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ニーチェの哲学をざっくり解説【ニヒリズム・超人・永遠回帰】

現代日本でもっとも人気のある哲学者はたぶんニーチェ(1844-1900)。

でも彼が実際になにを主張したのかと聞かれると、いまいちよくわからないですよね。

短文を使っていろんな角度からいろんなことを主張しまくるスタイルなので、ひとつの観点から切り取ることが難しいんです。

しかしこの記事ではそれを試みようと思います。

ここでは清水真木の研究にしたがって、ニーチェ本人が主要著作の序文に書いた方向性をもとにその思想を整理してみます。

その序文というのは、「7つの序文」と呼ばれる文章。売れない著作の宣伝のため、7つの作品にニーチェ本人があとから付け足した序文のことをいいます。

ここでニーチェは、自分の思想がどう読まれるべきかを解説しているんですね。キーワードは「健康と病気」です。この観点から整理してみると、彼の哲学は驚くほど見通しがよくなるんです。


ニーチェの生涯

ニーチェが生まれたのは1844年のドイツ地方。

ドイツといえば哲学の中心地といった印象があります。ニーチェ以前ならライプニッツ、カント、ヘーゲル。ニーチェ以降ならフッサール、ハイデガー。

しかしニーチェが生きた時代のドイツはちょうど哲学の暗黒時代。科学をいかに基礎づけるかみたいな仕事に汲々とし、独創的な思想が現れない時期でした。この時代において、ニーチェはアウトサイダー的な存在です。


ニーチェはキリスト教牧師の息子として生まれ、当初は神学を学んでいました。

子どもの頃から学業は優秀で、高校は名門プフォルタ学院に入学。1日のうち大半がギリシア語とラテン語の学習に充てられるというエリート校で、これがのちの古典文献学の仕事に活きてきます。

ちなみにニーチェは数学が苦手で、試験ではひどい点数をとっています。しかしギリシア語とラテン語の成績が飛び抜けていたため、「これほどの天才的生徒を数学の点数を理由に卒業させないのは逆に恥だ」ということになり、なんとかプフォルタ学院を卒業できました。


大学はボン大学で神学を専攻。しかし途中で古典文献学に専門を変え、ライプツィヒ大学に籍を移します。

文献学の首領リッチュルに才能を見出されたニーチェはまたたく間に出世。24歳にしてバーゼル大学の助教授に就任します。しかも教職に必要な資格をもっていなかったにもかかわらず、特例で助教授になったのでした。例外的な天才の扱いを受けていたことがわかります。

音楽家ワーグナーとの出会いも24歳のとき。ともに愛読していたショーペンハウアーの話題で意気投合。ニーチェはワーグナーのカリスマ的人格に大きな影響を受けます(のちにビジネスマン的な振る舞いが多くなっていくワーグナーに幻滅し離反)。


ニーチェの人生に暗い影が射したのは26歳のときでした。

この年、普仏戦争が勃発。柄にもなく「国粋主義の発作」(byドイセン)を起こしたニーチェは、看護兵として従軍することを決めます。

しかし看護の職務中にニーチェは赤痢とジフテリアに感染、そのまま入院。この地点から死に至るまで、ニーチェの身体が健康を回復することはありませんでした。

ニーチェは教職を続けることが困難となり、大学を去ります。

バーゼル大学からは年に訳200万の年金が支給されることになり、これ以降のニーチェは健康に細心の注意を払いながらヨーロッパを転々とし、ほそぼそとした生活を送ります。


38歳のときにロシア人女性のルー・ザロメ(当時21歳)と出会います。異常なほど知的なこの女性は、ニーチェの思想を見事に理解してみせます。

自分の思想の理解者にはじめて出会えたことに感激したニーチェは、その勢いでルーに求婚しますが、即座に断られます。

しかもあろうことか友人のパウル・レーがルーと恋仲になり、ニーチェを置き去りにして駆け落ち。残されたニーチェは失意の底に沈みます。

その後なんとか『ツァラトゥストラ』を完成させるもこれといった反応はなし。それまでの著作もすべて世間から評価されていませんでした。ここにきてニーチェは初めて、自分の才能を疑います。

自分の思想を打ち出すだけのアプローチじゃ埒が明かないと思い知ったニーチェ。ここから彼は、わかりやすく自分の思想を解説する啓蒙的な役割の著作を出していく戦略をとります。そのスタートが『善悪の彼岸』。7つの著作に7つの序文をつけ足す作業をしたのもこのときでした。

この作戦が功を奏し、少しずつニーチェの評判は上がっていきます。

しかしニーチェには、みずからの成功を目の当たりにする時間は残されていませんでした。まもなくして精神の破局が訪れたからです。


『ツァラトゥストラ』の完成から4年後の1889年、ニーチェの知人たちのもとに謎の手紙が大量に送りつけられます。異変を感じたオーバーベックがニーチェのもとを訪ねると、すでに彼は精神錯乱者になっていました。

オーバーベックの手配でニーチェはそのまま精神病院に入院。それから1900年の死に至るまで11年間、彼の精神が正気を取り戻すことはありませんでした。

なんの病気だったのかはいまだに解明できず。現代医学の知見をもってしても、非常にミステリアスな病状だったようです。

ある証言によると、ニーチェは散歩中におかしくなったらしい。馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、涙を流しながら馬の首に抱きついてそのまま気を失ったと。

このエピソード、ドストエフスキー『罪と罰』(1866年発売)に出てくるラスコーリニコフとそっくり。だから『罪と罰』を意識して作り上げられた偽の証言なんじゃないかという気がします。

もしこの証言が本当だとしたら、ニーチェの行動にラスコーリニコフの影響が出たのか、それとも偶然の一致なのか、興味深いところです。


悲劇の誕生とニーチェのコア思想

ニーチェのデビュー作は『悲劇の誕生』。

ギリシア悲劇を論じた内容です。同時に「ソクラテス主義」を批判することが狙い。ここに彼の思想のコアがすでに確認できます。

ニーチェにとってのギリシア悲劇とは何か?

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