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140/* そこに境界線はないはずなのに

高校三年に上がりすぐさま、部活を引退した僕は否が応でも受験勉強に向き合わなければいけなくなった。ろくずっぽ腰を据えて勉強もしていなかった僕は、志望校なども特になかった。ましてや教員になりたいという夢だけ持って、学部なんて考える余地もなかったのだ。

そんな僕にまず求められたのは、どの大学を目指すかを決めることだった。それは同時に、文系理系といった形式的な枠組みにハマってしまうことでもあった。ともかく当時の僕は、教育学よりも専門的な国語の知識を手に入れるため、日本文学部を志したのであった。

思えばそういった選択を迫られるようになってから、あらゆるものに境界線を設けてしまうようになってしまった気がする。生粋の日本文学部に入り浸ってしまったがあまりに、理系という領域に括られてしまうもの全てに苦手意識を抱いたこともあった。

もっとも社会という場においても、境界線はたくさん存在する。肩書きや地位や性別や、様々な場所に線は引かれていて、人は皆、その線からはみ出さないように生きているような気がしている。でも、そもそも境界線って誰が作ったものなんだろうか。

境界線の嫌なところは、こうでなくてはいけない、という偶像を勝手に作り出してしまうところにある。文系はこうだ、理系はこうだ。もちろん人それぞれ特不得意はあるけれども、文学が好きだったらこうでなくてはいけない、なんてものは存在しないはずなのである。

前にも日記に書いたが、本来は得意な人間が得意な領域で力を発揮しているだけのはずっだったのだ。力のつよい男が狩りに出て、子どもを授かることができる女が家を守り、器用な人間が武器や薬をつくり、その中でも指示を得たものが統率者となった。ヒエラルキーというのはどんな集団にも付きまとうものだけれども、そこに線引きなど存在しないはずなのである。

それでも僕らは進路一つ決めるにせよ、文系理系のいづれかに丸をつけさせられて、たったそれだけで、あなたはこうでなくてはいけないと決めつけられてしまう。そこに境界線はないはずなのに。

「あるべき」なんて、どこにもない。
「どうありたいか」たったそれだけだろう。

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