見出し画像

支配構造の起源

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回は「支配構造の起源」というタイトルの記事です。


支配構造の起源

今回は社会がどのように支配構造を形成してきたのかを見ていきましょう。支配の根幹をなす要素として、私たちが生物であること、お金の存在とその意味、現在の権力者たちのルーツについて論じたいと思います。

権力を生み出した人類

人間という奇妙な生き物

政治学の議論で自然という概念は環境問題において考慮されていますが、宇宙や地球の歴史という文脈を含む人類史や自然史レベルの議論はあまりなされることはありません。ジャン=ジャック・ルソーが原始社会というものを想定したあの時代よりも、現在は人類史・自然史・地球史についての理解が深まっています。
しかし政治は過去・未来・可能性よりも現在・現状に焦点があてられ、権威化された今の国会や行政に近いものと深く結びつく傾向にあると思います。生物としてのヒトという視点を加味した発展的な議論が憲法学などの骨格となるような日は残念ながら当面訪れないでしょう。
ここで地球の生命の歴史について少しだけ触れたいと思います。地球はおよそ46億年前に誕生したと言われています。その後、遺伝情報を持った細菌や古細菌などの生物が誕生し、更に細胞内共生によって細胞小器官をもった真核生物が生まれました。真核生物のコロニーは全休凍結と呼ばれる大氷河時代を生き抜き、やがてコロニー内での細胞間の結びつきが強くなり分業が進んだ結果、多細胞生物へと進化していきました。
臓器や生殖細胞、神経細胞などを手にした海の様々な生物の中から、やがて光受容体を高機能な眼に進化させたものが現れました。これにより激しい自然選択が展開され、生物は爆発的な多様化と大進化を起こしました。
現在生きる私たちの欲求や感情も自然選択を生き抜くために形成された、私たちの祖先となる生物が生存競争を生き抜いた膨大な歳月の痕跡と見ることができると思います。
そして同時に、現代人として生きる私たちの生活にとって、欲求や感情は、喜びや感動をもたらすと同時に、時に自制が困難なほどに煩わしいものでもあります。場合によってはその欲望や感情の表出の結果として、深い後悔と反省をもたらすことさえあります。
これまでの人生で自分に小さくない苛立ちを覚えたことはありませんか?それは私たちが普段言語によって理解している人であるよりも、遥かにずっと獣であり動物であることが原因かもしれません。社会の規範や要請に従う中で、自分の動物性を忘れてしまうことは普通にあることだと思います。

生物界に君臨する暴君

地球を恐竜が支配していたいわゆる中生代、哺乳類の祖先となる生き物は小さな体で彼ら恐竜の餌にならないように逃げまわっていました。もちろん、自分たちの餌となるさらに小さな生き物を追いながらと付け加える必要はあるでしょう。
その時代の多種多様な恐竜たちは、彼らにとってもしかすると神話に出てくるような怪物のように見えていたかもしれません。しかし現在のメキシコのユカタン半島北部に隕石が衝突すると、地球の支配者たる恐竜は荒廃してしまった環境を生き抜くことができずにたちまち絶滅していきました。
彼らが消えた領域は彼らの生き残りである鳥類と、爬虫類と別の進化を遂げていた哺乳類が埋め尽くしていき、多様な進化を果たしました。膨大な時の流れの後に哺乳類の中から二足歩行をはじめ、大きな脳を獲得した人類がじわりじわりとアフリカの小さな領域から世界へと広がっていきました。
集団による狩りで圧倒的な力を手に入れた彼らは、やがて自然界の他の様々な生物を管理する術を獲得していきました。オオカミが家畜化されて犬となったことを皮切りに、羊、山羊、豚、牛、鶏など様々な動物が家畜化されていきました。また人類は並行して小麦、大麦、米、豆などの植物を栽培する方法を身に着け、食料の供給を安定させることに成功しました。
人類は進化の過程で自分自身を家畜化していったという考えがあります。それは犬を家畜化するよりもずっと前に始まったと考えられています。家畜化の特徴の一つは脅威に対して怒りの反応が弱く、従属的になることです。それは家畜ばかりではなく人類にも当てはまります。もしかすると人間も家畜化されていった他の動物と同じように支配されるべく進化してしまったといえるかもしれません。
もちろん他の家畜とは異なり、他者を自分の思いのままに屈服させ抑圧する支配者としての道も開かれたと付け加える必要があるでしょう。また、自己家畜化は言葉を用いた陰謀による影響が大きいとも考えられています。
支配されるものへの同情や共感が感じられない場合、人は恐ろしいほど残忍なことを簡単に行えます。子供たちのイジメから政府による民族浄化に至るまで、残念ながら私たちは常に人間の暴力と共に生きなければならない宿命にあります。もちろん私たちはそれを歓迎すべきではありません。

世界の創造者としての人類

話をもどしますが、声や文字による言葉を発達させた人類は、少しずつ自分たちが生きている世界に対して意味づけを行うようになっていきました。その意味づけは人間の精神世界を反映させた創造性豊かなものですが、同時に不正確なものだったと言わざるをえないでしょう。人類は想像的な神話や聖典を世代をまたいで長い歳月をかけて構築していきました。
人類は森羅万象に対して有形無形に関わらずそれらに人格を投影し、そこに霊的なもの、あるいは神的なものを感じ取り、そこからさまざまな神々を生み出しました。石や草が実際に神や精霊であるということについては様々な見解があると思いますが、人間の精神が様々な対象を人格化する傾向にあるという点は認めるべきでしょう。
原始社会では精霊信仰が一般的でしたが、やがて南アジアで一神教的な宗教観が見られるようになり、イランでも善悪二元論に基づく一神教のゾロアスター教が誕生し、神の審判を説く終末論が信仰されるようになりました。古代パレスチナでも元々は従来型の多神教が信仰されていましたが、その後ヤハウェを絶対的な神とみなし、更に道徳を神に由来するものとしたユダヤ教が誕生しました。
現在、ユダヤ教を起源とするキリスト教、イスラム教を含めたアブラハムの宗教を基礎とした文化が人類において圧倒的な影響力を誇っています。人類は自らを家畜のような被支配的な存在に進化させていきましたが、更に超自我とでもいうべき絶対的な神を自ら創造することによって自らを管理する方法を手にしたと言えるかもしれません。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェはその著作において、キリスト教を奴隷道徳といって激しく批判しました。ニーチェの理屈の是非はともかく、人類が生み出す宗教そして文化・文明は、もしかすると例外なく人々を隷属化するプログラムとして機能している側面があるかもしれません。
宗教から科学に至るまで人類が生み出してきた統治機構は、不条理や不公平とは無縁とはなりませんでした。現時点でこれを克服できる兆しはほぼ見られないといっていいと思います。
私たち人類は悲しみや嫌悪、恐怖や怒りといった負の感情が進化によってプログラムされています。それは同時に生物として生き抜くために構築された欲求であり反応であるもいえます。私たち人類は規範や信仰対象に不満を抱くたびに、これからも新しく従うべき規範や信仰対象を再構築していくことでしょう。
それはかつて神話や聖典が生み出されたのと大きな違いはなく、ツールが電子的なものに移り変わっていくだけかもしれません。

銀行はどのように発展したのか

人類はこれまで自らを管理する宗教観や世界観、統治機構や社会システムを数多く生み出してきました。現代社会において最も支配的なシステムの一つ、中央銀行システムもその一つと言えるでしょう。それでは中央銀行が誕生するまでの簡単な歴史について触れていきます。

貨幣の誕生

銀行を理解するためには貨幣の歴史を理解することが必要です。アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーは貨幣が誕生する以前は貸し借りの存在が大きかったと主張しています。これまで貨幣が誕生する以前は物々交換が行われていたと言われてきました。しかしその明確な証拠は実際には存在せず、人類は贈ったり与えたり、貸したり借りたりすることから貨幣概念を形成していったという考えが生まれています。
貨幣は金属や紙などを媒介として商品やサービスと交換する交換貨幣と、帳簿のように貸し借りや費用・利益の関係を記録する勘定貨幣という二つの形態を持って発展してきたとみなすことができます。
今からおよそ1万年ほど前、古代の中近東で団子状の粘土トークンを使用した会計システムが生まれたとされています。粘土トークンは作物や家畜を集団管理するために使用され、はじめは単純な形のものだけでした。やがて管理する対象が増えていき、その対象を示すための複雑な形状のものが生み出されるようになりました。このトークンの使用は人類の数字の概念の発達を促しました。
彼らはトークンを管理するためにそれをブッラと呼ばれる粘土容器に入れて管理しました。中に何が入っているかをブッラの表面に分かるように様々な印がつけられました。この印に様々な意味が与えられることによって利便性が極めて高くなり、次第にブッラの中に封入されたトークンの意味が失われていきました。この印というのが楔形文字の起源となり、その後私たちが現在使用している多くの文字へと発達していきました。
紀元前3000年ごろにメソポタミア南部でシュメール人による都市国家が形成され、青銅器を用いた最古の文明が生まれました。シュメールや小アジアのヒッタイトでは奴隷制を規定する法律が作られ、古代エジプトでもやがて奴隷貿易が始まりました。
貨幣や文字の発達により人類は文明を進展させる速度を急激に上げていきましたが、同時にそのために人間の奴隷化も進んでいきました。犯罪者や捕虜のほかに、債務を負ったものなどが奴隷としての肉体労働や雑役を強いられました。
古代アテナイでは人口の30%が奴隷だったと言われています。この時代の偉大な哲学者アリストテレスは、ギリシア人以外のものは生まれながらに奴隷であり、従順であること以外には何もないと述べています。しかしそんなアテネでも次第に奴隷制に対する反対する声も聞こえるようになっていきました。

硬貨の歴史

現在世界では高額な通貨として紙幣が使われ、より安価な通貨として硬貨が使われています。歴史を振り返ってみれば古代文明が始まって以来金属性の硬貨が交換貨幣として支配的な役割を演じてきました。
金属貨幣が誕生する以前は穀物や家畜、アナトリアでは武器の道具となる黒曜石などが交換貨幣として使用されていたと考えられています。
世界最古の金属貨幣は青銅器時代後期に生み出されたと考えられています。その昔中国ではタカラガイの貝殻が貨幣として使われていましたが、その模倣品として青銅製の銅貝とよばれる貨幣が使用されるようになりました。
鉄器時代に入るとアナトリアでは金と銀が混ざった硬貨が使用されるようになりました。ギリシャのアイギナ島ではアルゴス王フェイドンによってスタテルと呼ばれる硬貨の造幣所が設立されました。その後トルコ西部にあったリュディアが国王クロイソス時代に純度の高い金貨や銀貨を鋳造することに成功したと言われています。
アテナイに属したラウリオンと呼ばれる地で銀が大量に採掘されるようになると、アテナイは銀貨の供給力によって貿易における支配力を増大させていきました。一方で銀山で働く奴隷の労働環境は非常に劣悪であり、アテナイとスパルタとの間で戦争が起こると、2万人にもおよぶ奴隷たちがスパルタに逃亡したと言われています。
共和制ローマでは当初、鋳造されていない粗い青銅を貨幣として用いられていましたが、しばらくして造幣所がローマのカピトリヌスの丘にあったユーノーの神殿内に設置されました。
ユーノーは結婚や女性を保護する女神であり、貨幣の製造を司る女神にもなりました。ユーノーは「忠告」を意味するモネータという添え名が与えられましたが、このモネータという呼称は英語のマネーの語源となりました。

銀行の歴史

硬貨の次は銀行について見ていきましょう。古代バビロニアのハンムラビ法典には銀行業務を規制する法律があり、紀元前18世紀頃には銀行業務が発達していたことがわかっています。その起源は更に2000年も前だったのではないかといわれています。
古代バビロニアの銀行システムでは主に神殿に蓄えられた富をもとに融資が行われましたが、作物の種を供給してもらうことで、収穫時に返済するといった取引も生まれました。取引の利息に関する合意が文書として記録されている粘土板が今も残っています。
バビロニアの銀行家として紀元前6世紀頃のエギビ家や、バビロン捕囚で連れてこられたユダヤ人のムラシュ家などが知られています。
古代ギリシアでも神殿において金融取引が行われたようです。特にエフィソスのアルテミス神殿、サモス島のヘラ神殿、デルフィのアポロ神殿が重要だったといわれ、預金・両替・融資などが行われました。
古代ローマではユーノー・モネータ神殿などにお金が預けられていましたが、その後神殿だけでは管理しきれなくなり、次第に私的にサービスを提供する者が現れました。
市場で銀行システムが発達したことによりローマ市民は多くの商品を購入できるようになりましたが、一方で借金なしで生活することが難しくなっていきました。
ローマの銀行家に対する規制は当初ほとんど存在せず、顧客は銀行の信用に頼っていました。銀行の準備金は顧客の預金総額よりも少ない危機に脆いシステムであり、そもそも銀行家は顧客の預金を保証する義務さえありませんでした。
やがてローマ帝国で銀行への規制が強化されるようになり、更にキリスト教がローマ帝国の国教に定められると、利息の請求は不道徳なものとみなされるようになり、銀行業は一時的な終わりを迎えました。
中世になると、十字軍の遠征に多額の資金が必要となり、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団がイギリス王室の銀行家の役割を果たすようになります。彼らが生み出したシステムは遠征軍が強盗に遭って資金を失うリスクを軽減させることに成功しました。
他に公営の質屋であるモンテ・ディ・ピエタや、バチカンの財務局などのもとで銀行や金融業務が行われるようになっていきます。
イタリア北部のフィレンツェ、ヴェネツィア、ジョノヴァといった都市でも銀行業が息を吹き返し、ロンバルディアの商人たちが銀行家としての地位を確立していきました。
この頃、マラーノと呼ばれたユダヤ人たちがスペインの迫害を逃れてイタリアに避難してきましたが、イタリアに土地を持つことができませんでした。そのため彼らは広場やホールにテーブルを設置して商売を始めたわけです。
ユダヤ商人たちは次第に銀行業に魅力を感じるようになりました。ユダヤ教では旧約聖書などで利息を取ることを禁止しています。しかしユダヤ人ではない相手ならば利息を取っても構わないという解釈も存在しました。
ユダヤ商人たちは農作物を担保に農民に貸し付けたり、農作物を出荷するときに農民たちに前払いすることにより利益を生み出しました。融資以外にも不作に備えた保険を農民たちに提供しました。
キリスト教徒も次第に法律の抜け道を考え出していき、無利息で貸付を行うという形式のまま、様々な金銭的要求を加えるようになりました。このため、次第にヨーロッパにおけるユダヤ商人の優位性は薄れていきました。
またフィレンツェの銀行家たちがヨーロッパ各地に支店を設けるようになると、銀行家のメディチ家が実質的なフィレンツェの支配者となるなど栄華を誇るようになりました。ロンバルディアの商人たちもフランスなど西ヨーロッパに進出し、ロンドンにはロンバード街と呼ばれる金融街を形成していきました。
オスマン帝国ではスペインから逃れてきたユダヤ人のメンデス家がヨーロッパ型の資本主義を導入することに成功し、巨万の富を手に入れました。イスラム法においてイスラム教徒は銀行業を禁止されていたため、ユダヤ人はイスタンブールやバグダッドで繫栄することに成功しました。
また、中世ヨーロッパでは金細工職人がギルドを組織していましたが、彼らは非常に裕福で、金を扱っていたことから貴重品の保管を請け負っており銀行としての役割を担っていました。預かる際に金属の純度を証明する領収書が発行されましたが、領収書は譲渡することができず、貴重品の回収を行えるのは寄託者だけでした。
のちに、金細工職人は預金者に代わって金の貸し出しを行うようになり、ロンドンの金細工職人の信用取引がイギリスの銀行業の先駆けとなりました。

中央銀行の歴史

1609年に創設されたアムステルダム銀行は最初の中央銀行と表現されます。当時のアムステルダムでは様々な国や地域で鋳造された500種にもおよぶ硬貨が流通していました。しかし為替レートを決定する優れたシステムが存在しませんでした。アムステルダム銀行ではこれらの硬貨と貿易で使用できる通貨との交換できました。
アムステルダム銀行に求められた役割は、貨幣の価値を安定させること、国際的な決済を容易にし、勝ちのある金貨と銀貨を適切に供給すること、銀行の外貨準備高を悪貨の流入から守ることなどでした。
銀行の経営は議会によって選出された委員会によって経営されました。委員の中にはオランダ東インド会社や西インド会社の関係者もいて、オランダ東インド会社と取引する場合、アムステルダム銀行を介する必要がありました。
アムステルダム銀行は銀本位制を採用していました。スペインとオランダ共和国の間でミュンスター条約が締結されると、スペインのカディスとボリビアのポトシから大量の銀がアムステルダムに持ち込まれるようになりました。アムステルダムのグルデンと呼ばれる銀行通貨は国際基軸通貨として地位を築きました。
アムステルダム銀行は預金者に対して手数料を受け取ることで成立していましたが、次第に東インド会社などに対して多額の貸し付けをしていたことが発覚しました。1790年にアムステルダム銀行は債務超過であることを宣言し、市の管理下に置かれることとなりました。
1814年にオランダ銀行が設立されてアムステルダム銀行の貨幣発行業務が引き継がれ、アムステルダム銀行は1819年に清算されました。
スウェーデンでは1657年にヨハン・パルムストルックによってストックホルム銀行が設立されました。ストックホルム銀行は現在のスウェーデン国立銀行の起源であり、現存する最古の中央銀行として知られています。
ちなみにノーベル経済学賞は正式にはアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞といい、スウェーデン銀行の創立300年を記念としてノーベル財団に新しく承認された賞です。
銀行が設立された当時のスウェーデンでは銀貨と銅貨が使用されていましたが、銀貨は価値が高く、銅貨は大きくて重量があったために銀貨が買い占められ、一般には不便な銅貨が流通していました。
ストックホルム銀行は預かった硬貨を融資に当てましたが、預金が短期であったのに対して融資は長期に及んだために、預金を引き出せないという問題が発生しました。更に1660年に銅貨の含有率が引き下げられたため、預けていた銅貨のほうが価値が高くなったために、預金者は返還を求めるようになりました。
パルムストルックはこの解決方法として紙幣を導入することを考え出します。紙幣は自由に譲渡することができ、将来の硬貨による支払いを約束する預り証として発行されました。この時の紙幣が銀行券の始まりです。
紙幣は持ち運びが容易であり、重量のある銅貨よりも便利だったために急速に普及していきました。銀行券は無制限に印刷することができ、銀行に蓄えられていた預金に依存しなくなりました。
次第に紙幣の価値は暴落していったため、1667年には銀行は清算され、パルムストルックは爵位を剥奪され、永久追放、さもなくば死刑が宣告されました。その後この判決は取り消されましたが、彼は投獄されることとなりました。

帝国主義とイングランド銀行

1694年、イギリスの現在の中央銀行であるイングランド銀行が創設されました。イングランド銀行は現在の多くの中央銀行のモデルとなっている銀行です。
イングランド銀行が創設された当時の西ヨーロッパではフランスはルイ14世のもとで拡大政策が進められていました。1686年、これに対抗する形で神聖ローマ帝国を中心にフランスの近隣諸国の間にアウクスブルク同盟が結ばれました。
名誉革命により1689年にウィリアム3世がイングランド国王に即位すると、イングランドもフランスに対抗すべくこの同盟に参加することになりました。
フランスと同盟国との間で戦争が起こり、イングランドはオランダと連合艦隊を組織してフランスに対抗しました。しかしイギリス南部に位置するビーチーヘッド沖で敗北してしまい、英仏海峡の制海権をフランスに握られてしまいました。
ウィリアム3世はフランスに匹敵する艦隊の建設を目指しましたが、ロンドン政府にはそのための資金力がありませんでした。また、政府の信用も低かったため資金を借りることもできませんでした。
船の建造に必要だった120万ポンドを調達すべく、1691年にスコットランド人のウィリアム・パターソンが銀行の創設を提案しました。1694年に彼は財務府長官となったチャールズ・モンタギューとともにイングランド銀行を設立します。
イングランド銀行は銀行券を発行することが許可されていました。政府に地金を渡すと銀行券が発行され、その銀行券もまた貸し出すことができたため、目標の120万ポンドは僅か12日間で調達することに成功しました。
イングランド銀行の設立には、当然のことですが、それまで銀行の役割を担っていた銀細工職人や質屋などから反対の声がありました。またチャールズ・モンタギューがウィッグ党員だったこともあり、その後イングランド銀行の支配権はウィッグ党が握っていくようになりました。
銀行は1734年に現在のスレッドニードル街に移転されました。後にイングランド銀行は皮肉交じりに「スレッドニードル街の老婦人」と形容されるようになります。
イングランド銀行ではやがて紙幣の過剰印刷が行われ、それにより金の供給が追いつかない事態が発生しました。更にフランス革命期に、イギリスはフランス革命政府と戦争状態になったため、イングランド銀行から金が流出する事態となりました。
小ピット政権は1797年に紙幣で金を払い戻すことを禁止して金の流出を食い止めました。これによりイギリスでは金貨や銀貨ではない紙幣による経済が一般化していきました。
イングランド銀行はイギリス東インド会社に融資を行い、インドをはじめとするイギリスの植民地政策に多大な影響を与えました。19世紀に入るとイギリスはその資金力を背景として大英帝国として世界の覇権を握り、「世界の警察」としての役割を担うようになりました。

ユダヤ人問題とは何か

次にユダヤ人問題に焦点を当てていきます。中世に金融業によって富を築き上げたユダヤ人は一時的に衰退の道を歩みましたが、現在の世界の金融界ではユダヤ人が重要な役割を演じています。学校の歴史の教科書ではあまり触れられていないユダヤ人の歴史について私たちは理解していく必要があります。

古代イスラエル

旧約聖書のモーセ五書、ユダヤ教ではトーラーといいますが、創世記や出エジプト記などの民族創世神話は、神話としては興味深いですが、歴史としてはあまり参考にすべきではないでしょう。この点ははじめに断わっておく必要があると思います。
古代イスラエルの起源はパレスチナ(南レバント)のカナンの文明に見ることができます。青銅器時代後期のカナンは、地理的にエジプト・ヒッタイト・ミタンニ・アッシリアなどの帝国に囲まれた地域でした。
紀元前15世紀にカナンはナイル川の恩恵を受けた当時としては先進的な古代エジプトの支配下に入ることとなりました。紀元前13世紀になると、チャリオット(戦車用馬車)を主戦力とするアナトリア(現在のトルコ)のヒッタイトが南下してきたため、パレスチナはヒッタイトとこの地を支配するエジプトとの紛争地帯となりました。
ヒッタイトとエジプト新王国がほぼ同時期に滅亡すると、支配されていたフェニキア人やイスラエル人たちによる都市国家がパレスチナの地に形成されていきました。そこで後にラテン文字やキリル文字の起源となる表音文字のフェニキア文字が生まれます。
やがてパレスチナはサマリアを首都とするイスラエル王国とエルサレムを首都とするユダ王国という二つの王国に統一されていきました。しかし紀元前720年頃にイスラエル王国は新アッシリア帝国によって滅ぼされ、ユダ王国もまた新アッシリア帝国の属国となりました。さらに紀元前609年にエジプト第26王朝からの侵攻を受けてユダ王国はその支配下に入ります。
時を同じくして新バビロニアが新アッシリア帝国を滅ぼして中東の一大勢力となりました。紀元前597年に新バビロニアはユダ王国も服属させます。ユダ王国は新バビロニアに反旗を翻しましたが、紀元前587年に新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされました。
聖書の記述によると、ユダ王国の国王ゼデキヤはエジプトと結んで新バビロニアに対抗しようと試みましたが、589年に新バビロニアによってエルサレムは包囲され、587年に城壁が突破され征服されたとあります。このときユダヤ人の聖なる神殿、ソロモン神殿が破壊されました。
ゼデキヤの息子や臣下は処刑され、ゼデキヤ自身も両目を抉り取られてバビロニアに囚人として連れていかれました。その後、旧ユダ王国領内のユダヤ人たちもバビロニアに捕虜として連行され、移住させられました。いわゆるバビロン捕囚と呼ばれるものです。
紀元前539年、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアの王キュロスによってユダヤ人はイスラエルの地に帰還することを許されました。一方で新バビロニアの首都バビロンにいた大半のユダヤ人はその地に残ったと言われています。
帰還したユダヤ人によってエルサレムではソロモンの神殿に代わる新たな神殿が建設されました。この神殿は第二神殿といいます。

ヨーロッパのユダヤ人

第二神殿時代、エジプトのアレクサンドリアとシリアのアンティオキアでユダヤ教はヘレニズム文化の影響を受けていました。ギリシャなど東地中海にはすでに多数のユダヤ人が居住していたと言われています。帝政ローマ時代に入る頃には既にローマには7000人のユダヤ人が住んでいたようです。
ローマ時代、パレスチナはユダヤ属州となっていました。ユダヤ市民がローマ帝国に対して反乱を起こしたため、西暦66年にローマ帝国との間でユダヤ戦争が始まりました。ローマ帝国は70年にエルサレムを包囲しました。ローマ兵が城壁を破壊して市街に侵入すると、第二神殿は火に包まれ、エルサレムは陥落しました。
132年にはユダヤ人のバル・コクバが自らを救世主とし、イスラエルを復興すべくローマ帝国に反旗を翻しました。しかしこの反乱は136年にはローマ軍に鎮圧されました。ユダヤ教の指導者たちは殺害され、旧エルサレムの地はユダヤ人の立ち入りが禁止されました。以後この地はユダヤ人と対立していたペルシテ人に由来するパレスチナと呼ばれるようになりました。
こうして自らの本拠地を失ったユダヤ人はその後ディアスポラとして世界中を彷徨うことになりました。ユダヤ人の存在は西ヨーロッパでも早くから認められており、9世紀初頭のカール大帝の時代にはすでに領内でユダヤ人が高利貸しをしていたことがわかっています。1066年にノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド王になると、イングランドにもユダヤ人は英仏海峡を渡って移住するようになりました。
イベリア半島では587年に西ゴート王国のレカレド1世がカトリックに改宗するとユダヤ人の立場は非常に弱くなりました。しかし、711年にウマイヤ朝の軍人ターリク・イブン・ズィヤードがイベリア半島に上陸し、西ゴート王国に勝利すると、ユダヤ人は比較的寛容に扱われたため、海外から多くのユダヤ人たちが移住してくるようになりました。
東方ではユダヤ人は早くからアルメニアやジョージアなどのコーカサス地方に移住していました。6世紀後半にトルコ系遊牧民によるハザール王国が現在のロシア・ウクライナ・カザフスタンを跨ぐ地域に建国されましたが、彼らは8世紀のブラン・カガンの時代にユダヤ教に改宗しました。
10世紀、ハザール王国のヨシフ・カガンは世界に散らばるディアスポラのユダヤ人たちとの接触を求めており、遠く離れたコルドバ(スペイン)のラビと書簡のやり取りをしていたことが知られています。

反ユダヤ主義はどのように生まれたのか

313年にローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認するミラノ勅令を発しました。これにより長く迫害されてきたキリスト教徒への迫害に終止符が打たれました。以後ヨーロッパのユダヤ人たちはキリスト教社会からの迫害に苦しむようになりました。
1096年、フランスの司祭である隠者ピエールに率いられた民衆十字軍が、ラインラントなど各地でユダヤ人を虐殺しました。1348年から1351年にかけて黒死病の原因がユダヤ人であるとする流言があり、ストラスブール、チューリッヒなどでユダヤ人が生きたまま火刑に処されました。1391年にはスペイン各地でユダヤ人が殺害され、多くのユダヤ人は生き延びるために改宗することを余儀なくされました。
1144年頃、イングランドのノリッジでウィリアムという少年が殺害される事件が起こりました。この事件の犯人はユダヤ人ではないかと疑われていましたが、しばらくこの事件は放置されました。数年が経過したのちにベネディクト会の修道士モンマスのトーマスがこの事件を調査することとなりました。
トーマスはユダヤ教からの改宗者からこの殺人の真相を聞き出すことに成功しました。それはウィリアムの殺害がユダヤ人指導者によって依頼されたものであるというものでした。彼は、毎年キリスト教徒の子供を生贄にすれば、イスラエルを取り戻すことができるという予言がある、と証言しました。
イングランドではその後も1168年にグロスター、1181年にベリー、1255年にリンカーンで子供が殺害される事件が起こり、すべてユダヤ人が関わっているとみなされました。これらの事件の真相は定かではありませんが、それも一因となり、1290年にエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放することを決定しました。イングランドにユダヤ人が再定住する17世紀まで、ブリテン島からユダヤ人は完全に締め出されることとなりました。
1475年にはイタリアのトレントでもシモンという子供が遺体で発見される事件が起こりましたが、これも当時ユダヤ人による生贄であると認定され15人のユダヤ人が火刑に処されました。これら一連の事件を全くのデマであると考える人たちは今日これらの事件は血の中傷と呼び、ユダヤ人に対する名誉棄損であるとしています。
ユダヤ人による子供の生贄とみなされた事件はイタリアの事件の後もヨーロッパや中東、更にアメリカでも発生しました。その後のすべての事件も含めて、今ではこれらの事件に関連する物的証拠を確認することはほとんど不可能といえると思います。
仮に反ユダヤ主義がなくならない原因の一つが、血の中傷を晴らすことの困難さにあるとすれば、ユダヤ人にとっても非ユダヤ人にとっても不幸なことといえるでしょう。
スペインでは長い国土回復運動の結果、1492年にイスラム勢力の最後の拠点となったグラナダが陥落しナスル朝が滅亡しました。庇護者を失ったスペインのユダヤ人たちは窮地に立たされることとなりました。
およそ3か月後、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の両王はグラナダのアルハンブラ宮殿でユダヤ人追放令を発しました。当時スペインに推定30万人いたユダヤ人の内20万人以上がカトリックに改宗しました。
一方、ユダヤ教を貫いたユダヤ人はスペインから追放され、その多くは南ヨーロッパやオスマン帝国領内に移住しました。この時スペインから追放されたユダヤ人の子孫をセファルディムといい、彼らにはスペイン語方言であるラディーノ語が受け継がれました。

サバタイ派

17世紀のイングランドでは、救世主の時代が到来するという終末論、いわゆる千年王国主義が流行しました。千年王国主義の流行は、ユダヤ人がイギリスに再定住することを助けました。
この千年王国主義は遠く離れたオスマン帝国のラビ、サバタイ派の祖となるサバタイ・ツェヴィにも影響を与えたと言われています。サバタイはスミルナ(現在のトルコのイズミル)出身のセファルディムで、若くしてユダヤ神秘主義やカバラを学びました。1648年に自身こそが救世主であると主張し、スミルナのラビたちから破門されました。
追放されたサバタイはエルサレムなどオスマン帝国内の各地を巡り、エジプトのカイロでユダヤ人有力者に歓迎され、その活動を支援されることとなりました。
当時ポーランドではウクライナ・コサックの指導者フメリニツキーが反乱を起こし、ユダヤ人に対する大規模な虐殺が起こっていました。この時孤児となったサラという女児はキリスト教徒に修道院に送られましたが、16歳の時に逃亡して、娼婦としての生活を送っていました。彼女は娼婦という身でありながら将来は女王となるという野望を持ち続けていました。
この話を耳にしたサバタイは不貞な女と恋に落ちるのは運命であるとして、彼女をカイロに呼び寄せて結婚してしまいます。これは預言者ホセアの「不貞の妻」に倣ったものでした。このことがサバタイ派の信者獲得にもつながっていきました。
エルサレムに凱旋したサバタイはガザのナタンという神学者に出会いました。1665年、ナタンは来年に救世主の時代が到来すると宣言し、サバタイこそが救世主であると告げました。宣言はシナゴーグで行われ、ショファル(角笛)が吹き鳴らされ、人々は「救世主万歳!」と叫び声をあげました。
サバタイはユダヤ教の儀式的な行為の廃止を唱えました。彼の主張は弟子たちによって各地のユダヤ人に告げられました。このメッセージは非常に冒涜的であり反発を招きましたが、同時にその革新性は多くのユダヤ人指導者たちに衝撃を与えました。
預言者であるナタンはサバタイがコンスタンティノープルを訪問した暁に彼が王となるとしました。これを知った帝国の大宰相はサバタイを速やかに逮捕して投獄しました。宰相はサバタイに選択肢を与えました。信仰のために死ぬか、イスラム教に改宗するかというものでした。
サバタイはユダヤ人の衣装を脱ぎ捨ててターバンを巻き、イスラム教に改宗することを選びました。信者の多くも彼の教えに従って改宗するようになります。スルタンはこれを喜び、サバタイに貴族の称号を与えました。
改宗したサバタイ派のイスラム教徒はその後ドンメ派と呼ばれるようになりました。サバタイ派はアムステルダムなどヨーロッパ各地にも信者を獲得していきました。サバタイ派はその後のユダヤ教の近代的な世俗主義や啓蒙主義を促進したと考えられています。

フランク主義

こういった動きに対して反サバタイ派のユダヤ人たちはサバタイが救世主であるという主張は誤りであるとし、中にはサバタイ派を激しく非難するものもいました。18世紀の東ポーランド(現在のウクライナ)にもドンメ派の秘密結社が多数存在していました。ポーランドのラビたちはサバタイ派を禁止しましたが成功しませんでした。
そうしたなか、現ウクライナのポジーリャからドンメ派で後にヤコブ・フランクと呼ばれる男が誕生しました。フランクは旅商人としてしばしばオスマン帝国トルコを訪問する生活を送っていました。彼はトルコでドンメ派指導者との親交を深め、やがて東ポーランドに戻って人々にそこで得た教えを説くようになりました。
フランクはタルムードを否定し、カバラ密教の聖典『ゾーハル』のみを認める立場を取りました。このフランクの教えは旧来のユダヤ教の教えを説く東ポーランドのラビたちに疎まれ、その結果破門されることとなりました。
しかしカトリック司教はフランクの教えはキリスト教に近いものと考えてその信者たちを保護し、ポーランドにあるすべてのタルムードの複製の焼却を命じました。フランクは神から啓示を受けたとして、キリスト教に改宗をし、信者たちにもキリスト教への改宗を求めました。
サバタイがイスラム教に改宗したおよそ1世紀後、今度はフランクがキリスト教に改宗したわけです。フランクは当時のポーランド国王からヨゼフという洗礼名を授かりました。彼の改宗をうけてポーランドでは数万人のユダヤ人が洗礼を受けたと記録されています。
しかし1760年にフランクは彼の奇妙な教義のために疑いの目を持たれて逮捕されました。第一次ポーランド分割が行われると、収監されていた修道院がロシアの占領下に入ったため、フランクは解放されることとなりました。
フランクはその後ウィーンを訪問しましたが、ユダヤ人にキリスト教を広める存在として認められ、マリア・テレジアからの寵愛を受けることとなりました。その後、マリア・テレジアから愛想をつかされたため、フランクフルトの隣町オッフェンバッハに移住しました。フランクはそこで男爵の称号を与えられましたが、1816年にその地で亡くなりました。
フランクの教義にはVの教義というものがあります。そこでは深い堕落に陥り、最も深い屈辱を味わうことの重要性が説かれました。さらに彼はユダヤ教の核となる戒律の十戒を軽蔑し、捨て去るべきものとしたのです。
また彼は、この世に悪や死が存在することを理由に、正しき神が作り出した世界と見なすのはふさわしくないと考えました。そのため彼らは創造主の上にもう一人正しき神が存在し、その神が悪しき神によって自分たちから隠されたと考えます。
フランクは、すべてのユダヤ人・キリスト教徒・イスラム教徒、そしてすべての人々がカトリックを受け入れたならば、この世に本当に正しい神があらわれるに違いないと預言しました。
フランクは信者たちの中から優秀なものを選び、そこで秘密の性的儀式を行いました。フランクは男女間の性的行為によって隠された知識を獲得しようとしたのです。女性のなかにはこの儀式を拒絶するものもいたようですが、フランクは彼女たちに修道女であることを放棄するように強く迫ったとされます。
サバタイやフランクの教えはアブラハムの宗教全体で見ても異端的であり、魔術的や悪魔崇拝を思わせるものとしてさまざまな方向から批判されています。その教えはユダヤ教の中では一般的なものではありませんが、ユダヤ啓蒙主義と並んで現代のユダヤ社会に小さくない影響を与えていることは認識しておく必要はあるでしょう。

ユダヤ人問題について

アブラハムの宗教は『聖書』にはじまる物語が今でも重要な意味を持っています。どれほど科学技術が発達したとしても、西洋文明のもとでは今でもしばしば聖書や聖典の一節が引用され、科学的な仮説よりも優先されることさえあります。
ユダヤ人の間にもさまざまな意見がありますが、いまでもより信仰心の強い人々の中には、自分たちが神に選ばれた民であり、ユダヤ人以外の民族とは異なる存在であると考える人がいます。
このような考えに基づく行動がしばしばほかの民族との軋轢を生んで来た歴史があるということは否定できないでしょう。もちろん非ユダヤ人側のナショナリズムがユダヤ人に対する迫害や殺戮を生み出して来た点についても言及する必要があります。
またノリッジで子供が殺害された事件があって以来、ユダヤ人による儀式殺人の噂話、いわゆる血の中傷も21世紀の現代にも消えずに残っています。
イスラエルの正統派のラビであるイツハク・シャピラは『王の律法』という著作のなかで、非ユダヤ人の子供を殺しても構わないと主張して物議を醸し出しました。イスラエル当局は扇動の罪でシャピラを連行しましたが証拠不十分として釈放されました。
極右活動家でユダヤ防衛同盟創設者のメイル・カハネやモスクでイスラム教徒29名を射殺したバールーフ・ゴールドシュテインなどの過激派を見る限り、血の中傷と呼ばれる一連の事件も簡単には否定しきれない部分があります。
また現在の世界はアメリカの国務長官アントニー・ブリンケン、国務次官のビクトリア・ヌーランド、ウクライナのゼレンスキー大統領、イスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフをはじめ世界の紛争の中心には何故かユダヤ人指導者がいることに私たちは気がつくことができます。
あらゆる民族の過激派の中にテロリズムを肯定的にとらえる人間がいるのであり、ユダヤ人過激派のみを悪魔化するのは望むべきものではありません。しかし現代の世界は強権的なユダヤ人指導者の強い影響のもとに動いているという認識は持っている必要があります。

秘密結社の誕生

銀行とユダヤ人について述べてきましたが、私たちは西洋において長い歴史をもつ秘密結社の存在についても理解しておく必要があります。秘密結社の中で最も国際的で著名なフリーメイソンを中心に見ていきましょう。

フリーメイソンの誕生

フリーメイソンは中世イギリスではじまった化粧石を加工する石工ギルドを起源とする友愛団体です。初期のフリーメイソンは王室や修道院などの建築・工事を行い、フリーメイソンの親方は人々から尊敬される存在でした。
フリーメイソンに入会したものは徒弟としてキャリアをスタートさせ、技量を認められると彼らは正規の職人となり、最終的に親方としてギルドを取り仕切る存在となりました。
入会に際しては秘密の儀式が行われ、メンバー同士で使用する秘密のサインが伝授されると言われています。儀式がどのようなものであるのかは脱退したメンバーなどによって伝えられたものが今日知られています。
彼らはロッジを設立して議事録を作成しました。次第にイングランド南部では職人ではない貴族なども入会するようになり、それが次第にフリーメイソンのなかで一般化していきます。フリーメイソンは貴族たちを勧誘することで資金力を高めていったとも言われています。
18世紀に入るとフリーメイソン会員の規約がより厳密なものとなり、地域の様々なロッジを束ねるグランドロッジも創設されていきました。グランドロッジの長たるグランドマスターは次第に貴族たちが占めるようになりました。また、それまでフリーメイソンには3つの階位しかありませんでしたが、スコティッシュ儀礼などでは次第に様々な階位が付け加えられるようになります。
グランドロッジはイングランド以外にもスコットランドやアイルランド、アメリカの植民地をはじめ、フランス・ドイツ・イタリア・ロシアと世界中に設立されるようになります。
ドイツではフリードリヒ大王が皇太子時代にフリーメイソンに入会したことが知られています。イギリスではフランス革命の際にフリーメイソンが革命的な陰謀を企てているとして非合法団体法を導入して取締りを強化しようとしましたが、これに危機感を抱いたイギリスの複数のグランドロッジの代表団が首相と会談しました。
古代派と近代派の二つのグランドロッジは、イギリス王室のもとで統一されてイングランド・連合グランドロッジとなりました。このためイギリスのフリーメイソンは現在イギリス王室御用達の組織となっています。
現在世界には様々な国や地域にフリーメイソンのグランドロッジが置かれています。これらのグランドロッジは独立性が高く、これらのグランドロッジを統括する世界的な組織は存在しません。また、フリーメイソンでは信仰の自由が認められているため、フリーメイソンそれ自体として特定の信念のもとに動いているとは恐らく言えないでしょう。
一方で彼らは自分たちの仲間を友人として助けることを使命としています。それゆえメンバー間の結びつくが驚くべきほどに強いといえるみなすことができると思います。第三者には分からない隠された強固な結びつきが、人々を陰謀論に駆り立てる部分もあるだろうと思います。
しかし実際にフリーメイソンの利点を最大限に活用しているメンバーの存在は、良くも悪くも一般の市民に知らず知らずのうちに決して小さいとはいえない影響を与えているということは言えるのではないかとおもいます。

テンプル騎士団と薔薇十字団

フリーメイソンに影響を及ぼした組織としてテンプル騎士団と薔薇十字団の名前がしばしば登場します。
1095年に東ローマ帝国の要請によりローマ・カトリック教会は聖地エルサレムを奪還することを唱えました。ローマ教皇の呼びかけにより民衆十字軍が結成され、カトリック世界の貴族や諸侯も聖地へと向かいました。いわゆる第1回十字軍です。
1096年に十字軍本隊はヨーロッパを出発し、1099年にファーティマ朝の支配下にあったエルサレムがフランク人によって占領されました。エルサレムがローマ・カトリックの支配下に入ったため、多くのキリスト教徒がエルサレムに巡礼するようになりました。
しかしエルサレム巡礼の旅は盗賊などに襲われるリスクが付きまとっていました。彼らを保護する目的で1119年にフランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンは修道者のクレルヴォーのベルナールと協力して修道会のテンプル騎士団を創設します。テンプル騎士団は本部をエルサレムの占領したモスクに設置することが許可されました。
ローマ教皇はテンプル騎士団に資金を与え、1139年に勅書を出してテンプル騎士団を正式に承認し、保護しました。1145年の教皇の勅令によりヨーロッパを自由に行き来する特権も与えられます。
巡礼者は貴重品をテンプル騎士団に預けることによって、盗賊などから襲撃されるリスクを減らすことができました。テンプル騎士団はこうして金融ネットワークを確立していき、その資金力を背景に一時はキプロス島全土を所有するほどの力を手に入れました。
しかし、1187年にアイユーブ朝の創設者であるサラディンによってエルサレムが奪還、1229年の第6回十字軍でエルサレムを再度取り戻しましたが、1244年に再びアイユーブ朝に奪われてしまいました。第一次世界大戦時の1917年に再びイギリスがオスマン帝国からエルサレムを占領するまで、エルサレムは長くイスラム勢力の支配下のもとに置かれ続けました。
テンプル騎士団はエルサレムを失ったのち、近隣の都市で活動していましたがそれも失い、やがてキプロスに退きました。キプロスでもエジプトのマムルーク朝によってルアド要塞が落とされると、聖地への足場を完全に失うこととなりました。
力を失ったテンプル騎士団はただ権益だけを持つだけの組織となったため、次第に権力者から疎まれるようになりました。彼らはバフォメットなどの偶像崇拝の罪で告発され、1312年に正式に解散を言い渡され、騎士団の指導者たちは異端の罪により1314年に火炙りの刑に処されました。
18世紀に入るとフリーメイソンではテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団が現在のフリーメイソンに秘密を伝承させたという話が語られるようになっていき、19世紀にはテンプル騎士団と関連する紋章を使用するようになりました。
次に薔薇十字団について見ていきましょう。
17世紀はじめのドイツで、クリスチャン・ローゼンクロイツにまつわる三つの宣言が匿名により立て続けに出版されました。それによるとクリスチャン・ローゼンクロイツは14世紀生まれの人物で、彼は聖地や北アフリカ、スペインを巡り、そこでさまざまな難解な神秘主義的な教義を学びました。
彼はヨーロッパでそれを広めようとしましたが、人々からは理解されませんでした。ローゼンクロイツは仲間や弟子を集めて15世紀のはじめに薔薇十字団という秘密の友愛結社を設立します。薔薇十字団は数世代にわたり秘密を守り、独自の活動を続けていました。
その活動が宣言の出版により公になると、フリーメイソンや占い師などがこれに関心を持つようになりました。18世紀末になるとフリーメイソンのスコティッシュ儀礼などの階位にもその名の影響がみられるようになりました。
西洋魔術を実践するカルト的結社でフリーメイソンをルーツとする黄金の夜明け団なども薔薇十字団の教義や儀式を継承していると言われています。

秘密結社イルミナティ

フランス革命が始まるよりも少し前、アメリカ独立戦争がはじまった1776年に、ドイツのバイエルンである秘密結社が誕生しています。その秘密結社はイルミナティといいますが、イルミナティは現在陰謀論界隈でも非常によく耳にする秘密結社となっています。
イルミナティの創設者はドイツのインゴルシュタット大学(現在のミュンヘン大学)の教授であったアダム・ヴァイスハウプトでした。インゴルシュタット大学は16世紀半ばからイエズス会の影響下にあり、反宗教改革の中心地としての役割を担っていました。
1769年にイエズス会はブルボン家をはじめ西ヨーロッパ各地の宮廷から追放され、1773年にローマ教皇クレメンス14世はイエズス会の解散を命じました。
ヴァイスハウプトはイエズス会への迫害に抵抗するため、1776年に仲間たちとともに完全論者同盟という秘密結社を設立し、みずからを共和政ローマ時代におこった第三次奴隷戦争の英雄的指導者の名前であるスパルタクスを名乗るようになりました。完全論者同盟は1778年にイルミナティ教団と名前をかえて活動するようになりました。
ヴァイスハウプトはフリーメイソンのロッジに潜伏し、フリーメイソンから新しいロッジの設立を認められます。ミュンヘンに設立されたヴァイスハウプトのロッジはたちまちイルミナティ教団のメンバーたちで占められるようになりました。
イルミナティにアドルフ・クニッゲが加入すると、彼は他のロッジのフリーメイソンのメンバーの多くをイルミナティに引き込む勧誘活動をはじめました。彼はフリーメイソンロッジを運営する指導者層をイルミナティに取り込み、そのロッジ全体をイルミナティの意のままにすることに成功します。
この頃ドイツのフリーメイソンではテンプル騎士団に由来する厳格遵守の儀礼に対する不信感が高まり、ハーナウで開かれた大会でこれらの儀礼が廃止することが決定されました。
クニッゲはこの決定に反対する神秘主義者をイルミナティに取り込むための交渉を行い、翻訳家のヨハン・ボーデ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公のフェルディナント、カール・フォン・ヘッセン=カッセルなどを加入させます。
ちなみにカールは後にヘッセン選帝侯となるヴィルヘルム1世の弟であり、ロスチャイルド家の祖であるマイアー・ロートシルトはこのヴィルヘルム1世のもとで宮廷ユダヤ人となり、そこで事業を拡大していったことが知られています。
イルミナティの勧誘活動はオーストリアやポーランド、スイス、イタリアなどにも拡大していき、教団員の数も日増しに増えていきました。一方で同じようにフリーメイソンに浸透していた薔薇十字団との対立が表面化し、薔薇十字団から反宗教的な組織として非難されるようになりました。
イルミナティが拡大していく中、ヴァイスハウプトの反教会的な価値観とクニッゲの神秘主義的な価値観の対立も決定的なものとなり、クニッゲは教団を去ることとなりました。
クニッゲという求心力を失い、外部との軋轢が拡大するなか、1785年に彼らの活動を危険視したバイエルン選帝侯カール・テオドールはイルミナティを含むすべての秘密結社の禁止を決定しました。ヴァイスハウプトはイルミナティのメンバーであるザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト2世のもとに逃れ、イルミナティは地下に潜伏することとなりましたが、彼らは1789年にはじまるフランス革命の一因として反革命派から中傷されるようになりました。
次第にイルミナティの話題は歴史の表舞台からは消えていきましたが、いわゆる陰謀論界隈では現在もイルミナティは存続しており、彼らが世界を支配していると主張されています。彼らの主張の真偽はともかく、フランス革命前夜のヨーロッパではこのような秘密結社の活動が行われていたということくらいは知っておく必要はあるでしょう。

フリーメイソンと秘密主義

フリーメイソンは現在も権威ある組織として存在し、幕末以来日本でもフリーメイソンに入会する人が増えていきました。戦後日本のとある政権の閣僚の半数がフリーメイソンだったと言われていますが、日本の政治にも小さくない影響を与えているといえるでしょう。
彼らは、みずからフリーメイソンであると名乗ることは許されていますが、仲間がフリーメイソンであることを公にしてはいけないなどといういくつかの決まりごとがあります。
フリーメイソンは入会の儀式によって新しいメンバーとして認められますが、この際、入会するものは目隠しをされた状態で儀式を行います。そこでフリーメイソンの秘密のルールが伝授されることとなります。
彼らは握手をする際にもフリーメイソンであることを互いに確認し合っていると言われています。また非常に有名な事実ですが、右手を左前裾の中に隠すこともフリーメイソンのシグナルとして知られています。これは歴史上さまざまな人物の肖像画や写真からもこのような所作を確認することができます。
フリーメイソンの歴史が非常に長いものであるというのはこれまで述べて来たとおりですが、現在に至るまで多くの退会者を出しており、彼らの儀式やシグナルの伝達方法など退会者などにより数多く漏れ伝えられています。
今ではそれらの伝達方法は公然の秘密となっていますが、高度に情報化が進んだ現在にあっても、世界の権力者から、右手を左前裾の中に隠す動作を確認することができます。驚くべきことに、それは君主制国家の王族から独裁国家の将軍に至るまで実に多様なのです。
このようなフリーメイソンの秘密主義に対してだからどうなんだという批判も実際には可能ですが、彼らフリーメイソンはフリーメイソンという立場から、仲間たちから多大な恩恵を受けているということは事実でしょう。実際に彼の秘密の仲間が、公には彼自身の最大の敵対者である場合すらあるのです。私たちはそういった事実を認識する必要があります。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。https://twitter.com/Fant_Mch

今回はここまでになります。またのご訪問をお待ちしております。
それでは良い一日をお過ごしください。

今後の活動のためにご支援いただけますと助かります。 もし一連の活動にご関心がありましたらサポートのご協力お願いします。