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挨拶が何故人間関係において重要なのか?を少々真面目に考えてみた

近年、コロナ禍もあってか、いわゆる「挨拶しない若者」が学校でも職場でも増えているのだというが、「挨拶しない若者」自体は何も今に始まった事ではない。
ただ、それが社会的な問題として取り上げられるということは人間関係もまた時代に応じて最適化したものが必要だということではないだろうか?
そもそも「挨拶が必要か?」なんてことで議論をする方が私は本質から外れているように思えてならないのだが、敢えてこの土俵に乗って「挨拶の重要性」について改めて論じてみよう。
何故今のZ世代〜α世代と呼ばれる人たちが挨拶しないのか?そして何故挨拶が人間関係において重要な役割を果たすのか?基本に立ち返ることは何事においても重要である。


今の若者が挨拶しない理由は「コミュニケーションコストを減らしたい」という考え

こちらに書いてあるが、今の若者が挨拶しない理由は詰まる所「コミュニケーションコストを減らしたい」、つまり「無駄をなくしたい」という考えから来るものらしい。
まず言葉遣いからして柄の悪い不良みたいな言い分だが、それ以上にこの寺嶋という人が述べる「挨拶不要=無駄を省く」という考え自体が大変底の浅いものであることの方が気になる。
パソコンやスマホが普及したこともあって、人間関係もスムーズであることが求められるからスムーズである方がいいという考えだが、まずこの考え方自体が間違っているだろう
私たちが普段使っているパソコンやスマホ自体にどう考えても「それ使わないよね」という無駄な機能のアプリケーションがゴロゴロあり、特にWindowsはそれが多すぎてエラーが起こったり動作が重くなったりする。

スマホに関しても同様に、人々がその機能性や重要性を100%理解してフル活用していることなんてほとんどなく、人間が作っている以上そもそも電子機器自体に無駄が多いという事実があるのだ。
パソコンやスマホだって同じことであり、大体が「こういう機能が必要だろう」というのを想定して作られているものの、それがユーザーにとって本当に必要なものかどうかは個人差がある。
むしろ、初期設定ではなかったアプリケーションをダウンロードして使ったり、逆に初期にあってもこれは不要というアプリケーションは削除して動作のパフォーマンスを上げようということもあるだろう。
その基準には個人差があり、何が必要で何が不要かなんて一概に決めつけられるものではないし、この寺嶋という人が述べている意見も結局は単なる個人の主観の領域を抜け出るものではない

特に「挨拶をした方が気持ちいいとか意味わかんないッス!精神論とか根性とか、そういうのはもうこれからの時代は流行らないッスからね」のくだりに関しては知性がまるで感じられない愚者の戯言である。
挨拶が何故精神論や根性の話になるのかもわからないし、そもそも挨拶をした方が何故気持ちいいのかということを自分で考え調べる前に思考停止してしまって「挨拶は無駄なものだ」と決めてしまっているのだ。
「コミュニケーションコストを減らしたいから挨拶したくない」という、一見筋が通ったようでいて実はとんでもなく破綻しているこの意見には何らの論理的整合性がない。
しかもそれだけではなく「自分の周りではほとんど挨拶しない」と言っているあたり、おそらく彼の仲間内では挨拶をしないのがごく当たり前というトンデモ理論がまかり通っているのだろう。

挨拶をしない時代が来ると彼は言っているが、それが主観的であれ客観的であれ、何かしらの論拠に基づいているのではなく、自分にとってその方が都合がいいからという自己正当化ではないのか?
時代に応じて人間関係のあり方は確かに変化はしていくことは間違いないであろうが、その変化の全てが必ずしも喜ばしいもの、人類全体にとっていいものであるとは限らない
挨拶をせずに始まる人間関係」というのが果たして本当に喜ばしく良い変化なのか?ということをきちんと熟慮した結果ならともかく、ネットで調べられる範囲を見る限りでは一過性の若者文化にしか見えないのだ。
若者文化は確かに時代を新しく切り開く上で重要なものではあるが、同時に「若気の至り」故の過ちでもあって暴走するととんでもない方向に行くこともあるから、そこは慎重に見ていく必要がある。

人間関係はブラックボックスの塊

若新が「人間にとって他者とは中身に何が入っているかわからない箱のようなもの」と言っているが、まさにその通りで人間関係とは身内であろうが赤の他人であろうがブラックボックスの塊である。
表面上は穏やかにしている人でも奥底では何を考えているかなんてわからないし、逆に表面上は強面の人であったとしても懐に入って打ち解けると意外に優しい人という場合もあるだろう。
ましてや不特定多数の人が匿名で意見交換をするネットのSNSやブログ・動画になると「顔の見えない相手」と言葉だけを交わすのだから、余計にそのブラックボックスの抽象度は否応無く増していく。
パソコンやスマホの例を上では説明したが、現代人の誰もが日常に必要不可欠な生活の手段として用いている電子機器自体がブラックボックスの塊なのだから、余計そうであるのには間違いない。

現実の人間関係自体がそもブラックボックスの塊なのだから、それが更なるブラックボックスの電子機器であるパソコン・スマホと組み合わさることで更に厄介なものになっているのだ。
実は現代では挨拶しない若者が急増して1つの社会問題であるかのように取り上げられているのは若者が悪いというより、そういう仕組みを作り上げてしまったデジタル社会の構造上の問題なのである。
私もそうだが、例えばネット上で記事を書いていていきなり見知らぬ赤の他人が話しかけてきたら「誰?」となるのは当たり前だし、いきなりフォローされたら「何で?」と普通は思うのではないか?
そんな時に迂闊に挨拶などしようものならとんでもない地雷を踏んでしまうことになったというケースも少なくはなく、よほど心開いていて付き合いの長い人じゃない限り自己開示は難しいであろう。

要するにインターネットのSNSで形成される「顔の見えない相手とやり取りをする」という文脈が逆にリアルの人間関係にも影響を及ぼし、たとえ職場の人であっても迂闊に挨拶できなくなったのではないか?ということだ。
考えてみれば当たり前の話ではある、敵か味方かもわからない見ず知らずの赤の他人に遠慮して踏み込めないのは当然だし、迂闊に踏み込もうものなら痛いしっぺ返しに遭うかわからないというリスクがある。
私が思うに、「コミュニケーションコストを減らしたい」というのはおそらく顕在意識の部分でそれらしく取り繕った建前・嘘であり、実際は敵か味方かわからない人に挨拶なんてできないという恐怖心があると思われる。
「見ず知らずの赤の他人に挨拶するな」というのを親から教わるが、子供の頃からインターネットのSNS文化を日常として享受し育ってきた若者にとってはそれが全ての人間関係に適用されてしまうのだろう。

ましてやこれが職場の人間関係となると余計に難しい、何故ならば職場の人間関係は「家族」でも「友達」でもない「仕事仲間」であり、最終的な目的は「利益を生み出すこと」だからである。
ちょうど1年程前に私はある人から「職場の人間関係がうまくいかない」と相談されたことがあるが、私は「必ずしも職場の人間と仲良くする必要はない。最終的に結果を出せればいい」と返した。
職場の人たちと仲良くしてメリットがあるならそうすればいい、仕事を教えてもらえて人間関係も円滑ならそれに越したことはないが、残念ながらそんな理想の職場なんて現実にはほとんどない。
仲間といってもいつライバルになるかもわからない人と何故仲良くする必要があるのか?を考えた時に、「それなら挨拶する必要もないのではないか?仕事さえできればそれでいい」と思うのも一理ある。

しかし、私自身はそこまで鑑みた上でなお「やはり挨拶はあった方がいい」と考えている。

挨拶なしの人間関係とはイントロなしの音楽のようなもの

私は職場であれネットであれ挨拶は可能ならした方がいいと考えている、何故ならば挨拶は人間関係を円滑にスタートしやすくするための潤滑油であり、それがあるのとないのとではだいぶ意味合いが変わる。
それこそ榎本温子つながりというわけではないが、芸術に喩えて見るなら、挨拶なしでスタートする人間関係はイントロなしでスタートする音楽のようなものだといえるだろう。
わかりやすい例として、「ふたりはプリキュア」三部作のOP動画を以下に挙げておくが、これのイントロがあるかないかで視聴者の感情移入の度合いは変わってくる。

例えば初代とMHでは「プリキュア×4プリティでキュアキュアふたりはプリキュア!」、そしてSSでは「プ・リ・キュ・ア!スパスパスパークSplash Starふたりはふたりはプリキュア」といった導入がある。
実はこの導入部分の歌詞とメロディーに大した意味はなく、ほとんど音遊びのようなものなのだが、導入としてこの音遊びのイントロがあるからこそ、メインの視聴者層である女児たちはすんなり入り込めるのだ
これがいきなり導入もなく「一難さってまた一難ぶっちゃけありえない」「固い殻を破って蕾が開く」から始まったらどうだろうか?唐突過ぎて視聴者はすんなりと作品の世界観に入りづらいのではないか?
子供は大人と違って感覚的にしか物事を理解できず、音遊びのようなシンプルなものが好きだから、こういうものがきちんとあるかどうかによってスムーズに入り込めるのである。

近年ではこの法則が崩れて、いきなりアバンタイトルから始まる作品が増えているが、私が00年代以降のスーパー戦隊や仮面ライダーに若干入りにくいのはOPが始まりではないからだ。
OPが始まってからAパートに入るのと、冒頭劇があってOPを挟んでAパートというのではやはり前者の方が素直に入りやすいというのはあり、実はOP→Aパート→Bパート→ED→予告はきちんと考えられた構造である。
そしてこれは芸術に限らずスポーツでも同じことであり、スポーツに例えるといきなりウォーミングアップなしで本番の試合を迎えるようなものであり、そんな愚行を犯すスポーツ選手はまずいない。
少しだけ下世話な話をするならば、例えば男女がセックスをする時だって、前戯をせずにいきなり本番を行うようなものであり、挨拶がないというのは即ちこの「導入」がないのと同じなのである。

漫才や落語でもそうだろう、落語には「まくら」があって漫才にも「どーもー!〇〇ですよろしくお願いします!」という挨拶から入る、コントにしたって導入の人間関係は必要だろう。
それこそ私が文章を書く時だって最初に「どういう意図でその文章を書くのか?」というさわりの部分は書くようにしており、それがあるかないかで書きやすさも読みやすさも異なる。
挨拶なしで人間関係をスタートするというのは要するにそういうことであり、確かになくてもいいものではあるが、あった方がすんなりと物事を始めやすくなるのだ
まあ音楽でも映画でも今はそういうイントロなしのものが増えているとのことなのだが、やはり導入があるかないか、助走をきちんとつけるかどうかは大事だと私は思う。

「無駄こそ必要」という想像力の欠如

そして最後に「無駄なコミュニケーションコストを省きたい」ということについても、「無駄こそ必要」という想像力が現代社会には欠如してしまっているのかもしれないということだ。
電子機器によって社会構造も人間関係もブラックボックス化してしまい、大量の情報に囲まれて育っているせいで、まるでコンピューターみたいに目の前のことをこなすので精一杯で精神的な余裕がない。
余白を残さないから、映画や音楽をじっくり楽しむ、一冊の本を読んで新たな知見を得て教養を深めるといった余裕が失われてしまっているのである。
物事を効率的にとか合理主義とかいうのは「仕事」の上ではそれでいいかもしれないが、人間は決して機械ではないのだし、産業革命が生み出した工場制労働の問題点は今なお解決されていない

私自身がINFPだからというのもあるのだが、私は常に余白を残して楽しみたい人間であり、物事をきちきちと詰めていってなんてことは自分の性分には合わないのである。
ましてや人間関係であればなおさらのことであり、私は最低でも自分の身内と職場の仲間・お客様にはきちんと「おはようございます」「お疲れ様です」といった挨拶はたとえ形式であっても欠かさない。
見知らぬ赤の他人同士が適切な距離感で程よい関係性で付き合うには必要だし、それがなくていきなり本題から話しかけられると、まるでパーソナルスペースに無遠慮に入って来られるようで嫌いなのだ
だから挨拶をきちんとできない人を見ると「距離感がきちんと取れない無神経な人」という印象を抱いてしまうし、やっぱり挨拶が1つあるかどうかでその場の空気はまるで変わってしまう、これは理屈ではない。

そもそも何が必要で何が無駄か、何が合理的で何が不合理かなんて二十歳そこらでわかるようなものではない、あくまでも様々な経験を試行錯誤でやっていった結果辿り着くものではないか?
それに、人生は必ずしも合理的なものや必要なものばかりで全てが成り立っているわけではない、むしろ遊びや無駄こそが人生を面白くもするし愉快なのではと私は思う。
無駄かどうかということでいえば、それこそ映画・音楽・演劇・小説・漫画・アニメ・特撮といったサブカルチャーは衣食住のメインカルチャーとは違い、必ずしも生活必需品ではない。
それでもないよりはあった方が人生に彩りが出て面白くなるし、例えば現代のファッションなんて「衣」をいかに芸術的な遊び心で面白くできるのか?を突き詰めた結果であろう。

何でもかんでも科学的根拠や論理的整合性のあるものばかりが最優先事項となり、非科学的な根拠のないものが蔑ろにされてしまっている昨今、挨拶不要論もその表れといえるかもしれない
しかし、本当にそうやって無駄なものを省いて生きる人生が本当に充実した楽しいものになるのか?それで豊かな精神を持った魅力的な人間であるかどうか?というと答えは断固「No」である。
どんなに論理的であろうとしても人間は所詮感情の生き物、論理や科学的根拠だけでは推し量れるものには限界があるし、そういうものに逃げてきたから未曾有の危機に対応できないのではないか?
ましてやAIにあらゆる仕事を任せようとしている昨今、人間が今後生き残っていけるかどうかにおいて、非科学的なものはAIにないものとして重要ではないかと私には思える。

挨拶ができる人かどうかというのは詰まる所「無駄こそ人生に必要」と思える想像力の有無を問うことにもなるだろう、私はきちんと挨拶のできる人であり続けたい。

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