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デカルトの哲学をざっくり解説【そして近代へ】

ルネ・デカルト(1596-1650)は近世哲学の大ボス。

近代以降の学問全体に多大な影響を与えた人物です。

数学者としても超重要人物で、物理学者ニュートンも彼から影響を受けていました。

哲学者としてのデカルトの魅力は、中世スコラ哲学と近世数学&科学の融合にあります。

この融合が、後にも先にもない独特な魅力を生み出すんですよね。中世までの哲学とも違う。近代以降の哲学や自然科学とも違う。どこか未来的な力をも予感させます。

以下、デカルト哲学をざっくり解説してみようと思います。


デカルトの生涯

デカルトは16世紀末フランスの、貴族の家系に生まれました。ヨーロッパがカトリックとプロテスタントの宗教戦争でこの世の地獄と化していた時期です。

身体が弱かったデカルトは、父や教師の厚い配慮に恵まれ、独特のルーティーンを許されます。朝は好きなだけベッドに横になっていていいというのがそれ。本人の述懐によると、この朝の時間が彼の哲学と数学の源泉だったといいます。

学業優秀なデガルトでしたが、すでに伝統的学問に対する懐疑は芽生えていたようです。

卒業後は各地を放浪。ガラの悪い友人たちから逃れるために従軍します。

「隠れて生きる」がモットーであり、「わたしがほしいのは平穏と休息だけだ」と語っていたデカルト。友人から身を隠すのは理解できるにしても、その手段が軍への入隊というのはちょっと理解ができない。もっとひどい環境が広がっていそうですが。

この時期、デカルトは重要な夢を見ます。しかも3つ。この夢が彼の生涯を決定づけたと彼は語っています。

どういう夢だったのか具体的には不明ですが、解析幾何学的な発想法、さらには自然探求のための数学の応用方法に関するものだったと推測されています。


デカルトが数学で成し遂げた偉業はいろいろありますが、もっとも有名なのは解析幾何学の発明でしょう。

われわれが学校で習う座標系(X軸とY軸のやつ)、あれはデカルトの発明で、正式名称はデカルト座標といいます。

座標系のなにがすごいかというと、幾何学を代数で表せることなんですね。逆にいえば代数を幾何学として理解することも可能になります。

図形→方程式、あるいは方程式→図形、この翻訳ができるようになったということ。

これをもっと抽象化していえば、外界・世界・自然・宇宙を方程式に翻訳すること、あるいは方程式を外界・世界・自然・宇宙に翻訳することへの道が開かれたことを意味します。

近代科学はこの線にそって発展していきます。

たとえば現代の物理学でも、宇宙は10次元をもっているうんぬんみたいな話が出てきますよね。「物理学者は10次元なんてものを理解してるのか、すげー」となりますが、実際にはそういうわけではありません。

単に方程式の数字をいじっているだけで、それが表す10次元の宇宙について理解できているわけはないんです。方程式のなかで次元を表す数値を10にすると計算のエラーがなくなるというだけ。

しかし方程式が自然構造へと翻訳されうることがわかっていますから、数字をいじるだけで宇宙の仕組みに迫れるわけです。


デカルトはその後も30年戦争に従軍したりと各地を放浪します。

晩年はオランダのハーグ近辺に住み着き、亡命中の王女エリザベートに学問を教えたりしています。

そしてデカルトの命取りとなったのは、スウェーデンの女王クリスティーナがデカルトから学問を教わりたいと言い出したことでした。

クリスティーナは異常な体力を誇る超人で、今でいうと大企業の女社長みたいな感じのエネルギッシュな女性です。寒さをまったく感じず、朝の5時からガンガン仕事をする鉄人でした。

デカルトはその地へ招かれ、朝5時からクリスティーナに学問の手ほどきをします。

「昼間まで寝てていい」という特例によって子どものころから救われ、インスピレーションを育んできたデカルト。彼の身体にとって、スウェーデンの極寒の地で朝5時から活動するのは無理がありました。

デカルトは肺炎にかかり、異国の地で帰らぬ人となってしまうのでした。


デカルトの方法的懐疑

デカルト哲学の目標、それは確実な真理を手に入れることです。

どうやってそれを成し遂げるかというと、すべてを疑ってみるんです。すべてを疑って、それでも疑いきれないものが残れば、それが真理への基礎になるのではないかと。

単なる懐疑主義ではなくて、決して疑うことのできない確実な一点を求めるために、あえてすべてを疑ってみるという方法。だから方法的懐疑と呼ばれます。

・感覚は錯覚かもしれない
・外界は幻かもしれない
・自分の身体も本当は幻かもしれない
・数学や論理ですら実は誤りかもしれない

こうしてすべてを否定していくのですが、最後にどうしても否定できないものにデカルトは突き当たります。

懐疑しているという事実そのこと、それは否定できないと。これが「我思う、ゆえに我あり」の意味。

こうしてデカルトの哲学では、精神が自己の本性となり、精神の存在が確実性の基礎をなします。


とはいえ、ここにはだいぶ微妙な問題もあります。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言うのですが、この「我」ってどこから出てきたのでしょうか?

たしかに疑っているという事実、その思いの存在は否定できない。しかしそこから「我」が出てくるのか。疑いの背後に、それを作動させる主体の存在を想定することは妥当なのでしょうか。

バートランド・ラッセルはこれを批判し、「デカルトはたんに『思いあり』とだけ言うべきだった」と書いています。「我」は文法構造(英語でいうI think)に引きずられて登場しただけであり、「思いあり」からそれを導出してくることは無効だと。

たとえば木村敏の分裂症研究では、思いの積み重ねから主体が生成されてこない患者のエピソードが記録されています。思い→主体は当然視してよいものなのか疑問。

一方でヘーゲルは独特な注釈を加えています。「我思う、ゆえに我あり」の「ゆえに」は推論ではないというんですね。「思いあり」から「我」の存在を導出し証明しているのではなく、思いと精神の存在が一体であることを表しているのだと。

いずれにせよ「我思う、ゆえに我あり」がややこしい言い回しであることは確かだと思います。柄谷行人は、関西弁で訳して「思うわ、ゆえにあるわ」と主語を消去するのが適切なのではないかと面白いことを言っています。


神の存在論的証明へ

デカルトは決して疑いえない確実なものを求め、あえてすべてを疑ってみたのでした。

その結果、疑っているというその事実だけは否定できないことに気づき、「我思う、ゆえに我あり」を第一原理として置きます。

次にデカルトが何をするかというと、確実なものとしての地位を手にした精神の内部を調べていきます。

すると色々な観念が登場します。あれこれの存在者のイメージだの、論理だの数式だの。そのなかでデカルトは一つの観念にとくに注目するんですね。それが「神」の観念です。

神の観念には、絶対者としての性質がそなわっています。完全無欠なわけです。

なぜ不完全で有限なわたしのうちに、完全で無限な存在の観念がそなわっているんだろう?

不完全で有限な存在が、そのような観念を生み出すのは不可能だ。ということは、それは外部から来たものに違いない。そしてそのような完全な観念をもたらせる存在は、神以外にない。

これがデカルトによる神の存在証明です。


さらにデカルトは、より強力な証明として、世に有名な「神の存在論的証明」というやつを提示します。

これは神の概念を調べることで、その存在を導き出す試みです。次のように進みます。

神は完全である→存在を含まないよりも含んでいるほうが完全だ→神は存在の概念を含んでいる→神は存在する

これは不思議な議論で、騙されたような気分にしかなりませんよね。どこが異様かというと、本質存在から事実存在を導いているところです。

西洋哲学には2つの存在があります。

ひとつは本質存在で、これは「~である」と、そのものの本質を意味する。

もうひとつは事実存在(約して実存)で、「~がある」と、そのものがあることを意味する。

西洋哲学では存在といえば本質存在ですが、日本人が存在の語でイメージするのは後者の事実存在です(だから存在論という言葉のニュアンスをつかめない)


神の存在論的証明は、この本質存在から事実存在を導いていることろが奇妙。

神の本質には存在することが含まれる→だから神は存在する

実際カントはここに基づいて神の存在論的証明を批判しました。事実存在は本質から導出することはできないといって。通帳の預金残高に数字を書き加えたからといって、実際のお金が増えるわけがないと言うんですね。

カントの見方は常識的ですし、われわれとしてもそれに同意できると思います。

しかし後のヘーゲルがさらにこれをひっくり返して、神の存在論的証明は妥当であると言い出すから面白い。

たしかに本質から事実存在を導き出すことはできない。だが神だけは例外なのだ。神においてだけ本質と実存が一体化しているのが話の核であり、銀行通帳のたとえは当てはまらないとヘーゲルは言うんです。

正直なにを言ってるのか僕には理解できないのですが、なにか重大だ直観がありそうだなと思ってます。


とりあえずデカルトはこうして神の存在を証明したのでした。すると一気に色々な問題が解決します。

神は完全無欠の存在であるから、われわれを悪しき意志で騙すことなどありえないとデカルトは言います。

ということは、神が人間に与えた理性能力は、それを正しくフルパワーで用いれば、対象を正しく把握できるとみなすことができます。

こうしてデカルトの「理性が明晰判明に認識した対象は真実である」という原理が確立されるのです。

逆にいえば、神の存在がなければこの原理は無効であり、懐疑から抜け出すことはできないということです。

デカルトというと主体だとか理性だとか近代だとかのイメージが先行していますが、彼の思想は意外なほど神が中心にあります。ベルは次のように言っています。

デカルトはまた、無神論者であったといって避難されるが、これほど真実から遠い話はない。彼の信仰はその合理的懐疑主義にもかかわらず、単純素朴なものであった。彼は自分の信仰を、それを教えてくれた祖母にたとえ、どちらに頼るのも同じくらい、楽しいものだと公言した。合理的な頭脳は時として合理性と非合理性との最も奇矯な混合物である。

E.T.ベル『数学をつくった人びと 上』東京図書


ついでに言っておくと、デカルトを近代科学の源流とみなす向きもありますがそれも完全に正しいとはいえないです。

デカルトはむしろ数学的なんですね。直観によって真理を一気につかむみたいなスタイル。高いところに確実な原理があって、そこから次々と真理を演繹してくる感じ。

この数学的なスタイルをモデルにして、哲学や科学を一から構築しようというのが、デカルトの野望でした。

未来人がこういう科学をやっている可能性はあるかもしれません。もしかしたら、文明の進んだ星にある科学はこういう性格をしているのかも。

しかし近代科学というのは、デカルトのこういう行き方をあきらめたところに成立するものなんですよね。

認識できるとされるエリアとできないとされるエリアをはっきり分け、認識できるとされるエリアだけを対象に仮説構築と実験を繰り返し、統計的な常識を頼りに暫定的なモデル(いちばん上手くいく仮説)を選び出していく。

このような近代科学は、デカルトの理想とした学問とは別物です。その根底にあるのはむしろカントの哲学だといえます。


超重要概念「実体」の登場

すべてを疑う→疑いえない我の存在に気づく→精神の内部には神の観念がある→神の存在が証明される→神の誠実さのおかげでわれわれの認識能力を信頼してよいことになる

このように一直線に話は展開してきました。デカルトはさらに歩みを進め、神の次に確かといえるものを見つけます。

それが精神と物体という2つの実体です。

実体とは、存在するために他の存在の助けを必要としないもの。厳密にいえばそのような存在(=実体)は神だけです。

しかし神以外の助けを必要としないで存在できる、いわばプチ実体のようなものとして、デカルトは精神と物体を挙げます。精神は神以外の助けがなくても存在できるし、物体も神以外の助けがなくても存在できると。

そしてデカルトによると精神の本質は思考です。他の属性はどんどん捨てていっても精神は残りますが、思考を捨てたら精神は精神でなくなるという発想。

同様に物体の本質は延長(広がり)にあるとされます。重さだとか手触りだとかの属性を排除しても物体は物体として考えられうるけれども、延長(広がり)のない物体は考えることができないから。

実体は他の影響を受けません。他の存在者の影響を受けて、そのあり方がユラユラ変化するような心もとないようなものなら、実体とはいえないわけです。

ということは、精神と物体はまったくことなる位相に存在することになります。のちの学問に巨大な影響を与える、デカルトの二元論がこうして確立されるのです。


ちなみに「実体」は近世哲学を理解するうえでの超重要概念になってきます。たとえばスピノザもライプニッツも、実体概念を通して、デカルトと比較しながら理解するとすっと入ってきます。

スピノザにおいては実体は神だけで、神の有する無限の属性の2つに精神と物体があります。

ライプニッツにおいては実体は無数のモナドです。モナドは世界を構成する最小の単位であり、それは物質ではなく、魂(ソウル)の性質をもちます。精神も物質もモナドから構成されています。


心身問題の発生、そしてスピノザとライプニッツへ

デカルトによると実体には精神と物体があるのでした。

しかしそうだとすると、ここで大きな問題が発生してしまいます。「心と身体はいかに相互作用しているのか?」というのがそれ。

心は精神です(その本質は思考)。そして身体は物体です(その本質は延長)

しかし、実体同士は相互に影響を与えることがないのでした。ということは、心と身体は相互に影響を与えることができなくなるのでは?

しかし現実を見れば、心と身体には相互関係が発生しているように見えますよね。これはいったいどういう原理で実現されているのか?

これがデカルト哲学によって発生した「心身問題」というやつです。その後の哲学史だけでなく、現代の脳科学などにおいても、これが延々と回帰してきます。


この問題に対するデカルトの答えは、精神は脳の「松果体」によって身体と連結する、というものです。

デカルトの考えでは、われわれの本性は精神のほうにあります。身体は精神が乗り込むための機械。そして脳にある松果体をベースに、精神は身体とドッキングし、現実世界を動き回るというわけです。

しかしこの考え方は哲学界では大いに不評でした。確かに「では精神と松果体はどうやって連結されるのか?」という疑問が出てきますよね。心身問題の発生場所がスライドしただけのように見えます。

とはいえこの部分は、神秘学とか霊学にくわしい人が知るとギョッとする見解。おそらくデカルトは中世の錬金術や神秘学にも詳しかったのでしょう。そこからこのような考え方を引っ張ってきたのだと思われます。


余談になりますが、デカルトの弱点は精神の本質を思考にあると考えたところだと思います。

われわれの本性を身体ではなく精神のほうにもとめたり、精神と身体の二元論を展開したりするのは、むしろ妥当だと思う。ここらへんはむしろ現代の学問のほうが変な道にはまり込んでしまっており、デカルトのほうが先進的ですらあります。

ただ、その精神のコアを思考と見なしてしまったのが悪しき歴史の始まりでした。これによって近現代の人間は苦労をすることになります。

「我思う、ゆえに我あり」の「思う」は思考に限定されずあらゆる精神活動を含むとデカルトは言っていたのですが、精神の本質をもとめるところでそれを思考へと限定させていったんですね。

なおスピノザとライプニッツはそれぞれ別様の解釈で心身問題に解答を与えます。実体概念と同様に、心身問題についてもこの3人をまとめて理解するのがおすすめ(スピノザとライプニッツについての記事はそのうち)


参考文献&おすすめ本

・デカルト『哲学原理』(ちくま学芸文庫)

個人的にはちくま学芸文庫版の哲学原理がいちばん好きですね。デカルトがスコラ学を意識して作った教科書的な作品。注釈が豊富で超有益。巻末にまとめて注釈があるんじゃなくて、本文に挟まれていく構成もグッド。訳文もふつうに読みやすいと思う。


・デカルト『方法序説』

こっちは一般読者向けにフランス語で書かれたもの。自伝的な要素もある本です。100ページくらいなのですぐ読める。でも内容的には意外ととっつきにくいパートも多い。とはいえ生の思索をドキュメント化したような主著『省察』に比べれば読みやすいです。


・シュヴェーグラー『西洋哲学史』

デカルトの入門書に関しては良いものを知らないです。意外と見当たらないような。むしろ哲学史の名著のデカルトパートが参考になる。シュヴェーグラーあたりは簡潔にまとめていて見通しがいいです。


・E.T.ベル『数学をつくった人びと 上』

伝記ならベルの名著がおもしろい。哲学史じゃなくて数学史の本だけれども。フェルマーの最終定理を証明したワイルズが、この本を読んでフェルマーに導かれたのは有名な話です。


デカルトの言葉紹介はこちら↓


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