見出し画像

知識と経験と人脈と。理想のリーダーになるには。

 2024年5月8日、「いま求められるリーダー像とは~経営マインドとパブリックマインドとの両立~」と題して、神藏孝之さん(以下、神藏さん)からご講義いただいた。松下政経塾2期生として、Panasonic創業者として有名な松下幸之助さん(幸之助さん)の生前を知る人物からの貴重なお話で、幸之助さんがどういう人物であったのかが感じられる時間だった。

【講師紹介】

神蔵孝之さん
・1956年生まれ
イマジニア株式会社のファウンダーであり、現取締役会長
公益財団法人松下幸之助記念志財団理事・松下政経塾塾長代理(松下政経塾2期生)
日本ビジネス協会理事長
一般社団法人プラチナ構想ネットワーク理事

1.松下幸之助という人物

 神藏さんは経営者をやって行き詰る経験を経て、改めて松下幸之助がどういう人物だったか分かるようになったという。
 幸之助さんは実は、生まれてから強烈な困難を連続的に経験している。父が破産したことで一家貧乏生活になり、幼少期は丁稚奉公をしていた。学校も中退せざるを得なかったため学歴もなく、更には20歳になるまでに親族のほとんどを失い、自身も病弱であった。松下電器創業後も戦争が起き、*様々な不当な制限を受ける。特に終戦直後の1946年から1951年は日本の占領時期で、幸之助さんにとって「空白の5年間」と言え不遇な苦難の時期であった。「国が国家経営を誤ったから国に協力した者(自身も含む)も身ぐるみをはぐされた」と公の憤りを抱いた。そこから幸之助さんは、経営だけでなく、「人間」について考える哲学者/思想家の一面を持つようになる。また「人を育てる」ことに注力していく。

*・GHQから「財閥指定」「制限会社指定」「公職追放」などの7つの制限を課せられた
・「物品税滞納王」と呼ばれる
・創業以来初の(約1万9千人の)人員解雇をした 等

2.「預言者」であり「革命家」

 1946年11月に幸之助さんはPHP(Peace and Happiness through Prosperity)研究所をつくり、「繁栄を通じた世界の平和と幸福」を説いた。全てを失い、人々の心もすさんでいた日本において、「老人の道楽だ」「おとぎ話だ」と言われた。しかし1962年にはアメリカの雑誌『TIME』の表紙に載り、その中で幸之助さんの思想についても評価を受けている。1979年にはPHP研究活動の一環として松下政経塾を設立し、PHPの実践を率いる日本のリーダーを育成しようとしている。

 財団法人松下政経塾設立趣意書
 わが国は戦後、経済を中心として、目をみはるほどの急速な復興発展をとげてきた。そして、今や一面に世界をリードする立場にまでなってきたのである。
 しかしながら、日本の現状は、まだまだ決して理想的な姿に近づきつつあるとは考えられない。経済面においては、円高をはじめ、食糧やエネルギーの長期安定確保の問題など国際的視野をもって解決すべき幾多の難問に直面し、また、社会生活面においては、青少年の非行の増加をはじめ、潤いのある人間関係や生きがいの喪失、思想や道義道徳の混迷など物的繁栄の裏側では、かえって国民の精神は混乱に陥りつつあるのではないかとの指摘もなされている。これらの原因は個々にはいろいろあるが、帰するところ、国家の未来を開く長期的展望にいささか欠けるものがあるのではなかろうか。
 そのような正しく明確な基本理念があれば、そこから力強い政治が生まれ、その上に国民の経済活動、社会生活も安心して営むことができ、ひいては国民の平和、幸福、国家の安定、発展ももたらされるのである。従って、今日の国の姿をよりよきものに高め、すすんでは国家百年の安泰をはかっていくためには、国家国民の物心一如の真の繁栄をめざす基本理念を探究していくことが何よりも大切であると考える。
 同時に、そのような立派な基本理念が確立されても、それを力強く具現していく為政者をはじめ各界の指導者に人を得なければ、これはなきにひとしいのである。幸いにして、天然資源には恵まれぬわが国ながら、人材資源はまことに質の高い豊かなものがある。まさに人材、とりわけ将来の指導者たりうる逸材の開発と育成こそ、多くの難題を有するわが国にとって、緊急にしてかつ重要な課題であるといえよう。
 私たちは、このような観点から、真に国家を愛し、二十一世紀の日本をよくしていこうとする有為の青年を募り、彼らに研修の場を提供し、各種の適切な研修を実施するとともに、必要な調査、研究、啓蒙活動を行う松下政経塾の設立を決意した。この政経塾においては、有為の青年たちが、人間とは何か、天地自然の理とは何か、日本の伝統精神とは何かなど、基本的な命題を考察、研究し、国家の経営理念やビジョンを探求しつつ、実社会生活の体験研修を通じて政治、経済、教育をはじめ、もろもろの社会活動はいかにあるべきかを、幅広く総合的に自得し、強い信念と責任感、力強い実行力、国際的な視野を体得するまで育成したいと考える。
 私たちは、この研修によって正しい社会良識と必要な理念、ならびに経営の要諦を体得した青年が、将来、為政者として、あるいは企業経営者など各界の指導者として、日本を背負っていくとき、そこに真の繁栄、平和、幸福への力強い道がひらけてくるとともに、世界各国に対しても、貢献することができるものと確信するものである。
 このような松下政経塾が、広く国家国民の期待に十分応え、積極的かつ恒常的に活動していくためにも、公共的機関として運営推進するのが肝要と思う。よってここに、財団法人 松下政経塾の設立を発起する次第である。
昭和54年1月22日

https://www.mskj.or.jp/about/mission.html

 この松下政経塾の設立趣意書は、日本の未来を見たものであり、今考えるとその通りだと感じるが、設立当時は「何を言っているんだ」という評価を受けていた。このことから、幸之助さんは日本の未来を見据える「預言者」であり、日本が繁栄に向かうための実践活動をした「革命家」であったと言える。

3.過酷な人生×経営者

 最初に説明した通り、幸之助さんは壮絶な人生を歩んできた。世界の成功した企業経営者を見てみると、同様に過酷な人生を送っていることが分かる。(ジョブズ、ジェフ・べゾス、イーロン・マスクなど)。彼らは、その苦難の人生から生まれた「反骨精神(不良性)」を持っており、幸之助さんは同時に、戦後に公に目覚めたことから生まれた「高貴性」の両側面を兼ね備えていた。この清濁を併せ呑む、両義的な精神性を持っていたことが幸之助さんを稀代の人にした。

4.未来を見据える

 幸之助さんの経営実績を見ると、常に未来を見据えていたことが分かる。例えば、松下電器は「女性を労働から解放する」を一つの目標として掲げていた。洗濯機や冷蔵庫など、女性の時間を奪っていた家事を代わりにやってくれる家電を次々と提供していった。戦後ゼロと化した日本は、家電の販売においてポテンシャルの高いマーケットであった。発想のヒントとして幸之助さんは渡米している。当時はアメリカにとって、ベトナム戦争に入る前の最も良い時代であった。そこで見た自由な生活をヒントに、今ではなくてはならない家電製品を日本にもたらした。
 また、戦後の松下電器はM&A(企業の合併と買収)の嵐であった。常に未来を見据えていたことで、幸之助さんは未来に求められる企業や経営者を見抜く力があった。更に人を惹きつける人間力もあったため、買収先の経営者や従業員の心をつかみ優れたPMI(M&A後の統合プロセス)を進めた。例えば、買収先を完全に吸収するのではなくグループ傘下に置き続け、人材は提携先や買収先の優れた人材を採用した。(例:高橋荒太郎、中川懐春、山下俊彦など)。

5.ついていきたい人物

 幸之助さんは何事にも理念やビジョンを掲げていた。人間力があり、目標に向かっていく姿に人は魅了されついていくのだ。幸之助さんは経営者の条件として「運が強い」ことをあげている。それはつまり、自分がピンチのときに助けてくれる誰かがいる、ということだ。日々「徳を積む」ことで、直接的な助けではなかったとしても、まわりまわってその徳は返ってくると考えていた。
 幸之助さんの死後、Panasonicでは合理化がすすめられ、2000年以降に大量リストラが行われた。結果的に大手の家電・IT企業に流れ、活躍している。更に液晶テレビからプラズマテレビにシフトしたが、前者の方が生き残ると気づいても後戻りできなくなっているなど、主要産業の深化と新規事業の開拓を両輪でまわせていない現状があるという。人を大切にすること、未来を見据えビジョンを明確にすることが重要であることが分かる。[RN1] 

6.国家の経営

 幸之助さんは戦後、政治の在り方、国家の経営方法について考えるようになる。その中で大きく3つの政治ビジョンを掲げている。

①    無税国家
 幸之助さんは所得税が*75%だった時代に最高税率で納税した実体験から生まれた発想。国家の経営努力により生まれた余剰を積み立て運用し税金のいらない国にすべきだと考えた。
*全国商工団体連合会、「消費増税法案 世論広げ廃案へ全力!」、https://www.zenshoren.or.jp/zeikin/shouhi/120416-03/120416.html (最終閲覧:2024年5月9日)

②    新国土創成論
 日本は山が多く周りを海に囲まれているため国土が狭い。国民の生産活動を活発にしたり、需要を生み出すために国土を広げようと考えた。

③    政治の生産性の向上
政治の非効率性と遅さを感じ、向上すべきだと考えた。

 実はこれらを実践した者がいる。リー・クアンユーと鄧小平だ。2人ともアジア人であり、松下幸之助と関わりのある人物だ。

①    リー・クアンユー
・シンガポールの初代首相
*シンガポールにあるPHPオフィスを何度も訪問した
・マレー系と中華系の対立でマレーシア連邦から追放されるように分離独立したシンガポールを「アジアで最も豊かな国」へと成長させた。
・税制面において世界で最も住みやすい国であり、無借金かつ国家の貯金はGDPの2倍強ある。教育、英語を国策として推進し、人の付加価値を高めた。
 「シンガポールは明るい北朝鮮」「リー家の一家経営国家」という批判があるが、「小国家がどうしてどのようにここまで成長したのか」という視点で見るべきだと神藏さんは仰っていた。

②    鄧小平
・中国の政治家
*副首相の時に松下幸之助の教えを乞うために松下電器の工場を訪問
・市場経済化のビジョンを掲げ、経済特区指定によって中国・深圳を驚異的に発展させた。「中国のシリコンバレー」と呼ばれている。
*任正非
・ファーウェイの創業者。
・文革時代 (知識層の迫害と武力闘争)に教師の両親のもとに生まれて苦難を体験した。
・社員持株制度が特徴的。(2018年時点で約10万人の従業員が株主。任氏は全体の0.1%以下の株のみを保有)。
・ファーウェイはアフリカで普及した。(温家宝がアフリカを巡ったときに「中国(ファーウェイ)のお陰でスマホが普及した」と言われた程)
・親日で会社に茶室もある

7.神藏さんのケース

・やっぱり直接人に会いに行く(要人に会ってもらうための努力が大事)

・人がやらなかったことに挑戦する

・バイタリティに溢れていても高齢になると見えなくなる部分も多い
→早めに後継者を育てて交代する

・友人の会社のアドバイザーや株主などを引き受ける(九州産交、ハウステンボス、日本ビジネス協会、ミサワリゾート)

8.未来を見据えるために

 「今はどういう時代なのか」時代認識を持つことが重要だ。現代は歴史的な「転換期」である。理解するためには、幕末の転換期を参考に考える。幕末の転換期は大塩平八郎の乱(1837年)から始まり、ペリー来航(1853年)や井伊直弼暗殺(1860年)などで大きく転換し、明治維新へと移り変わっていった。当時、西欧からの圧力を受け、コレラが流行り、激しいインフレが起きていた。これは現在に重なる背景だ。現在、中国が超大国化し、コロナが流行り、インフレが起きている。
 当時はなぜ転換期を乗り越えられたのか。カギとなるのは松平定信が行った「寛政の改革」だ。寛政の改革は緊縮財政として知られているが、実際は教育改革だった。科挙を模倣した「学問吟味」という試験を導入したことで全国に教育機関が急増した。その結果、各藩の中に優秀な人材が生まれ、彼らが交流することで幕末の転換期を乗り越えることができた。その多くは下級武士や農民であり、世襲の時代であれば活躍できなかった人物たちだ。貧しくても優秀な人材はおり、努力して学べば、能力があれば活躍できることが証明された。

9.まとめ(大切にすべきこと)

・人間力を高め、どんな人とも人脈構築をし、それを大切にする

・さまざまな経験を通じて感性を磨く(人と直接会って、友達・仲間作りをする)。
→分からないことを聞ける人(専門家)が見つかる
→色んな分野・タイプの人の話を理解し話についていける程度の知識や学問は最低限身につける必要がある

・歴史や哲学を教養として身につけ、洞察力や構想力を磨く。
→全体を見渡す力に繋がる

・リスクテイクしてどんどん経験する
→度胸、反骨精神、勇気、挫けない力を身につけられる

この記事が参加している募集

なりたい自分

with ヒューマンホールディングス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?