見出し画像

173/* なんら過不足ない時代で、

村上龍のエッセイ集『逃げる中高年、欲望のない若者たち』を読んだ。先に断っておきますが、本書は2010年刊行のちと古い本です。小説ならまだしも、エッセイで9年前となるとなんだか遠い昔のように感じてしまいますが、小説家の書くエッセイというのはここが面白いところで、9年経った今読んでも言葉は死んでいないんです。

ということで感想を交えつつ、考えたことをメモしておこうかなーと思います。引用するのは、本書に収録されている「超人のような老人たち」というエッセイから。それは、65歳と72歳の経営者と食事をしたときの話から始まります。

村上龍は二人の経営者と食事をしたとき、かれらの醸し出す異様な元気さに驚き、その根源は「好奇心」にあるのではないかと仮説を立てました。そして好奇心を源にいつまでも元気でいる二人と比較して、本書のタイトル通り、欲望のない若者たちを「死人」のようだと表現しています。そんなところでこの一節。

たぶん好奇心が弱体化しているということだろう。何でも知っていると思っているということだ。彼らは「欲しいものがどこかにあるはずなので探し当てたい、出会いたい」とは思っていない。

たしかに、こと都会では大抵のものを手に入れることができる。わざわざ世界を旅して回らなくても、東京にいながらして各国の本格的な料理を楽しむことができるし、amazonで調べて出てくるものは家から出る必要すらない。ましてや近年では、庶民派ブランドですら高いクオリティの商品を提供しているから、億万長者でなくともそれなりに快適な暮らしを実現することが可能だ。

値段ではない部分で評価されるべきモノの価値のようなものが刻一刻と下落していくなかで、わざわざ自らの体を使って、リスクを犯しながら何かを得ようとすることは、バカバカしく見えてしまうのかもしれない。そんな中体験に裏打ちされたモノの価値をどれだけ訴えかけたところで、響く場所は少ないんじゃないかとすら思ってしまう。

満ち足りた時代だとは思わない。しかし、なんら過不足のない時代で、我々は何を生み出していくべきなんだろうか。

本書に収録されている別のエッセイ「悪役はもう生きていけない」ではこんな一節がある。

格闘技は、絶対に強くなりたいという思いがないと強くなれないし、相手と対戦するときに戦意を高めなければ集中できない。
(中略)
そして、絶対に負けられないという思いは、ある種の欠落感がないと生まれようがない。この野郎、ぶっ殺してやる、という戦意は満ち足りた生活からは生まれにくい。

これは格闘技においてのみ言えることではない。何かを生み出そうとするエネルギーやパワーの根源には、何くそという思いがいつだって必要である。そして、なにくそ精神を根底で支えてくれるある種の欠落感は、この過不足ない時代でどのように裏打ちしていくべきなんだろうか。

個として、社会として、欠落感はひた隠しにされ、満ち足りていると錯覚する世の中で、何を根源に何を生み出していくべきなんだろうか。


本書、気になった方は下記よりどうぞ。


この記事が参加している募集

推薦図書

サポートいただく度に、声をあげて喜びます。