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私が批評したいと思った原点と好きな作品の基準並びに具体例

さて、最近またフォロワーや読者のアクセス数がまた増えてきたのだが、以前も何度か述べた私にとっての「批評」の原点と好きな作品の基準並びに具体例を挙げていこう。
これまでにも似たようなことは述べてきたが、今回はその総まとめを兼ねて、改めて私自身の中で軸がはっきりしてきたこともあり、掲載しておきたい。

私にとっての作品批評の原点

私が何故こんな珍妙な批評の道に進もうと思ったか、理由はシンプルで自分にとっての原体験として衝撃を受けた作品を徹底的に擁護したいからに他ならない。
私にとってのそれは最初は『星獣戦隊ギンガマン』(1998)であり、その次が『勇者エクスカイザー』(1990)『機動武闘伝Gガンダム』(1994)である。
いずれも私は狂おしい程に大好きなのであるが、ネットで改めて見てみると全体的に粗雑な語られ方が目立ち、それに苛立ったことが大きい。
特に「Gガンダム」はどうしてもその作風の突飛な部分ばかりが目立ちゲテモノ扱いされるが故に、我慢ならずといったところが目立った。

「ギンガマン」や「エクスカイザー」にしても同じであり、やはりネットではどうしても名作ではあるもののファンの注目が絶対的なまでに集まるほどではない。
例えばスーパー戦隊シリーズだとどうしても「ジェットマン」「カーレンジャー」「タイムレンジャー」「シンケンジャー」といった突飛な個性を持つ尖った作品ばかりが語られる。
しかもそれらの作品群も脚本家の作家性のみがピックアップして語られ、まだまだ「映像作品」という点での語られ方において十分な批評の文脈が形成されていない
尚且つ宇野一派の連中は平成ライダー初期作品(特に白倉×井上コンビの作品)を高尚なものとして持ち上げて批評し、スーパー戦隊シリーズに関しては雑に「様式美」なんて言葉で済ませている。

と学会の山本弘にしたって、やはりこないだ紹介した「シンケンジャー」しかり「カーレンジャー」しかり、脚本家の作家性という偏った見方でしか作品を粗雑に論じていない
世間の認知度の低さのみならず、ファンレベルであってすら十分な批評や研究をしっかり行っていないということに腹が立っている。
確かに私は映画をはじめ芸術作品なんて各々が好きに見て好きに楽しめばいいとは書いたが、それにしたって作品に対して、画面に対して真剣に向き合った上での感想・批評は極めて少ない
そういうことへの憤慨と失望から私自身もまたファンの端くれとして、それなりの言語化能力に恵まれたものとして微力ながらお力添えできればという次第である。

好きな作品の基準

上記の3作品(『星獣戦隊ギンガマン』『勇者エクスカイザー』『機動武闘伝Gガンダム』)も含め、私にとってどんな作品が好きかの基準をある程度言語化しておこう。

  • 作品の形式(構成)が美しい

  • 演出がシンプルかつミニマル

  • ストーリーにもキャラクターにも偏り過ぎていない

  • その作品でしか表現できないショットがある

  • 現在見ても尚古びない衝撃を与えてくれる

大体このあたりだが、これに加えて私が今後批評していく際に改めてどういう基準で批評していくのも記しておく。

  • その作品にとって決定的な場面やショットを見逃さない

  • あくまでも画面に表象されているものを列挙していく

  • 作品の向こうに哲学・思想・作家の心理を無理に読もうとしない(セリフなどでそれが意図されたとしても)

  • キャラの心情や感情などを細かく分析しようとしない

要するに「作品を作品のまま楽しむ」ことが大前提なのだが、結果として蓮實重彦がやっている表層批評に近いスタイルになった。
今の私の考えは「形式が美しければ、意味は後からついてくる」という考えであり、あくまで「手段」「考えの1つ」として彼の書物を読んでいる。

今の考えが形成されたのは予備校と大学の教えが大きい

読者やフォロワーの中にはまるで私が最近蓮實の表層批評を信仰したかのように思う方がいるかもしれないが、それは断じてない
以前も述べたように、私は東大出身でも立教出身でもないし蓮實重彦の門下でもない、あくまでも映画専門の親友Fに著書を紹介してもらったのみである。
ただし、浪人時代と大学時代で私は言語学(英語学)を履修し、その中で特に統語論と意味論(認知言語学)の2つを深く学んだ。
予備校時代に私が信頼していた英語の先生はどちらかといえば統語論の立場の人で、論理的に文構造を取りながら長文読解や英文法、英作文を教えてくれた。

その人は決して余計な意訳をしようとせず常に直訳で勝負することを是とする人であり、授業が早く終わったら「はい、じゃあテキストをさっさと閉じてしまいましょう」とドライな態度である。
なぜそうだったかというと、あくまでも大学合格のための答案を重視する人だからであり、書いてある長文のテーマや題材から何かをその奥に見ようとは決してしなかった。
その考えをしっかり1年かけて叩き込まれたこと、そして大学に入った時に改めてその教えを統語論・意味論という形で学んだことで、より言語の魅力を知る。
そしてその中で、あくまでも意味論は統語構造がしっかりしている文章でなければ成り立たないことを教えられたという経験が今にも根底にあるのだと思う。

映像作品には明確な言語形式はないが、フレーム(枠組み)はある

こちらでも説明されているが、言語学とは異なり映像作品には明確な言語はないのだが、それに取って代わるものとしてフレーム(枠組み)やキャメラワークはある
それがいわゆるカット・ショット・シーン・シークエンスといった言葉ならびに概念で説明され、批評家はこれらを基に良し悪しを判断していく。
とはいえこれらはあくまで「具象=実践」であり「抽象=理論」ではないため、厳密な定義や原理としてこれといったものがあるわけではない。
そのため、実は蓮實重彦の表層批評もかなりやり方としては強引なもので、原理がないところに無理矢理表象文化論の概念を持ち込むようなものである。

だから、実は作品批評とはほとんどあってもなくてもいいようなものであり、またこれが批評として絶対の正解だと定義しうるものでもない。
私はあくまでもそうではないというスタンスであって、例えば宇野・切通・宮台・宇多丸・町山らがやっている実存批評(作品の向こう側=深層を深く読む批評)が間違いでもないのだ。
とはいえ、実存批評の問題点は上記の意味論(認知言語学)の問題点と共通していて、あくまでも主観に基づく解釈の領域だから客観性や公平性といったものに欠ける
堂々巡りの議論になってしまうし、そういう批評のスタイルは議論をこねくり回せば回すほど元の作品からかけ離れた別物になってしまう

そういうこともあって、私自身もかつては意味論ベースの解釈・読み解きを中心にやっていたが、ある時ふと「やっぱりこれでは限界があるし元の作品からズレている」と思い至った。
そもそも私が最初に上記の作品に出会った時はそのような意味解釈なんてせず、純粋に作品そのものに出会えた感動や衝撃の体験を大事にしたはずだし、あくまでも「面白い」「つまらない」でいいのである。
その原点に素直に立ち返った上で、じゃあそれらを「現在」として純粋に接して見るとどうなのであろうということが今の私のスタンスだ。
だから他の人にオススメなんて間違ってもしないし押し付けるつもりもない、何度もいうが作品なんて好きに見ればいいし好きに評価すればいい。

ただし、私自身のこだわりとして改めて「作品を作品のまま楽しむ」というスタイルで今後は感想・批評を書いていくという決意表明である。

絶対的に好きな作品と簡易コメント

上記を明らかにした上で、改めて絶対的に好きな作品と簡易コメントを記しておく。

『星獣戦隊ギンガマン』(1998)


スーパー戦隊シリーズ第22作目。『鳥人戦隊ジェットマン』(1990)で描かれた「80年代戦隊の解体(死)」を踏まえた激動の90年代戦隊の試行錯誤を踏まえ、90年代後期に戦隊シリーズのニュースタンダード像として描かれたシンプルかつ大胆・ストレートなヒーローと宇宙最強の海賊バルバンとの伝説の戦いを現代社会に復刻し、それを青山親子のモキュメンタリーという「外」の視点からメタ化しつつ描き切ったファンタジー戦隊の金字塔。アクション・脚本・デザイン等々あらゆる面で「これこそが戦隊だ!」と力強く打ち出す強固な作風と形式の美しさ、そしてそこにおける画面の運動が素敵な逸品。現在改めて批評文を構想中。

『勇者エクスカイザー』(1990)


勇者シリーズ第1作目。「反ガンダム」を掲げ平成初期の新たな時代の象徴として生まれた本作は正に子供向けロボアニメとして既に1つの金字塔に達するレベルのものを描き切った。こちらも「ギンガマン」と同じく敵が宇宙海賊であり、それを逮捕しにやってきた宇宙警察のカイザーズと星川コウタを中心にした心の交流、そしてロボアクション等々シンプルかつ大胆な原初的ロボットヒーローの気持ち良さは今でも見る者の心を刺激する。勇者シリーズというとどうしても最終作の『勇者王ガオガイガー』(1997)が目立つが、やはり「現在」にも通用するレベルの迫力と衝撃を作品の強度として兼ね備えているのは本作であろう。こちらも批評文を構想中。

『機動武闘伝Gガンダム』(1994)


テレビシリーズとしては第5作目になるガンダムシリーズ屈指の異色作。『疾風!アイアンリーガー』(1993)でSDロボを用いた擬似的な熱血スポ根アニメの復権を描いた五武冬史・山口亮太をはじめとする新規スタッフと同時期にOVA『ジャイアントロボ』を製作していた今川泰宏監督が組んだ最初で最後の奇跡的なタッグであり、富野ガンダムの残滓が強くありながらもそこからの解放を目指して作られた一昨。「アナザーガンダム」の始祖であると同時に車田漫画を彷彿させる外連味溢れる必殺技の演出の復活も兼ねながら、その中にも「ガンダムファイト」の内包する問題と呪縛からの解放に成功した傑作中の傑作。こちらも批評文を構想中。

『超電磁マシーン ボルテスV』(1977)


長浜ロマンロボシリーズの第2作目にして、70年代の王道型ロボアニメの金字塔。父性愛をテーマにした大河ドラマ方式の縦軸が強いドラマ性が注目されがちだが、それを通して表象されているボルテスVのアクションも秀逸で、前作『コン・バトラー』の反省点を全て消化(昇華)し、最終回の怒涛のカタルシスは今でも見るものに凄まじい衝撃を与えうるであろう傑作。1クール短縮で終わったことが惜しまれるが、そのおかげで作品のクオリティーが高まり、フィリピンでは大人気で今年に入ると実写ものまで作られるほどの熱狂的な人気を誇る。

『キートンのセブン・チャンス』(1925)


サイレント映画の三大喜劇王の1人バスター・キートンが作り上げたスラップスティックコメディの中でも間違いなく金字塔と断言する傑作。お話自体はキートンと惚れた女がくっつこまでのラブコメなのだが、後半〜ラストに向けての花嫁候補とキートンの追いかけっこのドタバタは、転がる岩も含めて現在見ても「どうやってこんな画を撮ったんだ?」と思わず唸ってしまうほどであり、これに匹敵する身体性のアクションはその後のいかなる俳優・監督も生み出せていないと断言して差し支えない。スラップスティックはもちろんのことアクションとしても洋画としても今のところ本作を超えるものにはまだ出会えていない。

『ファンタジア』(1941)


初期ディズニーのフルアニメーション最高傑作。手描きのアニメーションもそうだが、実写の演奏も兼ねあわせた「音」と「画」の組み合わせとしても素晴らしく、かの小津安二郎が絶望の言葉を口にするのも納得しうるクオリティーの高さである。今では既得権益と化してしまったディズニーであるが、その創設者ウォルト・ディズニーがいた初期作品は文句なしに「映画」と断言する。洋画のアニメーションとしては本作と後述する『トイ・ストーリー』(1995)が間違いなく金字塔として現在でも通用する完成度の高さを誇る。

『東京物語』(1953)


小津安二郎の作品並びに全ての邦画の中で本作を超えるものは私の中では出会えていない。戦後日本の家族の崩壊や息子夫婦に酷い扱いを受ける老夫婦、そんな老夫婦に唯一甲斐甲斐しくしてくれた未亡人という通俗的なテーマや話をごく普通の日常として淡々と、しかしとても心地よいリズミカルなテンポとミニマルな演出で描き切った傑作。特にそれまで「いい人」であった紀子(原節子)が「とんでもない!」と言いだし、顔を伏せて泣くシーンの衝撃は今でも言語化しにくいが、これがあるからこそ今でも世界トップに評価される作品なのだと納得しうる。何度見ても古びない新鮮さを現在でも持ち得ている点も含めて邦画の金字塔。

『トイ・ストーリー』(1995)


ディズニーの『ファンタジア』(1941)と並ぶ洋画アニメーションの金字塔。「CGによるフルアニメーション」はもちろんのこと、「オモチャだけのコミュニティー」という世界観の描き方も秀逸であり、日本でやっていたSDロボの擬人化の更に先を行き日本のアニメーションの歴史をまたもや八つ裂きにして引き千切ってしまうレベルの傑作。集大成の「3」ももちろん素晴らしいのだが、何よりも作品が持つ画期性と完成度の高さ、そしてラストのウッディとバズの友情が画面の運動として表象されカタルシスとして収束していく様が今見ても美しく、それこそ古びない名ショットとして残り続けるであろう。

『イノセンス』(2004)


押井守作品の集大成であるのはもちろんのこと「CGと手描きの融合」という点においても、そして押井守がやりたかったアニメの実写風ガンアクションとしても文句なしの傑作である。邦画アニメーションでオススメを挙げろと言われたら間違いなくすぐさま本作の名前が出るくらいに大好きであり、よくストーリーが衒学的で難解と言われるが全然そんなことはなく、セリフをちゃんと聞いて画面に集中していれば素人でもわかるレベル。まあそんなところまで『ブレードランナー』に寄せなくてもとは思うが、『GOHST IN THE SHELL』(1995)の先を行く集大成として見事な一作。

『ドラゴンボール超ブロリー』(2018)


これは個人的趣味になってしまうが、やはり『ドラゴンボール』映画としてもそうだし、バトル漫画・アニメの中で本作を超えるものは存在しないと断言できるシリーズ最高傑作。原作のサイヤ人編〜ナメック星編の私が原体験で感じていた「際限ない強さのインフレと高まるボルテージ」というあの興奮をサイヤ人代表の孫悟空・ベジータ・ブロリー・フリーザという4人の圧倒的強者のドラマに集約させ、前半をイントロとしてAメロのベジータVSブロリー、Bメロの孫悟空VSブロリー、間奏のブロリーVSフリーザ、そしてサビのゴジータVSブロリーという美しい構成とバトルシーンの凄さは『イノセンス』(2004)を超えた金字塔。

作品の批評をしたい人へ

さて、最後にこれから作品の批評をしたいという人へ、最初に書いた通り批評とは所詮自分にとっての「これだ!」と言える作品の魅力を擁護する行為でしかない。
だからどう見てもどう評価しても構わないが、見るからには本気で見て欲しいし批評するなら「俺は徹底的にこれを擁護する!」と決めて真摯に作品と向き合おう
大事なのは「どの作品を擁護したいか?」ということと、そのための批評のスタンスをハッキリさせて取り組むことである。
少なくとも私はこのスタンスで今までも今後も行くつもりなのでよろしく。

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