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デカルトの名言&迷句を紹介【方法序説・哲学原理】

近代哲学の首領ルネ・デカルトの重要な文章&面白い文章を紹介します。

まずは『哲学原理』、次に『方法序説』から。


スタート地点で方向を間違えると努力するほどに真実から遠ざかる

人が間違った原理をもっているときには、それをさらに育てあげればあげるほど、そして、これこそ正しく哲学することであると考えて、そこからさまざまな結果を引き出すことにより細心に専念すればするほど、ますます真理の認識すなわり知恵から遠ざかるものです。それゆえ、これまで哲学と呼ばれてきたすべてのことを学ぶことが最も少なかった人こそ、最もよく真の哲学を学ぶことができる、と結論しなければなりません。

(デカルト『哲学原理』山田弘明・吉田健太郎・久保田進一・岩佐宣明訳、以下本書より引用)

スコラ哲学をふくむ従来のすべての哲学を打ち捨て、すべてをゼロからやり直さんとするデカルトの意志が感じられる文。

スコラは哲学のプロ集団であり、デカルトはアマチュアみたいなものだったわけです。その若者がこういうことを言っている。そう考えると、彼の自信と大胆さに驚きますよね。

特許庁で働いていたアインシュタインがニュートン力学をひっくり返した事態になぞらえると、デカルト革命のインパクトを想像しやすくなります。ちなみにニュートンの愛読書はデカルトの『哲学原理』でした。


神の存在は神の観念から自動的に導き出される

たとえば三角形の観念のうちにはその三つの角の和が二直角に等しいことが必然的に含まれていることを認識することから、三角形が二直角に等しい三つの角をもつことが明らかに確信されるが、それと同様に、最高に完全な存在者の観念には必然的で永遠な存在が含まれることを認識することだけから、精神は、最高に完全な存在者が存在する、と明らかに結論しなければならない。

いわゆる「神の存在論的証明」というやつ。神が存在することは、神の概念を調べることで証明できる、とするもの。

中世のアンセルムスがこれを主張しました。この主張はトマス・アクィナスによって批判されますが、デカルトはそれを復活させます。

さらにスピノザがこれを継承し、カントによって批判されるも、ヘーゲルがもう一度復活させるという複雑な歴史をたどります。


世界は瞬間ごとに連続的に創造され続けている

われわれがすでにあることから、われわれがすぐ次の瞬間にもあるであろうということは帰結しない。そのためには、何らかの原因が、すなわちわれわれを最初に産出した原因が、われわれをいわば連続して再生産する、つまり保存するのでなければならない。

いわゆるデカルトの世界連続創造説。

デカルトは時間をデジナルなものとしてイメージしています。今と次の今は細切れになっているわけですね。

そしてそのいずれの瞬間においても、神が世界を創造していると考えます。神ははるか昔に一度だけ世界を創造したのではなくて、あらゆる瞬間に世界を創造していると、デカルトは認識しています。


人間が神の性質を知ることは可能

神の観念によって神の存在を論証するという、このやり方には大きな利点がある。つまり、われわれの本性の弱さが許すかぎりで、神がどういうものであるかをわれわれは同時に知るのである。

人間には神を認識することはできない、というのが西洋哲学や神学の主流。

しかしデカルトはその考えに反対します。

確かに神の全体を知ることは人間にはできないけれども、その一端にふれることはたやすいことだというんですね。

トマス・アクィナスのように世界を観察し、そこから存在の類比によって間接的に神の影を垣間見る、といったアプローチではありません。

むしろ自分の内側へと潜っていき、そこに存在する神の観念をしっかりと観想することで神を知ることができる、とデカルトは考えます。

イメージに反してスコラのほうが自然科学的であり、デカルトは神秘家に近いですね。


神の啓示はすべてに優先する

神によって啓示されたことはすべて、それがわれわれの理解を超えていても、信じるべきである。

デカルトは神による啓示(知らせ)を何よりも重視します。理性が明晰にとらえた真理であったとしても、神の啓示には勝てません。

ここには極限的に哲学的な態度があるといえます。

たとえばアリストテレスやトマス・アクィナスは、神は論理体系のうちに世界を造ったと考えました。根源的なロジック(矛盾律など)は創造主でさえ反することのできないコードだ、という発想があるわけです。

これは穏健で常識的ですよね。

しかしデカルトは、あらゆる真理は神の意志に支えられていると見ます。

どんな論理法則や数学定理であろうと、それが真実であるのは、それが真実であるような世界を神が創造したからにすぎない。天使にはできなくとも、神であればそれらのコードを書き換えることは容易だというんです。


なぜアリストテレスの目的論は間違いなのか?

われわれは自然的な事物に関して、神あるいは自然がそれらをつくるときに立てた目的からその根拠を取り出そうなどとは、けっしてしないであろう。なぜなら、われわれは神の計画に参与していると考えるほどに思い上がるべきではないからである。

アリストテレスおよびそれを継承したスコラの自然学への批判。

アリストテレスは目的因のもとに自然を観察しました。

デカルトはそれを批判するのですが、その根拠が面白くて、「われわれには神の計画を理解することなどできないのだから自然の目的はわからない」というんです。


なぜ理性は真実を捉えることができるのか

自然の光つまり神からわれわれに与えられた認識能力は、その光によって捉えられているかぎり、つまり明晰判明に認識されているかぎり、真でないような対象を捉えることはありえない、ということである。というのも、もし神が、偽を真と受けとめるような歪んだ能力をわれわれに与えていたとするなら、神は当然、欺瞞者と言うべきだろうからである。

理性が明晰かつ判明に捉えたものは真である、とデカルトは考えます。

その根拠にあるのは神の存在。理性は単独で機能するわけではなく、その根底に神の存在があることで、数学や論理学をも疑うデカルト的懐疑から抜け出すことができます。


認識にエラーが発生するのは理性ではなく意志に原因がある

知性の認識は、知性に示されるわずかなものにしか及ばず、つねにきわめて限られている。しかし、意志はある意味で無限であると言われることができる。なぜなら、何かわれわれとは別のものの意志の対象、あるいは神のなかにある広大無辺な意志の対象でありうるもので、しかも、われわれの意志もまたそこに及ばないものは、まったく認められないからである。その結果、われわれは容易に意志を、明晰に認識するものの域を超えて及ぼすのである。われわれがそうしたことをする場合、謝ることがあっても全く驚くには及ばない。

デカルトは誤謬の原因を、人間の意志に求めます。かなり変わった考え方が展開されます。

デカルトによると、人間が神に似ているのは、この無限の意志においてだといいます。

普通は人間の理性に神とのつながりを見出すことが多いですよね。

しかしデカルトいわく、人間の理性はごくごく限られたものにすぎず、むしろその範囲をはるかに超える無限の意志こそが神に近いと。

そしてこの無限の意志が、限られた範囲でしか機能しない理性のテリトリーを超えて、その外側の真実を目指すとき、誤謬が発生すると説きます。どこかカントに通じるような発想かも。

ライプニッツはこれに対して、「いや、誤謬は計算ミスのようなものだ」と反対意見を述べています。

またスピノザもこれに関して、「意志が思考能力よりも広く及ぶことはないと思う」と言っています。


「思う」には何が含まれるのか

思惟という語で私が理解しているものは、われわれが意識しているときにわれわれのうちで生じており、しかもその意識がわれわれのうちにあるかぎりの、すべてのものである。それゆえ、知性で認識すること、欲すること、想像することだけでなく、感覚することもまた、ここでは思惟することと同じである。

「我思う、ゆえに我あり」といいますが、そのときの「思う」がかなり幅広い内容をもって使われているということ。


「実体」とは何か

「実体」ということでわれわれが理解しうるのは、それが存在するのに何ら他の事物を要さないような仕方で存在する事物に他ならない。そして、たしかにまったく他の事物を要さない実体は、ただ一つのもの、すなわち神しか理解されえない。

実体はデカルトのみならず、スピノザやライプニッツを理解するうえでも必須になる、超重要概念です。

実体は神だけですが、被造物のレベルでは精神と物体にも実体の地位が認められます。なぜなら神の助けだけで存在できるのは、この2つだけだから。

「物体的実体と、精神すなわち被造的な思惟実体とは、この共通な概念の下に理解されうる。それらは存在するために、ただ神の協力しか必要としない事物だからである。」

「延長が物体的実体の本性を構成し、思惟が思惟する実体の本性を構成する。」

それぞれの実体には一つの主要な属性があります。物体は延長、精神は思惟。このへんの話はスピノザを理解するためにも重要。

この角度から捉えると、デカルト、スピノザ、ライプニッツをまとめて理解することが容易になってきます。


向いている方向さえ正しければペースが遅くても進歩していける

大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある。また、きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。

(デカルト『方法序説』谷川多佳子訳、以下同書より引用)

正しい「方法」を知ることがいかに大事かという話。

強大な才能をもっていても、方法が間違っていたら悪い方向に伸びてしまう。才能がなくても、方法さえ正しければ進歩していけます。


数学をモデルに学問を組み立てる野心

数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。

デカルトは数学をモデルにして、すべての学問(とくに哲学)を一から構築しなおそうとします。

数学モデルにしたがって哲学を構築せんとするプロジェクトは、その後のヨーロッパ哲学、いわゆる大陸合理論を規定していきます。

これと別のアプローチを取ったのがイギリス経験論でしたが、そのイギリス経験論でも、数学モデルこそが真実の導き手だという発想はデカルトと共有していました。だからこそ、イギリス経験論は極端な懐疑主義へと邁進していったわけです。

哲学には数学的な演繹じゃなくて経験データが必要だ→でも経験は揺るぎない真実をもたらせない→哲学も自然科学も真実には到達できない、というふうに。

現時点から見るとデカルトの野望は無理がありますが、未来人の哲学や科学は、デカルトが構想したような数学的モデルで動いている可能性がなくはないと思います。


ストア的な徳の有効性

「必然を徳とする」ことによって、病気でいるのに健康でありたいとか、牢獄にいるのに自由になりたいなどと望まなくなる。

デカルトは哲学においてはすべてを疑いますが、私生活においては保守的な道徳を重んじ、またストア派から影響を受けていたようです。

このへんのバランス感覚はヒュームに通じるものがあります。

極端すぎる思考をする人だからこそ、日常においては穏健な指針を重視する、というのは珍しくない光景。

またスピノザのほうから振り返ってみると、デカルトの内部にはスピノザに通底する要素が多く見いだせることに気づきます。


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