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×より△、△より◯

僕の高校時代の同級生に、とにかく聞き分けの悪い男がいた。動かざること山のごとき頑固さでもって、食ってかかれるものには食ってかかるような男だった。そんな彼と国語教員の問答対決はもはやクラスの恒例行事で、答えに納得できない彼と、それを淡々と説得する先生とのやりとりは毎度のように行われていた。

まだ部活一直線だったころは授業そっちのけだったから、そんなやりとりも蚊帳の外で受け流していたが、いざ受験に立ち向かおうとなったときには、彼らのやりとりがとても面白くて、ちょっと羨んだりもしたもんだった。

とにかく、100%正しいと思えなければ納得できない彼に対して、先生が口を酸っぱくして言っていたことがある。それが、「×より△、△より◯」だ。受験国語という世界では、選択式の問いは特に、本質的ではないところばかりを問うてくるものがおおい。半ばひっかけ問題のような体裁を取ってくる受験国語に相対しては、「100%正しいと思えなければ納得できない」という彼の性質はとても相性が悪かったのだ。だからこそ、100%正しいものが正解なのではなくて、「×より△、△より◯」が正解なのだと教えてくれたのだった。

結果それでも自我を抑えることに苦労した彼は、大学へ進学し、思う存分文学を研究することでようやく羽を広げることができたのだが、今日の本題はそこではない。「×より△、△より◯」の理論は、受験国語においてのみ言えることではないかもしれない、と思うようになったのだ。

100%正しいものなんてこの先ずっとないかもしれない。分岐路に立たされたとき、ベストな選択肢なんてないかもしれない。心のどこかで妥協しながら、ベターな選択を選んでいって、それでも納得できるようにがむしゃらになるしかないのかもしれない。たとえそれが△だったとしても。

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