ボリス・グロイス論

本稿には、東京造形大学で行われた読書会のために主催者である私(三田)が作ったレジュメを少し改変したものを載せている。現在も読書会と勉強会を主催しているが、あまりにも参加者が少ないため本論考から興味を持ってもらいたいと思い、noteに載せることにした。この論考を読んで参加したいと思った方はぜひ下記リンクからオープンチャットに参加していただきたい。
オープンチャット「読書会 東京造形大学」
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デュシャンのチェス解釈としてのグロイスにおける沈黙

現在ではものと時間の平等はふたつの異なった方法で実現されうる。一つは美術館の特権を現在のものも含めたすべてに広げることによって、もしくはそれを完全に廃止することによってである。(略)デュシャンのレディメイドの実践は前者の方向の試みである。

『流れの中で』p.8

ここでグロイスはふたつの方法のうちの一つとして、デュシャンによるレディメイドを例に挙げている。

デュシャンの《泉》は芸術作品であると同時に非芸術作品である。(略)伝統的な彫刻であると同時にレディメイドとも描写しうる立体作品(フィッシュリ&ヴァイス)を私たちは知っている。

『アート・パワー』p.13

グロイスは、デュシャンのレディメイドに並んで、レディメイドを応用した立体作品を作るフィッシュリ&ヴァイスについても言及している。さらにグロイスはレディメイドやフィッシュリ&ヴァイスの作品を美術館の内外における非視覚的な新しい差異を知覚可能にしたという。

フィッシュリ&ヴァイスは、既製品(レディメイド)、つまり私たちが毎日の日常生活で目にするような日用品ときわめて類似した対象物を展示する。実のところ、これらの物体は「現実(本物)」の既製品ではなく、そのシミュレーションである。(略)物体を現実の既製品と見分けることはかなり困難である。しかし、これらの物体をもしフィッシュリ&ヴァイスのアトリエで目にしたとしたら、自分の手でそれらを持ち上げて重さを確認することができるだろう。そして、このような経験は、展示物に触ることを禁じる美術館では不可能なことだろう。(略)レディメイドは美術館の空間内でその形を見せはするが、同時にそれ自体の物質性を不明瞭にしたり、隠したりするということである。(略)たとえ、歴史的アヴァンギャルドに関わる多くの美術家や理論家が個々の美術作品の物質的支持体を明らかにしたいと願っていたとしても、個々の美術作品がそれを明示できるわけではない。むしろ美術館でのみ、この「現実」と「現実のシミュレーション」の差異は不明瞭なものや表象不可能なものとして、明確に主題化されうるのだ。

(『アート・パワー』p.65-p.66)

 グロイスは歴史的アヴァンギャルドについて、マリネッティやロシア未来派に紐づけながら、民主主義的平等主義的な零度の身体へのダイナミズムとして定義している。さらにグロイスはデュシャンやレディメイドなどを例に挙げ、芸術作品の物質的支持体(零度としての身体)は、現実とシミュレーションの関係が美術館によって非視覚化されることでのみ主題化されうるという前提を踏まえている。これら二つの定義に基づいて、『流れの中で』ではデュシャンのレディメイドを「美術館の特権を現在のものも含めたすべてに広げること」として解釈することで、アヴァンギャルド的な零度の身体による特権の解体を可能とする美術館の特権性(触ることの禁止やある物を特別に保護すること)を、現在のものも含めたすべてに拡大する。デュシャンはレディメイドによって、美術館の中に作品が存在するのではなく、作品が存在する世界を美術館に変えようとしたのだ。デュシャンによって美術館化される世界は、現実世界とアート・ワールドの差異を非視覚化し、世界の零度としての身体を表出させることになるだろう。

しかし、この道程によってデュシャンが十分先に進むことはなかった。

『流れの中で』p.8

ここで、デュシャンはこの道程(レディメイドによる世界の身体の表出)によって十分に進むことがなかったとはどのような意味か。ここで重要なのは、「この道程によって」の「この」であり、デュシャンは進むことができなかったわけではなく、「デュシャンが十分に進むことはなかった」ということである。つまり、進もうと思えば進むことができたにも関わらず、デュシャンはこの道程によって進むことを拒んだということだ。しかし、ここでなぜデュシャンは拒むことができたのかという疑問が生じるかもしれない。つまり、グロイスによれば芸術はヴィジョンを見せる力を持っているから、デュシャンがレディメイドを制作したとき、すでにこの道程の未来像は期待とパロディを孕みながら視覚化されている。その場合、デュシャンがどんなに拒んでもその道程はすでに示されているのではないか。しかし、グロイスの理論とデュシャンの拒否は矛盾しない。なぜならデュシャンが拒んだのはこの道程ではなく、この道程を進むことだからだ。つまり、デュシャンはこの道程を示しはしたが進むことは拒んだ、そしてこの道程とは別の道程を進んだということである。

しかし、グロイスはレディメイド以降のデュシャンの動向について言及していない。一体それはなぜか、語らないことによってでしか言い得ない事実があったからである。それは次の文章とも関連する。

民主化された美術館はあらゆるものを含むことはできない。たとえ限られた数の便器が、ある美術館に特権的な場所を得たとしても、無数の同じものが非特権的な通常の場所、つまり世界中のトイレの中に残される。

『流れの中で』p.8

 グロイスはここで再度美術館の特権性と現実世界の非特権性について語っているように思えるが、「たとえ限られた数の便器が、ある美術館に特権的な場所を得たとしても」という時、重要なのは「特権的な場所を得た」という部分であり、「無数の同じものが非特権的な通常の場所、つまり世界中のトイレの中に残される」という時、重要なのは「非特権的な通常の場所(略)に残される」という部分である。デュシャンはたしかに現実世界とアート・ワールドの差異の非視覚化を示しはした。しかしここで重要なのは、場所の特権性であり、得る物と残るものの差異である。つまり、「民主化された美術館はあらゆるものを含むことはできない」というのは、あらゆるものを芸術作品として認識し得る、われわれ(=世界の鑑賞者)は、あらゆるものを認識することはできないということであり、そこには意識下、意識外という認識の場において、それを得るものと残されるものが存在する。こう考えると、場所が物を得るのではなく、物が場所を得ると記述している語の用法にも合点がいく。グロイスの言う「場所」とは、認識の枠組みを定義する新実在論的な意味の場そのものだ。

新実在論の提唱者であるマルクス・ガブリエルは、世界は存在せず意味の場だけが存在し、人間は意味の場に投げ込まれた存在であると定義したうえでこういっている。

世界が存在しないがゆえに、無限に多くの意味の場が存在する。わたしたちは、それらの意味の場のなかに投げ込まれ、またそれらの意味の場を移行し続けています。つまり、所与の意味の場から出るさいに、新たな意味の場を生み出しているわけです。しかし新たな意味の場を生み出すとは、けっして無からの創造ではなく、さらなる意味の場への転換にすぎません。

『なぜ世界は存在しないのか』p.273

グロイスに結びつけて言うならば、世界は非芸術作品としての意味の場に存在していたが、デュシャンによる差異の非視覚化によって、認識されたあらゆるものは芸術作品として新たな意味の場を得た。しかし、そこには人間の認識能力の限定によって、非芸術作品の意味の場に残される物も存在したのだ。

デュシャンの別の道程に話を戻そう。グロイスはデュシャンのレディメイドからチェスへの転回、つまり非芸術から無芸術への転回を、『流れの中で』という本の内容において実践しているのだ。デュシャンは人間の認識能力の問題によって、芸術の平等をもたらすことの困難を予想していた。そこでデュシャンはチェスにおける視覚的無意識に注目した。デュシャンにとって芸術と非芸術の対立とは別の道程がチェスならば、グロイスにとってのチェスとはデュシャンのチェスに対する沈黙である。ではグロイスにおける沈黙とは一体なにか。それはグロイスにおける第二の道程に他ならない。

したがって2番目の道筋しか残されていない。

『流れの中で』p.8 

グロイスはここでも残すという表現を用いている。われわれがいつも世界を認識しきれていないように、この文章はさっきまではっきりと認識されてはいなかった。グロイスは、認識による新しい意味ではなく、非認識の場に残された文章へと目を向けることで、デュシャンがレディメイドの道程で残してしまった非特権的な場に、これから認識の光を当て、意味の場を与えていくことを行為遂行的に示している。しかし、この2番目の道程は完全に認識されていなかったわけではない。なぜなら、「現在ではものと時間の平等はふたつの異なった方法で実現されうる」と、予め2番目の道は来たる未来像として期待とパロディによって場を得ていたからだ。これはデュシャンにおいてもそうではないか。デュシャンがアート・ワールドとの差異を超えて、現実世界に意味の場を与えるとき、認識の外部に残される非特権的な場は、世界が美術館化する未来像において、そのパロディとしての意味の場を得ていたはずだ。たとえそれが非特権的で、その物の固有性を減少させてしまうような意味の場であったとしても。ここで第二の道程という言葉に、残された場という認識不可能な場を代理表象する役割を担わせている。整理すると、デュシャンにとっての第一の道程が芸術と非芸術の非視覚化で、第二の道程がが芸術と非芸術の対立からの離脱であるばらば、グロイスにとっての第一の道程が世界の美術館化であり、第二の道程が、デュシャンの第二の道に対する積極的沈黙であり、それこそがグロイスが示す、残された場への唯一の道である。

ヘーゲルの再帰性とグロイスの沈黙

「美術館の特権を諦めることは、芸術作品を含むすべてのものを時間の流れに晒すことを意味する。」

(『流れの中で』p.8)

では、「美術館の特権を諦めること」とはどのような意味か。グロイスはデュシャンについて語るうえで、デュシャンは「美術館の特権を現在のものも含めたすべてに広げること」を示したという。しかし、「民主化された美術館はあらゆるものを含むことはできない」と付け加え、「たとえ限られた数の便器が、ある美術館に特権的な場所を得たとしても、無数の同じものが非特権的な通常の場所、つまり世界中のトイレの中に残される」と比喩的にのべる。「民主化された美術館」は、ここでは美術作品と既製品(レディメイド)の差異が非視覚化された、特権的な場を与える人間の認識や、人間によって新たに転換された意味の場を意味しており、「あらゆるものを含むことはできない」は人間の認識の不完全性を意味する。

たとえ人間が美術作品と既製品の差異を非視覚化したとしても、人間の認識の限界によって、非特権的な意味の場に残されるものが存在するということを意味する。つまり、デュシャンによって示された美術館の特権をすべてのものに拡大する道は、美術館の特権を意味の場を与えるものとして人間の特権へと転嫁することで、逆説的に人間の認識の限界を主題化したものの、非特権的な場は認識の枠として残されてしまう。デュシャンはこのような道を示しはしたが進みはせず、チェスという別の道に進んでいく。グロイスはデュシャンに同調するように、示しつつ「諦めること」によって「すべてのものを時間の流れにさらすこと」へと進んでいく。このような第一段階の否定による第二段階への弁証法(捨てつつ持ち上げる[1])的進展は、来たる未来像としてヘーゲル的な再帰性(動作主が自己を含めて何らかの行為・指示・言及の対象とする性質)を予期する。このような再帰的なシステムは円環ではなく、螺旋状の構造を持っており、時間に基づく有機体(生物や機械にける部分の関係の総体)である。ジャン・L・ナンシーは『ヘーゲル 否定的なものの不安』において、ヘーゲルの二つの無限(有限と無限が対立する悪無限と、無限の中で有限が措定される真無限)について語っているが、ヘーゲル哲学における真無限のあらゆる間隙で悪無限が作用することで、自由(自己を他者へ委ねること)は行使されうるという。つまり、ユク・ホイが『偶然性と再帰性』でヘーゲルをサイバネティクス(生物と機械のシステムを統一的に認識し、研究する理論)の源流として語るように、ヘーゲル哲学はその体系的(網羅的)な性質から、あらゆるものを自己規定への道として登場させるが、その体系には自己も含まれる(再帰性)。また、ヘーゲルは偶然性を絶対的自己規定のための必然的ノイズとして捉えている(弁証法)が、それは再帰的なシステムが偶然性による決断(あらゆる反省に先立ってすでにシステムに投げ込まれていること)に満ちた螺旋的な運動を伴うことを示している。グロイスのパラドクス論(造語:行為が未来像への予期となり、かつパロディとなる)から考えると、道筋を示しつつ否定することはヘーゲル的な再帰性や不安(反省に先立って別のシステムに身を委ねること)の予期となる。また、グロイスとヘーゲルは正命題に対して反命題を運命づけるパラドキシカルな論理体系を有している点においても一致している(グロイスのパラドクス論とヘーゲルの弁証法)。

グロイスの生成変化

グロイスは『全体芸術様式スターリン』において、アヴァンギャルドから社会主義リアリズムへの転回は、美学と政治の一体化というアヴァンギャルド的欲望の深化であり、実現だという。これはデュシャンにおいても通用する。デュシャンは、視覚的無関心や画家の手の放棄、高次元性や脳組織的な芸術を、レディメイドからチェスへの転回によって実現した[2]。この弁証法は、グロイス自身の転回にもいえる。グロイスはまずデュシャンと共に美術館の特権をすべてのものに拡大することを示すが、次の瞬間には、ある意味では無根拠に、そのプロジェクトを放棄する(認識の不可能性は絶対的な根拠にはなりえない)。つまり、「美術館の特権を諦めることは、芸術作品を含むすべてのものを時間の流れに晒すことを意味する。」というグロイスの言葉も、美術館の特権をすべてのものに拡大するという根本的なプロジェクトの深化および弁証法である。

このような『流れの中で』で散見される非意味的切断(連続性のないもの同士を並置し、再接続すること)、あるいはそれに基づく文体は、ドゥルーズの予期によって器官なき身体(器官というまとまりを欠いた分子的な欲望の作用)という世界の零度(偏りのない普遍的な基軸)を示す。しかし、あらゆる未来像はパロディでもあるため、器官なき身体としての世界はその危うさを露呈してしまう。それはあらゆるものが生成変化(ものとものの間で起こる変化であり、ものを巻き込んでいく)によって接続されてしまうファシズム的な世界だ。

しかしグロイスはドゥルーズをも弁証法的に放棄している。「時間の流れに晒すこと」はドゥルーズの内在論における「無—始原(超越/メタ的な視点や始原を退ける脱中心性)」に対置すべき命題だろう。グロイスのパラドクス論に基づけば、流れは始原の予期であるといえる。また、「―ことは―ことを意味する」というとき、第二のことは第一のことの意味である。つまり、グロイスは「時間の流れに晒すこと」に対して、ドゥルーズが否定した「意味」という属性をわざわざ付与している。さらに、イントロダクションの副題である「芸術の流体力学」における流体力学は、微粒子レベルでは計算不可能な気体や液体(流体)の運動を、連続性をもった流体粒子(流体のまとまり)を単位として、流体粒子の速度や変形などの運動を調べる学問であるが、これは、ドゥルーズが批判した科学者の超越的な視点や、モル的(構造を前提とする単位、「分子的」の対概念)な思考の再演である。

文体によってドゥルーズを示しつつ、時間の流れの中に晒すことでドゥルーズを否定する。この文体と内容においてグロイスは非意味的切断を実現する。一度目の非意味的切断は器官なき身体への道として、不完全な接続語によって示している(ドゥルーズの非意味的切断は「と」で語と語を結ぶが、グロイスはここで「は」を使っていた)が、二度目の非意味的切断では文体「と」内容を結ぶことですべてを繋ぐファシズム的な世界を弁証法的に乗り越えた完全性を持つ。これはカントの背理法(正命題と反命題が等しく成立すること(二律背反/アンチノミー)を証明し、矛盾に導くことで決定不可能性を示す)やヘーゲルの否定、ハイデガーにおける「である」(ハイデガーは存在を語ることの文法的な不可能性を応用して存在について語った)に基づく、現前不可能なものの抑圧された形での現前である。つまり、ドゥルーズ内在論におけるそれを語るドゥルーズ自身の超越性(これはヘーゲルにおいてもいえる)を不完全な非意味的切断の象徴として文体の中で取り入れ、それを内容によって止揚(捨てつつ持ち上げる)することで、完全な非意味的切断を抑圧された形で現前させている。ドゥルーズにおける生成変化はあらゆるものを繋ぐが、グロイスにおける生成変化は内容と文体の間で起こる象徴作用による止揚であり、未来像と語る/読む主体の現在性の間で起こる生成変化こそが、時間の流れに晒すことの意味だ。(これを言い切ってしまうと再帰的なシステムに足をすくわれる。だからこそグロイスは遠回しにこれを暗示するしかなかった。)

グロイスと運命論

「そうすると次の疑問が現れる。もし芸術作品の運命があらゆる他の日用品の運命と変わらないとするならば、われわれはそれでもまだ芸術について語ることができるのか?」

(『流れの中で』p.8)

ここでグロイスは疑問によって運命論(世の中の出来事は、すべてあらかじめそうなるように定められていて、人間の力ではそれを変更できないとする考え方)を語ることで、グロイス流の生成変化を記述している。つまり、あらゆる事実が決定づけられている運命論において、可能性を疑うこの疑問形はアンチテーゼとして現象し、文体と内容の命題と反命題はただちに止揚される。「そうすると次の疑問が現れる」というとき、グロイスはそのような疑問の生成変化が現れることを予期している。

ゲオルク・ジンメルは運命論が三つの構成要素からなっていることを語っている。一つは、主体を凌駕する超越性、二つ目は、個体的なものの強調、そして三つ目が、運命論的に語ることを希求する主体の欲望である[3]。一つ目の超越性に関しては、先述した通り、グロイスは疑問形という文体を採用することによって退ける。また、芸術や日用品の運命を「変わらないとするならば」と仮定することで、運命論における個体的なものを退け、むしろモル的に、運命の流体力学を考えている。さらに、「それでもまだ芸術について語ることができるのか?」と問うことで、運命論の三つ目の要素である語る主体の欲望から、可能性へと主題を転嫁させている。つまり、グロイスは運命論を語りつつ、ジンメルの運命論の三要素を弁証法的に放棄する。運命論の要素を放棄したならば、それでもまだ運命論的に語ることは可能か。これがグロイスのひとつの問いである。

芸術作品と日用品に変わらない運命は、意味の場が不変の存在であり、意味の示す未来像である。つまりグロイスが主題化するのは美術館/認識の外側に「残された場」の運命だ。また、「われわれはそれでもまだ芸術について語ることができるのか?」という疑問は、残された場に芸術として語り得るものはまだあるのか、あるいは、残された場という認識の外部についてもまだ語ることができるかという二通りの解釈が可能だ。さらにこの二通りの解釈可能性によって、あるものに運命がある(あらゆるものが事前に決定されている)として、べつのものに運命がない(自由に解釈し、問うことが可能)ということがあり得るかという問いが派生する。つまり、残された場は芸術か、あるいは認識の外部について語ることはできるか、あるいはそもそも問うことは可能かということを運命論との関係の中で主題化しているということだ。

さらに、芸術について語ることができるかという問いとして読むならば、アーサー・C・ダントーの「芸術の終焉」との関わりが重要な意味を持つ。ダントーは、近現代芸術において、芸術と非芸術を隔てる枠組みは見えない差異に基づいていることが露呈されたという。また、それはもはや芸術の問題ではなく、哲学の問題であり、芸術の終焉は哲学的な問題として現れる。これはグロイスのデュシャン論にも近いが、グロイスは視覚における内と外の問題を認識における内と外の問題へと発展させている点や、それらを示しはしたが進むことはなかったという点において異なる性格を持っている。しかし、残された場を問うこと、あるいは問うことは可能かを思索することは、哲学ではないのか?グロイスはダントーから弁証法的に芸術の終焉を主題化する。ダントーは芸術の終焉にその先はなく、芸術家はどんな様式にも縛られず、どんな仕方でも、どんなものからでも芸術を作り出せるようになり、芸術における本質主義( 本質主義とは、人種、民族、性別といったカテゴリーに不変的な性質があるとする考え方)は多元主義(多様性を肯定、尊重する思想、哲学ではよく批判される)を内含すると言う。ではグロイスにとっての芸術の終焉とは一体どのようなものか。

この弁証法的運命論が、問いとの関係の中で自己措定的に問いに解を与えるその生成変化、あるいは、グロイスにおける芸術の終焉について、グロイスはこう続ける。

「ここで私は次の点を強調すべきであろう。私は時間の流れへと入る美術作品について語っているのだが、(略)美術がこの流れを描き始めたということを言っているわけではない。むしろ、美術そのものが流動的になったということを言っているのだ。」

ここである点が強調される。それは、時間の流れに美術作品が入ること、美術が流れを描くのではないこと、美術自体が流動的になったことの三点である。しかし、この強調では、例外的に「美術」や「美術作品」という語が使われており、芸術と美術を区別しながらも、芸術についての問いの中で美術について語っていることを強調する(非意味的切断)。ここで重要なのは「入る美術作品」や「美術そのものが流動的になった」というものと概念の二つの次元で能動的、主体的な側面である。

運命なき運命論は、疑問形の文体によって、いくつもの解釈可能性を示し、そもそも問うことは可能か、可能性は存在するかという哲学的な問いへと発展していく(芸術の終焉)。しかし、グロイスはそこで美術について語ることで、この問い自体が芸術と美術の相互作用(時間の流れに晒すことと入ること)を主題化する契機であったことを示しつつ、芸術における人間中心主義(芸術と非芸術の差異が人間の認識に基づくこと)の裏面には常に美術あるいは美術作品の自律性が存在していることを強調する。これこそが、弁証法的にダントーを解釈したグロイスにおける芸術の終焉だ。また、芸術について語る際に示されたヘーゲルやドゥルーズのようなグロイスにとっての流れの哲学とも形容すべき哲学者たちの裏面としても、哲学に対しての思想(芸術に対しての美術)のような、微細な差異をもって自律的に駆動するものを想起させる(哲学の終焉)。

それは、「ここで私は次の点を強調すべきであろう」という際の「ここ」を、それこそグロイス的に、パラドキシカルに予期することで、この本、あるいは芸術や哲学、あるいはこの本を読むわれわれの世界についてのことと理解することができる。今この瞬間にも、運命によって、運命の裏面として、運命にもっとも近く、かつ運命ではないものが、流れの中に主体的に入っていく。芸術作品の運命が時間の流れに晒されることだとするならば、運命は個人的なものでありながらも固有名における差異をもって、それぞれが自律的に他の固有名に働きかけ、予定調和的に応答するものだ。美術と芸術、これらの文字は術というイメージあるいは音によって同一の類(モル的)であることを予期するが、美と芸はイメージにおいても、音においても全く異なるものだ(分子的)。グロイスがこれらの固有名を用いてでしか示すことのできなかった運命論とは、まさに時間の流れに晒しつつ入るような、私と僕や、俺や自分の本名、あるはアカウント名がそれぞれに独立的で自律的でありながらも、予定調和的(まったく同じ時間を刻む時計は、それぞれ独立に動きつつ、同時に調和を実現している)にあるような個人という虚構における弁証法的運命論なのだ。

かくしてジンメルの運命論における三要素(一つは、主体を凌駕する超越性、二つ目は、個体的なものの強調、そして三つ目が、運命論的に語ることを希求する主体の欲望である)を否定しつつ持ち上げる。第一に主体を超越する、ある流れを運命と呼ぶのではなく、運命と呼ぶ主体の文体と内容の生成変化を運命と呼び、運命論において強調される主体における個は実在ではなく、それ自体として主体的で自律的な固有名=ペルソナ(人格)の予定調和である(流体力学)。第三に語る主体の欲望は、文章の上では運命を仮定することで否定的に登場させるグロイスにおいてもはや運命論を語ろうと言う欲望はなく、むしろ芸術の見せる未来像がどのような運命にあるのかを問う科学者的な視点による分析への欲望や平等主義に基づいたアート・ワールドへの欲望、哲学的な観点からの可能性の問いへの欲望が垣間見える。しかし、グロイスにおいて欲望はつねにすでに抑圧された形で充足される。これはドゥルーズにおける欲望の過剰性とも違い、グロイスにおける欲望はそれが充足されることのないものであり、かつ、抑圧された形では即時に充足されている。つまり、欲望は常に満たされることはないが、満たされることがないという未来像は即時に充足される。ここでグロイスは運命を語ることの欲望を放棄し、別の欲望に転嫁しつつ運命を語ることで、欲望によって充足されない、存在しない、欲望されない運命というものを語る。運命はべつの欲望を表象するための記号表現となる。しかしそれこそが、運命における個体性、つまり、科学における未来像でもあり、芸術における未来像でもあり、哲学における未来像でもあり、同時に運命でもあるような、ペルソナ的なものの在り方なのではないか。「ここ」、つまり、われわれの世界においての運命というのは、常に別のものを語る欲望の表現としてのみ出現する(運命は語り得ない=存在しない)。しかしそのことによって、運命は存在しないものへの欲望なき欲望、つまり欲望されていないにも関わらず、べつのものの欲望を表現する際に現れ出てしまうものとしての欲望として、弁証法的欲望として存在を願われるのだ。



[1] 長谷川 宏『新しいヘーゲル』p.18

[2] 中尾 拓哉「マルセル・デュシャンとチェス」

[3] 佐藤 透「運命論的語りの構造に関する試論」

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