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「処女作には、その作家の全てが詰まっている」は誠にその通りである〜完成した傑作がもたらすエントロピーの増大とスーパー戦隊シリーズ〜

先日の「シン・仮面ライダー」の感想で庵野監督並びに彼の作品群を「私にとって見る必要のないもの」だと書いたが、これには別の根拠がある。
彼の作品群は「トップをねらえ!」から一貫してそうだが所詮は"エピゴーネン"(亜流)に過ぎないし、本人もそのことに対する忸怩たる思いがあるからだ。
先人の真似ばかりをして、そこから先の独自性あるものを生み出せなかったというこの一点において、庵野監督は確かに一度とて先人を超える傑作を生み出せなかった。
最大のヒット作である『新世紀エヴァンゲリオン』でさえ、その大元となった「帰ってきたウルトラマン」「機動戦士ガンダム」「伝説巨神イデオン」を超えていない。

そしてその事実は「シン・ゴジラ」から続く近年の特撮作品のリメイク作で誰の目にもわかる形ではっきりしてきたことである。
「シン・仮面ライダー」で庵野監督のことを「劣化した」と嘆く声が多いようだが、これは決して正確な表現ではない。
庵野監督は劣化したのではない、元々映像作家としては二流のままだったのであり、それにも関わらず世間は彼を一流だと囃し立てていた。
これは「ドラゴンボール」でいうミスターサタンみたいなもので、実力が大してないのに最強だという虚像が作られているのと同じことだろう。

その化けの皮が「仮面ライダー」という何度も原点回帰のエピゴーネンが作られ原典が擦り倒された作品によって剥がされた、ということではないだろうか。
それだけ「仮面ライダー」という作品は石ノ森先生が手がけた漫画版も、そして平山亨Pと伊上勝の時代劇コンビで作られたTV版の双方が偉大だったということだ。
実際以後の作品群は数字の上でも作風の変化という意味でも、ただの一度も原典としての『仮面ライダー』を超えることができていない
そして同じようなことはスーパー戦隊シリーズにおいても同じようなことがいえるのではないかと思う。

芸術作品を語る上で「処女作には、その作家の全てが詰まっている」という言葉を聞いたことがないだろうか?
これは土屋隆夫氏という推理小説作家が講談社『現代推理小説大系』第十巻のエッセイにて言ったことであり、大元はこの通りである。

一人の作家を研究しようと思ったら、まず、彼の処女作を読まなければならない。そこには、彼を知るための重要な手がかりがひそんでいるからだ。彼が、はじめてスタートラインに立ったときの姿勢は、疾走が終わるときまで、そう大きく変化することはない。処女作には、その作家の初心がこもっている。もちろん、仕事をつづけて行くうちには、題材も多方面にひろがり、小説作法の上での変化はあろう。読者はそれを、作家の変貌だと考える。しかし、変貌というのは、顔つきが変わることであって、いわば表面的な、形式的な変化にすぎない。内面には、依然として、初心を抱いた当時の血が流れている。質的な変化は、まことに乏しい。一人の作家は、彼の処女作の呪縛から終生のがれることはできないのだ。

この場合土屋氏は推理小説作家にその傾向が強いと言っていたわけだが、私が思うにこれは芸術・創作と呼ばれるジャンルのあらゆる物事に共通すると思う。
とりわけスーパー戦隊シリーズにおいては、脚本家においてその傾向が強くあり、それこそ小林靖子女史は正にその呪縛が今でも拭えない作家である。

もう7年も前だが、女史がゲストで出演した回の高寺Pの怪獣ラジオにて、このようなやり取りが散見された。

「なんか今「ギンガマン」みたいな作品は多分書けない」
「それはどういう意味で?」
「いや多分、ああいうストレートな、真っ直ぐな感じの主人公たちとかは多分書けないですね。「何かしちゃおう」と思って
「それはどういう意味で「しちゃおう」と思うわけ?」
「え、「これじゃストレート過ぎるよね」って思っちゃうんですよね、事件とかも」
「薄味な感じ?」
「薄味っていうか、「過去にあったんじゃない?」とか……違うものにしなきゃとかですね」

一連のやり取りを見ていてわかるのは、靖子女史は決して単なる歳を重ねたという理由だけで「ギンガマン」みたいな作品が書けなくなっていると言った訳ではないということだ。
「ストレート過ぎる」「薄味」「違うものにしなきゃ」といったネガティブな言葉が続いているが、要するに処女作として書いた「ギンガマン」の呪縛から逃れられないのである。
正に土屋氏が指摘している通り、たとえ「タイムレンジャー」を書こうが「シンケンジャー」を書こうが、それらはあくまで時代性と年齢の変化で表面上が変わったに過ぎない
内面にはどこまで行こうと「ギンガマン」を書いた時に抱いていたはずの女史の血が流れており、質的な変化は乏しく、須らくエピゴーネン(亜種)に見えてしまう

小林靖子という作家並びに彼女がメインライターを担当した作品はファンから「鬱展開」と呼ばれ親しまれているが、彼女の「作家性」の部分に言及してこんな見方をしている人はいない。
SNSを見ていると、やはり若手の特撮ファンで小林靖子女史が書いた作品の中で傑作として挙げるのは『仮面ライダー電王』『侍戦隊シンケンジャー』『仮面ライダーOOO』辺りである。
割と後期のイメージが強く「黒靖子」なんて一部のファンからは呼ばれているらしいが、私に言わせればそれも結局は『星獣戦隊ギンガマン』で書いたものの表面的な変化に過ぎない
以前に私が見かけた、特撮ファンの間で深い共感を呼んでバズっている結騎了氏は自身の記事でこのような見解を述べている。

私は小林靖子脚本の魅力は「油絵の絵の具をはがす」だと思っているんです。(中略)登場人物を新しい世界や人間環境に飛び込ませて「設定」で物語を組み立てるのではなく、世界や他者が主人公に影響を及ぼしていく「人物」ありきの物語構成

要するに、表面上は完全無欠に思われているヒーロー像の核である「人間性」の部分に焦点を当てて「想い」をドラマとして描くことで「ヒーローとは何か?」が見える構成ということだろう。
だが、結城氏のこの言い回しも本質を必ずしも言い得ておらず、なぜこのような作風が確立されたのか?ということの説明がなされていないのではないかと思えてならない。
「処女作に作家の全てが詰まっている」、換言すれば「三つ子の魂百まで」であるように『星獣戦隊ギンガマン』という作品に小林靖子の作家性の全てが詰まっている。
特にギンガマンの「核」といえる部分はリョウマと黒騎士ブルブラックの相克を通した試練という形で描かれているが、その集大成である「炎の兄弟」のリョウマとヒュウガのやり取りは戦隊史上屈指の名シーンだ。

「兄さん、さっきの話だけど」
「星獣剣、返すっていうのか?俺に」
「そうしようかと思ったよ。今日久しぶりに兄さんの凄さを見て。でも兄さん!俺にこのまま星獣剣の戦士として、戦わせてくれせないか!?」
「前の俺なら、こんなこと考えもしなかった。でも、今なら言える。俺、戦っていけると思うんだ!星獣剣の戦士として、バルバンを倒したいんだ!」

このシーンの何が素晴らしいといって、特撮史上でも類を見ない「戦士の継承(交代劇)」が克明にエピソードとして描かれていたということだけではない。
リョウマが決して「周りから認められているから」でも「お約束」でも、ましてや「義務感」でもなく、自らギンガレッドとして戦うことを決意したということにある。
前半の25話分を見ればわかるが、リョウマはヒュウガから正式にギンガレッドの資格を勝ち取ったわけではなく、どちらかといえばなし崩しに押し付けられた形だ。
だが、そこで「ヒュウガの暗黒面」である黒騎士ブルブラックとの相克を通してリョウマは「なぜ自分が星獣剣の戦士として戦うのか?」を突きつけられる。

特にその想いは第十九章や第二十章で描かれ、第二十五章でリョウマの口からはっきりと「俺たちは星を守るために戦っているんだ!」と出される。
なぜここまで描かれるのかというと、それこそ当時の時代性として、1998年という時代は「正しさ」とは何か?を自分たちで考えるべき時代に差し掛かっていた。
自分が戦いたいと思い決断したことを根拠として戦士たちは戦い、誰もそれに正当性を与えることはないという「心の強さ」が問われた時代だったのである。
実際、ギンガマンの5人は第一章でヒュウガを、第二章で故郷のギンガの森を失い頼れるものがほとんどいない中で自分たちが磨き上げた戦闘能力と判断力で戦うしかない。

もし「ギンガマン」以前の、それこそ上原正三・曽田博久・杉村升がメインを担当していた戦隊なら上位の存在がどうすれば正解にたどり着けるかを示してくれただろう。
組織に所属していること、強き力を持っていること、正義の戦士という立場や地位があることによってヒーローがヒーローたる所以が決められていたのが昔の戦隊である。
だが、井上敏樹が描いた『鳥人戦隊ジェットマン』がその図式を崩し、ヒーローとは決して強き力を持っているから正しいわけではないことを示した。
そして小林靖子は形は違えどその衣鉢を継いで、「ギンガマン」という作品で「公と私の間で葛藤しながら自らの決断で戦うヒーロー」を確立したのだ。

リョウマよりも強き力と心を持っているはずの黒騎士ブルブラックとヒュウガがその強さ故に道を踏み外し、闇堕ちするという展開もその一環として組まれている。
憧憬の対象であるはずの者たちですらも間違えることがあるという事実はリョウマに、そして当時の視聴者に「最後に頼れるのは自分しかいない」ことを知らしめたのだ。
それは当たり前といえば当たり前であるが、その「当たり前」を決して形骸化せず、分かったふりをせずに誠実に向き合って「ギンガレッド/リョウマのドラマ」として描いた。
その集大成として真のギンガレッドになるリョウマの姿と、そんなリョウマの背中を送り出し黒騎士ブルブラックの思いを継承した新たなヒュウガの姿が描かれる。

余りにも綺麗過ぎるこの構成の美は他作品でも類を見ないものであり、だからこそ後のシリーズであらゆるエピゴーネンを生み出すことになった。
この「炎の兄弟」で確立された小林靖子さんが描くヒーロー像は「タイムレンジャー」「シンケンジャー」「ゴーバスターズ」「トッキュウジャー」を貫く彼女の柱にして呪縛となる。
そしてその呪縛は決して女史だけではなく、スーパーシリーズ全体にまで影響を与えてしまったかもしれないとさえ思える程強固なものなのだ。
これが上記で解説されている「油絵の絵の具をはがす」という作風の中身であり、1998年当時にしてそこまで描き切ってしまった作り手の情熱・才能は筆舌に尽くし難い。

だが、このようなシンプルながらに大胆な普遍性のある処女作が生まれてしまうと、それはエピゴーネンの大量生産という形で「エントロピーの増大」を招く。
「エントロピーの増大」とはわかりやすくいえば「覆水盆に返らず」であり、一度完成したビジネスはその後緩やかな衰退期へと入って行くことになる。
2001年の『百獣戦隊ガオレンジャー』がその典型で、大量の玩具販促の為に「ギンガマン」を希釈しシリーズを商業主義へ仕向けた、ハメルンの笛吹きのような作品だ。
その変化は2009年の『侍戦隊シンケンジャー』にも影響を与え、あの作品ではとうとう小林靖子自身もニチアサの商業事情の波に吞まれていくことになる。

そして今度は横手美智子・香村純子らを筆頭としたあらゆる作家が小林靖子の書いた作品群を意識し、模倣をするようになってしまう。
近年だと「リュウソウジャー」もそうだったし、今放送中の「キングオージャー」もやはり「ギンガマン」のエピゴーネンを抜け出ていない。
これは何も私自身が好きだという主観でそう言っているのではなく、そもそも「戦隊とは何か?」「ヒーローとは何か?」を深くまで熟考した結果である。
その意味で「ギンガマン」という作品のある種不幸だったのは、長期的に大量のエピゴーネンを生み出させるきっかけを作ってしまったことだと思う。

もちろんそのことは作品の評価や面白さとは決してイコールではない、そのことは誤解のないようにフォローしておく。
「処女作に全てが詰まっている」ことと「処女作が最高傑作である」ことは必ずしもイコールではない。
しかし、処女作に全てが詰まっているから後は結局毛が生えたような表面上の変化しかしないというのはどのジャンルのどの作家にも言えることであろう。
今のスーパー戦隊シリーズが何を作っても過去作のエピゴーネンにしかならないのは由々しき問題である。

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