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記者腕章がなくても、私はこれからもペンをとる

2011年3月11日、14時46分。インフルエンザによる出席停止期間を終えた私は高校校舎の4階の隅にある音楽室で久しぶりの部活動を楽しんでいた。所属している合唱部の引退まであと3ヶ月。年度内最後の定期試験も終わり(といっても私はインフルエンザで受けられなかったのだが)、新入生の勧誘と定期演奏会に向けてスタートダッシュを切った、その矢先のことだった。

音楽室とつながった準備室で顧問と演奏会の打ち合わせをしていたときだった。大きな揺れにめまいを起こしているのかと錯覚した。しかし何が起きているのか分からず呆然とする顧問を見て「これはまずいことが起きているのではないか」と音楽室へ飛び出した私の目に入ったのは、揺れに耐えられずしゃがみこみ叫ぶ同期と後輩たち、私が開けた扉を塞ごうと迫ってくるグランドピアノ、壁から落ちてくる時計。

「ドア開けて!窓から離れて、柱につかまって!!!」

あたふたする後輩に、そう叫んだことも昨日のことのように覚えている。

それから地割れした校庭に避難した。ところどころ校舎内の天井が落ちていたため音楽室がある高校校舎には戻れず、隣の中学校の校舎で夜中まで親が迎えに来るのを待った。

2016年9月、大学院1年生になった私は仙台を訪れた。美術史のゼミの同期たちと、日本三景や城跡、美術館をめぐる「美美旅行」と称した観光旅行だった。

天気に恵まれたこともあり、初めて訪れた仙台は私の目に自然の魅力にあふれ、なおかつ都市的なお洒落さもある街として映った。学部生時代はサークルに忙しくあまり旅行ができなかったので、「友人と国内旅行」という学生っぽい経験ができているのも楽しかった。夜は部屋飲みをして、眠くなるまで延々とババ抜きをした。

生牡蠣のおいしさも初めて知った。そして同時にそこが紛れもない「被災地」であることも知った。海沿いにあるその牡蠣料理店の壁や柱には、津波にのまれた跡が残っていたのだ。

私はそのとき、自分は上辺だけで東日本大震災を捉えていたんだとハッとした。埼玉県に住んでいた私にとって海は遠い存在。中学校舎のテレビで見た津波の光景に驚きはしたものの、あまりにも現実離れした映像に、他人事で、どこか遠い世界の、SF映画のワンシーンのように感じていた。

だが本当に現実に起きていたことなのだ。私がいつもどおり音楽室にいたように、この海辺を散歩したり、美味しい牡蠣に舌鼓を打ったり、友達と他愛もないおしゃべりをしながら部活をしていたり、卒業前の思い出を作ったり。

そんな日常を一瞬にして飲み込んだ津波は現実にあったのだ。そして今もその爪痕を被災地に残していたのだ。

2017年3月、都内のある会場で私は新聞社の入社試験を受けていた。作文にはこう書いた。

「自分の足で訪れ自分の目で見て経験し、自分事として伝える記者になりたい」

2018年4月、その思いを胸に新聞記者になった。その夏は西日本豪雨があり、また大勢の人の命が亡くなった。私はまた新聞やテレビを通して見ていた。

2019年、広島県に赴任した。警察担当の私の役割は被災地取材だった。西日本豪雨の記憶が新しいが、広島はそれ以前からも幾度となく豪雨災害や土砂災害があった土地だ。

被災地を訪れた私は、またもや当時の現実を知らない私だった。ニュースや記録、取材にあたった同期の話でしか知らない。自分事として発信したくて新聞記者になったのに、「ごめんなさい、ニュースでしか知らなくて……」と言う自分が悔しかった。

だから、何度も被災地に足を運んだ。当時の紙面や映像を見ながら、現場を歩いた。「ここに日常があったのだ」「ここでもがき苦しんだ人がいるんだ」と足の裏で感じながら、瓦礫の上を歩いた。記者腕章をつけて、現場に行き、被災者の方々に当時のお話や復興に向けての取り組みを聞いた。

災害報道は災害があった時期に集中しがちだ。だが災害はいつ起こるか分からない。被災者の方々はみんな「まさか自分が」と言っていた。そして「いつまでも防災や災害を他人事のままにしてはいけない」と訴えた。だからたとえ雨の時期でなくても、私は被災者の話を聞いては、常に記事にした。誰かの命を守るため、被災者の願いを未来につなげるため、なにより、災害を自分ごとにするために。

2021年。私はフリーライターになった。新聞記者の仕事にやりがいを感じていたものの、災害取材をするなかで、「私はこの仕事をしながら家族を守れるのだろうか」と思ったからだ。記者の仕事は読者の命を守れるかもしれない。だがいざというときに、自分の家を離れてしまうことに、矛盾を感じてしまった。

2月、3月はたびたび地震があった。揺れを感じた人たちの頭には「あの日」がよぎっただろう。そして私はこう思った。もし被災者になったら、どんな行動をするのだろうか、と。

きっと私は、ペンをとる。

被災した私しか見ていない光景、私にしか分からない不安や困惑、怒り、恐れ。どんな助けを必要としているか、どんな情報を必要としているか。どんなことが起きているのか。

取材が来る現場なら記者に話すかもしれないし、来ない現場だったら自分から発信しようとするだろう。

そうなったときに、自分の身を守り、現場の状況を伝えられるように、備えはしっかりしておこう。記者時代に備えたヘルメットや手動発電の懐中電灯や着替えなどは今も手元にある。スマホの予備バッテリーもいつも満タンだ。ないのは、記者腕章だけ。

次の大地震はいつ来るか分からない。もしかしたら自分が住んでいる場所が被災地になるかもしれない。仙台の牡蠣料理店で、広島の被災地で教えてもらったことを今後も胸に刻み、命を守れる人間でありたい。そして、自分の目で見て肌で感じたことを残すライターでありたい。

みんなが防災を自分ごとと捉え、悲しい別れをなくすために。

写真:2016年9月5日、友人たちと訪れたおだやかな宮城県松島町の海

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