デカルトの名言&迷句を紹介【方法序説・哲学原理】
近代哲学の首領ルネ・デカルトの重要な文章&面白い文章を紹介します。
まずは『哲学原理』、次に『方法序説』から。
スタート地点で方向を間違えると努力するほどに真実から遠ざかる
スコラ哲学をふくむ従来のすべての哲学を打ち捨て、すべてをゼロからやり直さんとするデカルトの意志が感じられる文。
スコラは哲学のプロ集団であり、デカルトはアマチュアみたいなものだったわけです。その若者がこういうことを言っている。そう考えると、彼の自信と大胆さに驚きますよね。
特許庁で働いていたアインシュタインがニュートン力学をひっくり返した事態になぞらえると、デカルト革命のインパクトを想像しやすくなります。ちなみにニュートンの愛読書はデカルトの『哲学原理』でした。
神の存在は神の観念から自動的に導き出される
いわゆる「神の存在論的証明」というやつ。神が存在することは、神の概念を調べることで証明できる、とするもの。
中世のアンセルムスがこれを主張しました。この主張はトマス・アクィナスによって批判されますが、デカルトはそれを復活させます。
さらにスピノザがこれを継承し、カントによって批判されるも、ヘーゲルがもう一度復活させるという複雑な歴史をたどります。
世界は瞬間ごとに連続的に創造され続けている
いわゆるデカルトの世界連続創造説。
デカルトは時間をデジナルなものとしてイメージしています。今と次の今は細切れになっているわけですね。
そしてそのいずれの瞬間においても、神が世界を創造していると考えます。神ははるか昔に一度だけ世界を創造したのではなくて、あらゆる瞬間に世界を創造していると、デカルトは認識しています。
人間が神の性質を知ることは可能
人間には神を認識することはできない、というのが西洋哲学や神学の主流。
しかしデカルトはその考えに反対します。
確かに神の全体を知ることは人間にはできないけれども、その一端にふれることはたやすいことだというんですね。
トマス・アクィナスのように世界を観察し、そこから存在の類比によって間接的に神の影を垣間見る、といったアプローチではありません。
むしろ自分の内側へと潜っていき、そこに存在する神の観念をしっかりと観想することで神を知ることができる、とデカルトは考えます。
イメージに反してスコラのほうが自然科学的であり、デカルトは神秘家に近いですね。
神の啓示はすべてに優先する
デカルトは神による啓示(知らせ)を何よりも重視します。理性が明晰にとらえた真理であったとしても、神の啓示には勝てません。
ここには極限的に哲学的な態度があるといえます。
たとえばアリストテレスやトマス・アクィナスは、神は論理体系のうちに世界を造ったと考えました。根源的なロジック(矛盾律など)は創造主でさえ反することのできないコードだ、という発想があるわけです。
これは穏健で常識的ですよね。
しかしデカルトは、あらゆる真理は神の意志に支えられていると見ます。
どんな論理法則や数学定理であろうと、それが真実であるのは、それが真実であるような世界を神が創造したからにすぎない。天使にはできなくとも、神であればそれらのコードを書き換えることは容易だというんです。
なぜアリストテレスの目的論は間違いなのか?
アリストテレスおよびそれを継承したスコラの自然学への批判。
アリストテレスは目的因のもとに自然を観察しました。
デカルトはそれを批判するのですが、その根拠が面白くて、「われわれには神の計画を理解することなどできないのだから自然の目的はわからない」というんです。
なぜ理性は真実を捉えることができるのか
理性が明晰かつ判明に捉えたものは真である、とデカルトは考えます。
その根拠にあるのは神の存在。理性は単独で機能するわけではなく、その根底に神の存在があることで、数学や論理学をも疑うデカルト的懐疑から抜け出すことができます。
認識にエラーが発生するのは理性ではなく意志に原因がある
デカルトは誤謬の原因を、人間の意志に求めます。かなり変わった考え方が展開されます。
デカルトによると、人間が神に似ているのは、この無限の意志においてだといいます。
普通は人間の理性に神とのつながりを見出すことが多いですよね。
しかしデカルトいわく、人間の理性はごくごく限られたものにすぎず、むしろその範囲をはるかに超える無限の意志こそが神に近いと。
そしてこの無限の意志が、限られた範囲でしか機能しない理性のテリトリーを超えて、その外側の真実を目指すとき、誤謬が発生すると説きます。どこかカントに通じるような発想かも。
ライプニッツはこれに対して、「いや、誤謬は計算ミスのようなものだ」と反対意見を述べています。
またスピノザもこれに関して、「意志が思考能力よりも広く及ぶことはないと思う」と言っています。
「思う」には何が含まれるのか
「我思う、ゆえに我あり」といいますが、そのときの「思う」がかなり幅広い内容をもって使われているということ。
「実体」とは何か
実体はデカルトのみならず、スピノザやライプニッツを理解するうえでも必須になる、超重要概念です。
実体は神だけですが、被造物のレベルでは精神と物体にも実体の地位が認められます。なぜなら神の助けだけで存在できるのは、この2つだけだから。
「物体的実体と、精神すなわち被造的な思惟実体とは、この共通な概念の下に理解されうる。それらは存在するために、ただ神の協力しか必要としない事物だからである。」
「延長が物体的実体の本性を構成し、思惟が思惟する実体の本性を構成する。」
それぞれの実体には一つの主要な属性があります。物体は延長、精神は思惟。このへんの話はスピノザを理解するためにも重要。
この角度から捉えると、デカルト、スピノザ、ライプニッツをまとめて理解することが容易になってきます。
向いている方向さえ正しければペースが遅くても進歩していける
正しい「方法」を知ることがいかに大事かという話。
強大な才能をもっていても、方法が間違っていたら悪い方向に伸びてしまう。才能がなくても、方法さえ正しければ進歩していけます。
数学をモデルに学問を組み立てる野心
デカルトは数学をモデルにして、すべての学問(とくに哲学)を一から構築しなおそうとします。
数学モデルにしたがって哲学を構築せんとするプロジェクトは、その後のヨーロッパ哲学、いわゆる大陸合理論を規定していきます。
これと別のアプローチを取ったのがイギリス経験論でしたが、そのイギリス経験論でも、数学モデルこそが真実の導き手だという発想はデカルトと共有していました。だからこそ、イギリス経験論は極端な懐疑主義へと邁進していったわけです。
哲学には数学的な演繹じゃなくて経験データが必要だ→でも経験は揺るぎない真実をもたらせない→哲学も自然科学も真実には到達できない、というふうに。
現時点から見るとデカルトの野望は無理がありますが、未来人の哲学や科学は、デカルトが構想したような数学的モデルで動いている可能性がなくはないと思います。
ストア的な徳の有効性
デカルトは哲学においてはすべてを疑いますが、私生活においては保守的な道徳を重んじ、またストア派から影響を受けていたようです。
このへんのバランス感覚はヒュームに通じるものがあります。
極端すぎる思考をする人だからこそ、日常においては穏健な指針を重視する、というのは珍しくない光景。
またスピノザのほうから振り返ってみると、デカルトの内部にはスピノザに通底する要素が多く見いだせることに気づきます。
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