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西田幾多郎の『善の研究』をざっくり解説

西田幾多郎(1870-1945)の哲学といえば、日本における哲学の誕生地点。

みずからの禅修行と西洋の最新哲学を融合させ、オリジナルの思想を展開。単なる西洋哲学の紹介でもなく、文学や芸術による思想の表現でもない。日本人によるThe哲学の誕生でした。

西田は思想に加えて本人のパーソナリティにも強烈なものがありました。数々の天才や秀才を引きつけ、「京都学派」と呼ばれる一大知識人グループを形成。鎌倉仏教か京都学派かといわれるほどの、日本思想史上の特異点を演出します。

その西田幾多郎のデビュー作が『善の研究』。明治44年に発売されたこの本、現在までの売上は100万冊を超えています。

どんなことが書かれているのか?

以下、わかりやすく解説します。

なお『善の研究』を読むなら訳注のくわしい講談社学術文庫バージョンがいちばんおすすめ。


西田幾多郎の生涯

西田は1870年に生まれ、1945年に没します。

明治維新の直後に生を受け、第二次大戦敗戦の直前にこの世を離れる。日本の近代を代表する思想家として、時期が図ったかのように象徴的。

西田は自分の生涯をふり返って次のように言っています。

回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。

西田幾多郎『続思索と体験』

学生のころは数学を志すか哲学を志すかで悩んだそう。先生からは「哲学は論理力だけでなく詩人のような想像力も必要だからよしておけ」と言われますが、無味乾燥な数学に一生を捧げる決意がつきかね、結局は哲学を選びます。

高校は中退。その影響もあって大学には東京帝国大学の選科生として入学します。

本科生の欠員の埋め合わせ要因として募集されるのが選科生で、その待遇は天と地の差があったよう。西田は次のように回顧します。

私は少し前まで、高校で一緒にいた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷づけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。

前掲書より

夏目漱石と隣の席になったこともある模様。

有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント。ドロテーア』を読んでたように覚えている。

前掲書より

卒業後は中学校や高校の教師として生計を立てていきます。科目はドイツ語や倫理。

この頃には、名家だった実家も没落していました。

父の得登が相当なトラブルメーカーだったようで、その行状がたたり財産はことごとく消失。西田本人は父と絶縁状態、母や他の子どもたちも父から離れます。

得登の遺言には家族に向かって「死んだらかならず祟ってやる」といった内容が書かれていたといいます。

この時期に結婚した西田でしたが、父がなんらかのトラブルを起こし親戚間で修羅場が展開、それを受け西田とその妻はすぐに離縁状態になります(父の死後に復縁)

このてんやわんやの状況のなかで西田がはじめたのが座禅でした。それ以前から禅への傾倒はあったとはいえ、本格的に座りはじめるのはここから。後年の彼の哲学において、この禅体験がきわめて重要なものとなっていきます。

1904年には日露戦争で弟が戦死。その3年後には次女と五女を亡くします。

39歳のときに学習院の教授に任じられ、その翌年にはついに京都帝国大学の助教授となります。ここから西田の京都暮らしが始まるわけです。

『善の研究』が発売されたのはさらにその翌年のこと。

西田はその哲学的能力と人格の異様な力でもって、数々の才能を引きつけ、いわゆる「京都学派」が形成されていきます。

波多野精一、田辺元、和辻哲郎、戸坂潤、高坂正顕、三木清、西谷啓治、唐木順三、高山岩男、下村寅太郎、九鬼周造といった異様に強力な面々。親友には鈴木大拙、教え子のほうには近衛文麿もいます。

しかし私生活においては相変わらず試練が連続していました。

48歳のときに母が亡くなります。その翌年には妻が病に伏し、以降5年間寝たきりに。50歳のときに長男の謙が死亡。翌年には四女と六女がチフスで入院。55歳のときには病に伏していた妻が亡くなります。

この頃が西田の精神生活においてもっとも暗い時期でした。

61歳で再婚。ここでようやく私生活に平穏がおとずれます。

哲学の仕事に集中できるようになった西田は、リューマチによる10ヶ月の寝たきり生活や長女の死などに打ちのめされつつも、1945年に没するその直前まで絶えることなく論文を発表していくのでした。

ただし晩年には公的な生活においても試練が来ます。

第二次大戦へと突き進む日本。陸軍は大東亜共栄圏のモデルを具体化するために会議を開くのですが、その根本理念について西田に意見を求めました(西田や大拙は皇室に直接アクセスできる地位にいた)

それに対して西田がしぶしぶ出した返答が「世界新秩序の原理」と呼ばれる文書です。

彼はこのなかで大東亜共栄圏の意味を組み換え、日本の主体化(要するに帝国主義)を批判。日本はむしろ世界化しなくてはならないと説きます。その世界化のロジックとして自身の哲学を援用したのでした。

しかし当然ながら西田の文化的な理想論は受け入れられず、彼は当時の主流派から戦争に非協力的だと批判されます。

西田が没した2ヶ月後、日本は敗戦をむかえます。

戦争への反動から、学会ではマルクス主義者たちが圧倒的な力をもつようになりました。すると今度は、西田は「戦時体制を理論的に補強した戦争イデオローグ」として批判されるようになるのです。

1991年にソ連が崩壊。マルクス主義は退潮し、日本のアカデミズムは軸を失います。良くも悪くも事態はこうなって、ようやく西田哲学を冷静に評価できるようになりつつある、というのが現状です。

西田の伝記は上田閑照『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫)が最高傑作。


『善の研究』と純粋経験一元論

さて西田幾多郎のデビュー作たる『善の研究』、どんなことが書かれているのか?

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