私はお前が嫌いだ。

私は今でも、お前の匂いが嗅げない。

思春期なんてなければよかったのに。
自分の高校時代を思い出すたび、私はそう思わざるを得ない。大人のふりをし始めるくせに心はまだまだ無防備な時代。
人間の成長段階にあんな時期があるから、私はあの男を心の奥深くにまで招き入れてしまったのだ。

空の写真が好きな男だった。

カシャリというスマホカメラの乾いた機械音。
それが、私の地獄の幕開けであったのだ。

昼休みの校庭の隅、体育館裏の小さな空き地。私はそこで本を読むのが好きだった。
そこは私の特等席だったから、先客がいるというのは想定外のことだった。

空に向けてスマホカメラを向けていた男は、足音に気づいたのだろうか、こちらを徐に振り向いた。
柔らかな茶味がかった髪は周りの男子生徒に比べれば長めで、目にかかっている。その目の間から覗く瞳はどこか空虚で、涙が滲んでいるような潤いを湛えていた。

「…なに、そんなに見て」
男の声がするまで、私は自分が男を見つめ続けていたことに気づかなかった。私は下を向いた。鼓動が早くなって、心臓が喉元にまできているような気がする。
私の手に握りしめられた本を見て、男は「あぁ」と言った。
「俺が邪魔だったみたいだね」

それだけ言うと、男は去っていってしまった。空っぽになった体育館裏に、風が吹き抜けていく。
その風は秋でもないのに、少しだけ金木犀の香りを含んでいた。


私が男の名前を特定するのに、そこまで時間は掛からなかった。田舎の小さな高校である。ひと学年の人数もたかが知れていたのだ。

3年C組の教室で、男は「カズノリ」と呼ばれていた。
友人に肩を組まれているときも輪になって話しているときも、男ーーカズノリは基本的に無表情であった。だが、たまに笑う。少し寂しげな笑みだ。
そこまで目立つような外見ではないはずなのに、その笑みは目が離せなくなる何かを持っている。そんな気がした。
私は、教室のそばを通りかかるたびに彼を探すようになっていた。

「あんた、俺のこと見てるよね」
そう言われたとき、私は心臓が縮み上がる心地がした。
場所は再び、体育館裏の空き地である。あの出会い以降、彼がここを訪れることはなくなっていた。そのはずであったのだが。
何も言えない私の手元の本を覗いて、「村上春樹か」とカズノリは言った。
「俺も好きだよ」

私は彼の言葉の意味が一瞬飲み込めず、彼の顔色を伺った。
「好きだよ」という言葉にはおよそ相応しくない無表情が目に映る。それでも、その目には少し温かい色が浮かんでいるような気がした。

その昼休みの間、彼は私の隣に腰掛けて、私の読む『ノルウェイの森』を覗き込んできた。
心臓がずっと早鐘を打っていて、本の内容は全く頭に入ってこない。
覚えているのは、髪がふれ合うほど近くにいた彼の体から、季節外れの金木犀の甘い匂いが漂ってきたことだけだった。

カズノリはそれから、体育館裏によく現れるようになった。
彼が好きな本を持ってくることもあるし、私の持ってきた本を一緒に読むこともある。私たちは会話をするようになっていた。
カズノリが笑うと、私は嬉しかった。いつでも少し寂しげな笑みの、その最後の一片の空虚を取り除いてあげたい。その一心で、私は午前中の授業時間を、カズノリが好きそうな面白い話を考えることに費やしていた。

「ねえ、あんたの名前ってなんなの」
カズノリのその一言が、二人の間にある扉を開けたのだと思う。それを尋ねてきたカズノリは、いつもより少しだけ真剣な目をしていた、ような気がする。
「ユウカだよ」そう言って笑った私の唇に、カズノリの唇が覆いかぶさった。むせかえるほどに甘い、金木犀の香り。
ーーいい匂い。
全く働かない思考回路の中で、唯一頭に浮かんだ思いはそれだった。


その日から、私たちの関係は変わった。

カズノリの匂いを、私は今までよりも濃く感じるようになった。
カズノリの肌や髪は私に近づいて、カズノリの低い声はより深く響いて、カズノリの笑顔は私の胸を締め付けた。

カズノリがいれば何もいらない。
そう思ってしまったのは、思春期の熱情のせいだったのだろうか。


キスをしたその日から、カズノリは空の写真を撮る頻度が増えた。

今まで私の前ではそんなに撮ることはなかったのに、あの日私たちの関係が変わってから、彼は二人の時間にもスマホカメラを起動することが多くなった。
快晴の青空や夕焼け空、星空を収める彼を、私は隣でじっと待っている。
「カズノリ」
声をかけても、その時の彼に私の言葉は届かないようだった。

カメラのシャッター音が私たちの間に鳴り響く。
それはもしかしたら、亀裂の始まりの音だったのかもしれない。


「俺、東京の大学に行くことにした」
カズノリは私に告げた。高校3年の春、受験を終えて卒業式を控えた日のことだ。
それを聞いた私に、一体何が出来たと言うのだろう。私は地元の大学に進学する。カズノリも同じ学校を受験していたはずだった。
私は唇を噛んだ。痛みがじわりと広がる。カズノリはそんな私から目を背けるかのように、スマホカメラを空に構えようとした。

「カズノリ」
私の声に、彼は振り向いた。
「…私はこれからもカズノリのそばにいていいの?」
言った後で、その問いには意味がないことを私は悟った。彼がどう答えたとしても、私の思いは変わらない。彼の答えが肯定ならば私はここで彼を待ち続け、否定だったとしても私はここで彼を思い続ける。私に残された道はどちらにせよ同じなのだ。

「ユウカがいたいならいてもいいし、いたくないのならいなくてもいい」
カズノリのその答えで、自分が金木犀の匂いの海に突き落とされたのを私は感じた。


カズノリが東京に行ってから、彼との連絡は途絶えがちになった。
それでも、金木犀の匂いはずっと私の鼻腔の奥に残っていた。もう香りの源はそこにはいないのに。
私は1日のうちに何度もスマホの通知を確認するようになった。なんの通知もない画面を見るたびに、金木犀の匂いが鼻の奥から漂ってくるのを感じる。
金木犀の海に沈みながら、少しずつ息が出来なくなっているのを感じていた。
私は胸を掻く。底のないこの海から逃げたいのに、それなのに私の手も足も思うようには動かず、這い出る術を誰も教えてはくれない。


「ユウカ」
かつてカズノリが私に向けた笑顔を、私は夢に見た。
少し寂しげな色を宿したその笑顔。キスをした日から、彼が空の写真を多く撮るようになってから、少しずつ影を潜めていったその笑顔。
私は一度でいいから彼の満面の笑みを見たかった。
そう思っていたはずなのに、夢の中の私はカズノリの顔に爪を立てていた。
猫のように尖らせた爪で引っ掻くと、彼の笑顔は傷つけられたポスターのように、破り目が入ってパラパラと散っていく。
「カズノリ」
そう夢の中で叫んでから、私はいつも目が覚めていた。

この頃にはもう、私は彼を愛していたのか憎んでいたのか、わからなくなってしまっていたのかもしれない。


東京で会おう、という話が出たのは、大学に入学してから半年が経とうとしていた頃だった。
私は東京行きの話が出るや否や、予定日の一ヶ月近く前から準備を始めた。

金木犀の花は、現実でも咲き始めていた。一人暮らしを始めていた私の家の近くでも、大きな金木犀の木が花をつけている。
その木は近所の人たちの憩いの場となっていた。いつもその近くを通ると、穏やかな賑わいの音が聞こえてくる。
私の家の近くには幼稚園もあるから、子どもたちの楽しげな笑い声もそれらに混じって響いてきていた。

金木犀の海の中から見上げた海面に、一筋の光が差す。こんな感情はひさしぶりだった。


しかし、予定日が近くなると、突然カズノリからの連絡が途絶えた。
海面の光がかげる。自分が再び海の底に引きずり込まれていくのを私はぼんやりと感じていた。
それでも私は身支度を進めた。予定日当日にでも連絡が来て、出かけられるようになるかもしれない。
そのときに東京駅に迎えに来ているカズノリを私は思い浮かべた。きっと髪の長さは、整えているだろうからそんなに変わらないはずだ。元々茶色っぽい髪だったけれど、今は染めているのだろうか。
想像の中のカズノリがもう笑ってはいないことに、私は気づかないふりをしていた。少し虚しげな瞳が私を映すとき、もうそこに温かさはないことにも。
きっと会ったら、私はカズノリの胸に顔を埋められるはずだ。そうして、彼の肌の匂いとほんのり混じり合った、金木犀の香りに包まれる。そんな日が来る。来るはずだ。そう信じていた。


だが、その日は来ることはなかった。
今までも、そしてこの先も。

高校時代の学年主任から唐突に届いた一通の連絡が、私と金木犀の匂いとを永遠に分け隔てた。


その連絡は、カズノリの訃報だった。



交通事故だったのだという。
連絡には、通夜の日時と、彼と縁のあった人は訪ねてきてほしい旨が記されていた。

全文を読んでから、私は家を飛び出した。
歩速は少しずつ速まる。いつしか私は駆けていた。ある場所を目指して、私の体は一心に秋の道を駆け抜ける。途中で転んで膝から血が出る。それでも、その痛みを感じることはなかった。
向かったのは、金木犀の木であった。
見上げるほどの大樹である。それは枝をいっぱいに広げて、溢れんばかりの金木犀の花を咲かせている。風に煽られると、ぽろぽろと金木犀の花が枝からこぼれ落ちていく。
私は届く高さの金木犀の枝に手を伸ばすと、それらを何本も折りとった。私の腕の中に、金木犀の枝が溜まっていく。
腕がいっぱいになると、私は枝を折る手を下ろした。

そして、金木犀の花に顔をうずめた。

金木犀の匂いが、鼻腔の奥に突き刺さる。それらは私の気道を満たして、肺にまで広がっていく。
私はひたすらにその匂いを嗅いだ。何度も何度も息を吸い込んだ。涙なのかなんなのかもわからない液体が、金木犀の花にボロボロと落ちていく。
嗅覚が麻痺して段々と匂いが薄くなっていくのを感じる。いつしか、私の鼻は山のような金木犀からなんの匂いも感じ取れなくなっていた。
それでも私は金木犀の山から顔を上げることはしなかった。
しばらくの間、私はただ金木犀の中で呼吸をしていた。


私はそれから、金木犀の匂いが嗅げなくなった。
それが連れてくる彼の記憶に触れることが出来なくなった。
そうして、秋になると金木犀の木を避けて歩くようになり数年が過ぎていった。私は髪を切った。髪を切って、煙草を吸うようになった。
そんなある日のことだった。

「おねえちゃん、はい」

目の前に差し出されたのが金木犀の花だとわかって、私は身を固くした。
それを手にした六歳くらいの少年は、無邪気な瞳でこちらを見つめている。周りを見渡しても親らしき人は見当たらない。うちの近所にある幼稚園の引率か何かから、はぐれてしまったのだろうか。
だが、私は子どもが苦手だ。それも相まって、私は我が身を守るように後ずさることしか出来なかった。

「ごめんね」
そう言って走ってその場を逃げ出す。少年の純粋無垢な瞳を思い出すと一片の罪悪感が胸をよぎった。でも致し方なかった。
その夜、少年が無事に保護者のもとに戻れたことを祈りながら、私は眠りについた。

だが翌日も、少年は同じような場所に立っていた。
今度は手には何も持っていない。金木犀が彼の手にない安心感からなのか、昨日から保護者の元に帰れていないのかという不安感からなのか、私は彼に声をかけていた。

「あの…」
私の声を聞くと、少年はパッと振り向く。その顔に安堵したような笑みが広がった。
「…はぐれちゃったの?」
そのときの自分が上手い笑顔を浮かべられていたのかどうかはわからない。だが少年は、こちらに警戒心を抱いてはいないようで、私の手を握った。
「さっき、せんせいたちとバイバイしちゃったの。どこにもいないの」
つまり、やはり近所の幼稚園からの迷子というわけである。
私はため息をつくと、彼の手を握り返して「せんせいたち」がいる場所への道を辿り始めた。

少年は、人見知りとはまったく無縁の性分のようであった。
幼稚園までの道中の間、彼は実によく話した。この前みんなでお空の虹を見たこと、お昼寝の前に絵本を読んでもらうのが好きなこと、今のお気に入りは押し入れの中でねずみの女王に襲われる話であること。
私は大体生返事しかしなかったが、それでも彼は彼なりに満足しているようだった。

「ねえ、おねえちゃんはなんでちょっと悲しそうなの?」

子どもは時にこちらがぎくっとするようなことを言う、と子持ちの知り合いが言っていたのを私は思い出した。
「悲しそうに見える?」
私に質問を返されて、少年は「うん」と頷いた。

「何年か前に、知り合いが死んじゃったの」
私の口から、するりとその言葉が出た理由はわからない。何年もの間、口にすることが出来ない話題であったのに。
「シリアイ?」少年はこちらを見た。
「えっと、仲良しだった人…かな」
「じゃあ、すきだったんだ」
私は言葉に詰まってしまった。
「すきじゃなかったの?」
少年に覗き込まれて、私は曖昧な笑みしか返せなかった。
好きという一言で表現するには、あまりに多くのことが起きてしまっていた気がした。

少年は黙り込んだあと、ぽつりとつぶやいた。
「じゃあ、おはか、つくらなきゃね」
唐突なその言葉の真意を、私は測りかねた。
「…その、死んじゃった人の?」
私の質問に、少年は答えない。
彼は少しすると他のものに興味を移したようで、別の話をし始めた。

幼稚園の目の前まで着くと、少年の顔は明るくなった。
「もうここからは一人で行ける?」
私の質問に、少年は何度も頷いた。

「ありがとう、おねえちゃん」
少年は私を見て満面の笑顔を浮かべた。


「また、”カズくん”とおさんぽしてね」

少年が踵を返すとき、ふわりと金木犀の匂いが香ったのは、気のせいだったのであろうか。


「待って」
私はつい声を上げてしまった。少年が振り返る。
「私はカズノリが好きだった。好きだったんだよ」

少年がにっこりと笑って手を振った、ような気がした。
ふと強風が吹いて、地面の砂塵を巻き上げる。目を開けた時には、そこに少年の姿はもうなかった。


気づくと、私は金木犀の大樹の前に来ていた。
もうしばらくの間、訪れることの出来なかった場所。
私はそこで、金木犀の枝を一本折りとった。
甘い匂いが私を包み込む。それはかつて私を抱きしめた男の記憶とともに、先ほどの少年の笑顔を思い出させた。

『私は一度でいいから彼の満面の笑みを見たかった。』
かつての記憶が蘇る。あの人の笑顔を見たい一心で、それなのにあの人の顔に爪を突き立てる夢を見ていた、あの頃。
その記憶に、”カズくん”と名乗った少年の、一点の曇りもない眩しい笑顔が重なった。


金木犀、私はお前が嫌いだった。
お前を見ると、昔の記憶が蘇るから。お前を見ると、あの人を愛したかったのに愛しきれなかった頃の全てが蘇るから。
お前はカズノリを憎み、カズノリを愛した私の記憶の分身だったのだ。

『じゃあ、おはか、つくらなきゃね』
少年の言葉が私の脳裏にこだまする。
手の中の金木犀の枝を、私は見つめた。


私は線香を買って家に帰った。
この家には庭はない。私は部屋の中を見回して植木鉢と土の入った袋に目を止めた。
植木鉢の中に土を移し替えると、先ほどの金木犀の枝を埋める。
私はその植木鉢を部屋のベランダに置いた。

マッチを擦って、線香に火をつける。先端が少し赤く光るのを確かめると、私はそれを置くものを探した。台所の引き出しにしまわれた陶磁の皿を見つける。私はその上にそっと線香を置くと、ベランダの植木鉢の隣に添えた。


手を合わせて目をつぶると、ぽたりと、目から水滴がこぼれるのを感じた。

どこか懐かしい香りが、金木犀の甘い残り香と混ざってあたりに広がる。
それは、今はもうここにない何かへの、祈りの匂いであったのかもしれなかった。


ー終ー

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