可謬論と陰謀論
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今回は可謬論と陰謀論について書きたいと思います。
可謬論と陰謀論
⬛可謬論とは
可謬論というのは聞きなれない方も多いと思いますが、簡単にいいますと「知識についてのあらゆる主張は、原理的に誤りうる」という哲学的な学説であり、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースによって提唱された概念です。
この考え方は古代アテネの哲学者ソクラテスにも見出すことができ、現代の哲学者からも多くの支持を集めています。
哲学者のカール・ポパーは、「間違っていることを明らかにすることができる」ことを反証可能であるといい、反証可能でない学説を、構造的に科学的なものではないと退けました。
ポパーは科学は、それまでの学説が批判的に覆されることによって知識体系を築き上げてきたとして、このように科学を発展させる方法を批判的合理主義と名づけました。
⬛科学における可謬論と日常における間違った推論
より高度な研究を必要とする科学は、世界の普遍的な法則を明らかにしようとする活動であり、日常生活はより具体的で個別的な現象について、科学的な知識を借りながら推論していく事を常としています。
具体的な例を挙げますと、私たちは何かを紛失してしまったり、新しい仕事が上手くいかなかった場合や、家族や恋人、友達が今何を考えているかなど、日々推論を繰り返しています。
世界の普遍的な法則を明らかにしようとする科学でさえ、現在は間違っている可能性があるかもしれないという考えに従って研究されています。
一方で、日常生活の中で、私のスマートフォンは絶対に盗まれたとか、仕事が上手くいかないのは絶対に上司のせいだとか、絶対に彼は私に惚れているとか、推論可能な解釈の中で、論理的な正しさよりも自身の願望が優先されることは多くあると思います。
その後、スマートフォンが椅子の隙間に挟まっていたり、仕事上のミスが自分が上司に報告を怠ったことが原因だったり、彼の笑顔が単純に愛想笑いだったということに気がついたなんてことはよくあると思います。
私たちは人生で何度もそのような間違いに気がつき、そのたびに恥ずかしい想いをするものですが、一方でいつまで経ってもその時の原因が分からない場合などは、いつまでも特定の間違った恥ずかしい考えに執着しているなんてこともあるかもしれません。
恐らくそれが人生の常というものなのでしょう。
⬛可謬論的観点からみた陰謀論
それでは陰謀論というものについて焦点を当てつつ可謬論的考えに従って考察していきたいと思います。
私たちが生きている世の中が陰謀渦巻く世界であるというのは恐らく一定程度正しいものと思います。実際に様々な国家や組織によって、様々な宣伝技術や洗脳技術などが開発されています。
そして実際に意図的に嘘をついて世界中の人々を欺いたという例は多くあります。そういったプロパガンダに世界中のメディアが利用されているということも現在は明らかですが、具体的に現在のどの情報が真実で、どの情報が真実ではないのかということを確定させる決定的な方法は存在しません。
何が真実で何が真実ではないのかを明らかにする方法がないために、世界ではプロパガンダやサブリミナル効果を利用した洗脳工作が現在も使われ続けています。
世界中の多くの事件にも当然ながら陰謀の蔭が見え隠れしていますが、それでも特定の事件に対するその陰謀論的な推論が正しいにせよ、正しくないにせよ、陰謀論というレッテルを完全に剥がすことは難しいでしょう。
それは私たちにとって推論というものが如何に難しく誤りやすいかということとも関連しています。
⬛安倍総理暗殺事件
安倍総理が暗殺されてから1年が経過しました。
安倍総理の暗殺事件でも多くの陰謀論的な推論が登場しました。
このことについてそれらの説の何が間違っていて、何が正しいのかをここで議論したいわけではありませんし、そういった推論をすべて陰謀論といって排除したいわけでもありません。
そうではなく、安倍総理暗殺事件にまつわるこれらの推論を可謬論的立場で見るとどのように解釈できるかということを検証したいわけです。
安倍総理暗殺に関する様々な憶測、その一部は陰謀論と言ってもいいかもしれませんが、バリエーションは様々であり、多くの議論が巻き起こっています。
ただしこのようなことは言えると思います。
安倍総理に関するバリエーション豊かな陰謀論の中に仮に一つ真実があったとしても、それ以外は全てが何かしら確実に部分的に間違っているということです。
安倍総理暗殺に関する陰謀論のバージョンが10通りあるのか、100通りあるのか、1000通りあるのかは知りませんが、いずれにせよ、その1つの真実以外、あるいはその全てが部分的に間違いを内包していることはその構造上明らかです。
安倍総理暗殺の真相についてこれが絶対に正しいんだと考える立場は、可謬論的見地に立つならば、非常に問題があると言わざるを得ません。
もちろん部分的に真実はあるかもしれませんが、誤りも多く内包していることでしょう。このように考えることは決して真実からの退歩ではありません。より確実に真実に迫るためには、特定の推論を絶対視したり、神聖視したりすることの方が遥かに非科学的だと言わざるを得ません。
可謬論とは、推論をするなとか、その考えは絶対に100%間違っているということの主張するものではありません。むしろ人間のバイアスを出来る限り排除することによって、より正確に真実に迫りたいという立場だということは言っても言い過ぎではないでしょう。
⬛絶対視の危険性
特に何か事件が起こった場合、その真相を突き止めようとするとき、私たちはまずアンカリングという認知バイアスに直面します。
様々な憶測がある中で、直観的に正しいと感じたものを私たちは延々とそれを信じる傾向にあります。ある意味で事件が起こるたびに社会には、自覚的か無自覚的かはともかく、多くのアンカリングとなる仮説が真実であるかのように演出して、私たちの記憶に刻まれます。
しかし、私たちがそれを真実であると感じるのは、単に他の推論よりも僅かばかり早くそれを知ったとか、繰り返しその推論ばかりを見続けたといった、私たちがそれを認知したプロセスが源であり、確実性によらないということはよくあることです。
⬛仮説を真実ではなく、仮説として認識し続ける
このような認知バイアスから逃れる一つの方法は、仮説を真実と認識するのではなく、仮説は真実が明らかになるまで、何があろうと仮説であり続けると解釈し、自身の偏見や他人の偏見によって真実に格上げしないことです。
このような自身の偏見が実は他者が作り上げた宣伝工作や洗脳工作ではないという保障もどこにもありません。
世界は陰謀で渦巻いているというのは真実でしょう。しかしそれと同じように世界は偽情報で溢れている、世界はバイアスで溢れているという点についても、世界の陰謀について言及するのであれば、予め了解している必要があるのではないかと思います。
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最後に
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