「人それぞれ」がさみしい~「やさしく・冷たい」人間関係を考える~③(最終回)
こんにちは。やまりです☺
本日は、「この世の中ってなんか生きづらい」と感じている方に向けての記事です。
先週のこちらの記事に引き続き、今回は『「人それぞれ」がさみしい~「やさしく・冷たい」人間関係を考える~』の第4章~第6章(最終章)の内容を取り上げます。
(1ヵ月近く空いた間延びした投稿になってしまい、すみません。)
第4章 萎縮を生み出す「人それぞれ」
私たちは「人それぞれの社会」を生きているといっても、「人それぞれ」に何をやってもよいわけではありません。
そこで、個々人の行動を引き締めるルールが必要になるのですが、「人それぞれの社会」のルールは、ときに「正義の刃」となり、ルールを破った人を激しく切りつけます。
それゆえ、人びとは「人それぞれの社会」に生きているにもかかわらず、どことなく萎縮した心持ちになる、という矛盾した状況に追いやられます。
「人それぞれの社会」の基本的な考え方は、「個人を尊重する」ことです。
「個人の尊重」の機運が高まるにつれて、世の中では、物理的あるいは経済的危害だけでなく、個々人の主義や信条を損なう行為や、心理的にダメージを与える行為も、「危害」としてタブー視されるようになりました。
このような考え方を背景に、多くの人に広まっていったのが、「ハラスメントをしない」、「多様性を尊重する」という発想です。
ハラスメントや多様性といった概念が広まることで、いわゆるマイノリティに位置づけられてきた人びとへの理解が深まりました。
しかし、その一方で、「境界線」という難しい問題もあります。
言葉にはもともと、発された瞬間、それを聞いた相手を傷つける可能性をもつ、というリスクがあります。
自らの発する言葉が相手を傷つけ、巡りめぐって自らの立場を危うくする可能性のある社会では、基本的にはリスクを回避する表現が好まれます。
言葉や表現がもつリスクを理解した私たちは、表に出す言葉やイメージを無難なものに整えるか、あるいは、そもそも人に関わらない、または、話が通じる人のみ相手にするという戦略をとるようになりました。
さまざまな行為を「人それぞれ」と容認する社会は、「自粛警察」にみられるような「迷惑」というセンサーで個々人を監視する社会でもあります。
言葉や表現がもつリスクにおびえ、表に出す言葉やイメージを無難なものに整えたり、迷惑センサーを気にして縮こまった生活を送る私たちは、「人それぞれ」にバラバラでありながら、結局は同じような行動をとるようになります。
かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。
現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセル(問題を起こした人物や企業を、解雇したり不買運動を行う)や迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。
このようや社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。
第5章 社会の分断と表出する負の意見
「人それぞれの社会」では、「人それぞれ」とは言いつつも、身近な人を非難しないよう意見を調整したり、世の中に迷惑をかけないように気を遣ったりと、意外に縮こまった生活を強いられることが分かりました。
しかし、人はそうそう我慢してばかりもいられません。
そこでこの章では、抑え込んできた思いのゆくえについて考えてみましょう。
言葉のリスクが高まるなか、私たちは、相手を選ぶリスクを劇的に減らしてくれる魔法「検索」をついに手に入れました。
この機能を使えば、たとえ世論に反する意見をもっていたとしても、同じ考え方の人を探すのは簡単です。
つまり、たとえ風変わりな考えをもっていたとしても、リスクなく同じ考えの人を探し出し、安心して胸の内を明かすことができる、ということです。
しかし、本音の抜け道としての検索システムの充実は、鈍化した集団を生み出し、多様性を損なう側面もあります。
鈍化した集団は、ときに、端から見れば不毛とも思えるような対立を引き起こすことがあります。
そこには、建設的な対話は見られず、両者の間には、さながら「分断」とでも言いうるほどの深い溝が存在します。
私たちが「真の意味」での多様性を手に入れるためには、検索に慣れきった社会のあり方を見直す必要があるでしょう。
また、検索の機能が整うことで、ある物事に不満を抱く人を集めることも簡単になりました。
ためられた不満は増幅され、過激化して不満の元となった人たちに噴き出すこともあります。
いわゆる「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」がそれにあたります。
ある問題を「ヘイト」とラベルづけてタブー化する動きが、行き場を失った不満の受け皿を活性化させてしまうこともあります。
ある主張をタブー視して、蓋をするようなやり方では、それにそぐわない層の行き場がありません。
結果として行き場のない層は「結託」して、その主張を強めます。
そうなると、お互いに自らの「正しさ」を主張するだけで、議論の発展が望めません。
多様性の時代には、抑え込んでいる思いのゆくえにも、もう少し目を配る必要があります。
それぞれの不満に蓋をすることで秩序を維持してきた「人それぞれの社会」は、秩序から外れた場にいる人に、激しい不満を生み出してしまう社会でもあります。
ここまで、「人それぞれ」をめぐるさまざまな問題を見てきました。
実は、それぞれの章で紹介した問題には、「相手の姿があまり見えていない」という共通点があります。
当事者同士の対話がない、と言い換えることもできるでしょう。
この話題は、次の最終章で扱っていきます。
第6章 「異質な他者」をとりもどす
ここまで、「人それぞれの社会」はどのような性質をもち、また、そこでは、どういった問題が生じたのかみてきました。
この本は、「人それぞれの社会」をテーマとしていること以外に、いずれの章でも、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見をもった他者の存在感がうすい」という共通点があります。
(このことを、この本では「異質な他者の不在」と表現しています。)
そこで、本書の締めくくりとなる第6章では、異質な他者の不在に焦点をあて、どこに問題があり、どういった対応が考えられるか検討してみましょう。
まず、問題を把握するために、異質な他者の不在という視点で、この本の内容をあらためてとらえ返してみます。
第1章では、「人それぞれの社会」が成り立つ条件として、「一人」になる条件が整ったことを指摘していました。
「一人」になれるということは、裏返すと、他者がいなくてもなんとかなる、ということです。
他者がいなくてもなんとかなるのであれば、私たちは、第2章で指摘していたように、無理して気の合わない他者とつき合わなくてもよくなります。
そうなると、気の合う人とばかりつき合うようになり、自身に対して批判的な意見をもつ人は、つながりの輪から徐々にいなくなります。
まさに、異質な他者の不在です。
「一人」になれる社会での人づきあいには、無理してつき合わなくてもよい気楽さと同時に、ひとたび波風を立てるとすぐに切り離されてしまう不安定さも備わっています。
そうなると、人びとは、あるつながりが大事であればあるほど、そのつながりの輪にいる人に否定的・批判的な意見を言えなくなります。
関係が壊れてしまうかもしれないからです。
否定的・批判的意見どころか、異なった意見すらも言い出しにくくなっています。
さまざまな意見や行為、主義・信条については、「人それぞれ」と受け容れ、あまり口を挟まないのが現代社会の流儀なのです。
しかしながら、そうなると、相手が遠ざかる寂しさやもどかしさを感じたり、格差が広がったりすることを、第2章、第3章で触れました。
これらの現象は、親しい関係にある人びとから「異質な意見」を表明する機会を奪ってしまったゆえに生じています。
「人それぞれの社会」では、身近な人ですら「異質な他者」性を見出す機会は、あまりありません。
第4章と第5章は、「人それぞれ」を取り締まる世の中のルールとそれに対する反応について取り上げました。
「人それぞれの社会」には、さまざまな意見や行為、主義・信条を尊重する一方、そのような考えから外れた人を厳しく罰する性質があります。
言い換えると、多様性の価値観に対して「異質な立場」であろうとする人に、厳しい態度で接します。
そうなると、人びとは厳罰を怖れ、なるべく危険に近づかないようにします。
対人関係であれば、なるべく突っ込んだ発言をせず、「人それぞれ」としてその場をやり過ごし、表現文化の世界であれば、なるべく穏当な表現に終始します。
インターネットが普及した現在、多様性の原理に反対の意見をもつ「異質な立場」の人びとは、自らにとっては「異質な他者」(=多様性の原理を推進する人)の視線を避けて容易に結託することができます。
おたがいに、異質な他者を不在にしたまま結託した集団が乱立すれば、社会は分断されていきます。
というのも、このような集団は、それぞれの立場を考慮した意見をもつことが難しいからです。
そのため、それぞれの集団は、たがいに強烈な批判合戦を展開します。
異質な他者の不在を原因として、さまざまな面で問題が発生しているならば、その問題を解く鍵は明快です。
私たちのつながりのなかに、異質な他者を取り込んでゆけばよいのです。
異質な他者との対話をうながす方法には、社会のしくみにはたらきかけるものと、個々人にはたらきかけるものとのふたつがあります。
まず、異質な他者を取り込む社会のしくみに関するものとして、「インターネットの利用や影響にまつわる問題」と「つながりのなかに頑健さをいかに取り込むか」の2点を社会全体で考えていく必要があります。
そして、異なる他者を取り込むにあたり、個々人が意識すべきこととして、人間関係の最適化願望をいったん脇におき、つながりへの期待値を切り下げ、人はプラスの面もマイナスの面もあるというごく当たり前の事実に立ち返る必要があります。
私たちは豊かになったからこそ、「一人」になるだけでなく、相手の前にあえてとどまり、「ただつき合う」ということをもっと意識することで得られる多様性もあるのではないでしょうか。
最後に
『「人それぞれ」がさみしい~「やさしく・冷たい」人間関係を考える
~』をもとに、全3回にわたって概要をご紹介してきましたが、いかがでしたか?
図書館でタイトルに惹かれてたまたま手を伸ばした本だったのですが、私自身の中のモヤモヤとした感覚を、具体例も交えながらうまく言語化されている本だったので、思わず共有したくなり、今回noteに書いた次第です。
このnoteでは、概要の紹介ということで抽象的な表現が多くなり、イメージが湧かない部分もあったかと思いますので、具体的な内容を知りたい方は、ぜひこの本を手にとってみてください!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
「この記事を読んで良かったな」
「読んでいて共感する部分があった」
と少しでも思っていただけたら、
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