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『新テニスの王子様』は「テニスを通した代理戦争」だからこそ平等院鳳凰の価値観が美学とされる

『新テニスの王子様』もいよいよ大詰めの決勝戦の段階に入って参りましたが、昨日の記事を書いたことでまた1つ私の中で見えてきたことがありました。
それは新テニが「テニスを通した国家の代理戦争」であり、だからこそ平等院鳳凰の提唱する「滅びよ、そして蘇れ」という価値観が美学とされるのではないかということです。
そのため、旧作以上にシビアな弱肉強食の図式がはっきりしており、旧作でそこそこ活躍したキャラクターであっても容赦なくふるい落とされていきます。
もう今やただ分身ができるだけの菊丸や気象予報ができるだけで呪術耐性がない桃城、また持久力があるだけのジャッカルなどは容赦なく弾き飛ばされました。

その中でギリギリ出番を確保している大石・乾・柳あたりはまだマシな方ですが、それでもやはり今の段階まで残っているのは旧作の中でも圧倒的に化けるスペックと活躍を見せた選手だけです。
もはや一体何のジャンルの漫画なのかと言いたくなる方も多く、だからこそ「テニヌ」なんて言い方がされるようになったわけですが、根底を読み解くとわかります。
「テニスの王子様」は旧作からして元々「代理戦争」の側面があったわけですが、その大元になった作品は90年代に流行ったスポーツ・格闘漫画の文脈でしょう。
それらを「テニス」というスポーツの中に混ぜ込んで1つの世界観を作り出しているのが新テニのベースにあり、そこを今回は読み解いていこうという試みです。

『代理戦争としてのスポーツ』を示した90年代前半の格闘漫画・アニメ


新テニは「テニスを通した国家の代理戦争」と書きましたが、実はこのテーゼがはっきりと台頭してきたのは90年代前半に生み出された格闘漫画・アニメにそのルーツがありました。
90年代は格闘漫画・アニメの全盛期だった時代であり、「ストリートファイターⅡ」「ドラゴンボールZ」「疾風アイアンリーガー」「機動武闘伝Gガンダム」といった作品群があります。
中でもその「代理戦争としてのスポーツ」を色濃く描いていたのが五武冬史氏がメインライターを務めた「アイアンリーガー」「Gガンダム」辺りにあるのではないでしょうか。
「アイアンリーガー」は元々戦争の兵士として生み出されたロボットたちがその代替案としてスポーツによって強さをハッキリさせようというものでした。

主人公のマグナムエースは元々傭兵だったわけであり、それが弱小チームを強くしてどんなラフプレーに対しても正々堂々と勝負するスポーツマンシップで世界を取っていく物語になっています。
そしてこの「代理戦争としてのスポーツ」としての価値観をガンダムシリーズの世界観に応用してシリーズそのものを解体したのが翌年の「Gガンダム」であり、より色濃く「代理戦争としてのスポーツ」が描かれました。
Gガンダムでは富野ガンダムが持っていた「戦争による環境破壊」を継承して既にガンダムファイトによって地球が荒廃し、宇宙のコロニーに富裕層が移住しており、地球には貧困層しか残っていません。
そんな荒廃した地球を再生させようとして作られたアルティメットガンダムが落下のショックでデビルガンダムへと変貌し、人類抹殺による地球再生という歪んだエコ理論を生み出してしまうのです。

そこにドモンの師匠である東方不敗がつけ込んで利用しようとしましたが、シュバルツとドモンのカッシュ兄弟によってその目論見は打ち砕かれ、更にウルベの陰謀も新シャッフルによって打ち砕かれました。
その中でドモンはガンダムファイトによって得られるものが虚しい一時的な勝利の栄光しかなく、単に優勝することに意義を見出せずに最後に見つけた物がレインとの「愛」だったわけです。
よく「愛が地球を救う」なんて言いますが、Gガンダムではむしろ「愛」こそが地球を救うのであり、主人公のドモンは「愛」によってしかその心を満たして救うことはできませんでした
「Gガンダム」がラストに示したメッセージのすごいところは単に鎬を削って強さを求めて勝っても何の意味もないことをはっきりさせたことにあったのです。

そしてそれがおそらくは「ストリートファイターⅡ」にも受け継がれていたのか、とうとう篠原涼子が「恋しさとせつなさと心強さと」を歌うようになりました。
「ドラゴンボールZ」でも孫悟空は強さを極めすぎた結果、人として大事なものを色々と捨て去ってしまうことになり、ある意味魔人ブウ編はそれを取り戻す物語でもあったようです。
このように90年代作品群は格闘技やスポーツがもたらす過剰な競争を「代理戦争」として描くことによって、その歪みを炙り出し本当に大切なものは何かを見つめ直しています。
それがあったからこその「愛しさ」「切なさ」「心強さ」が新テニにおける「矜持の光」の精神派生に繋がっているのではないだろうか、というのが個人的見解です。

「テニスって楽しいじゃん」はあくまでも旧作でしか通用しない卑近な価値観


このように見ていくと、実は旧作のラストで示された「テニスって楽しいじゃん」はあくまでも旧作の中でしか通用しない、狭く卑近な価値観であることがわかります。
旧作のラストは越前リョーマが記憶喪失と五感剥奪と二重の滅びを経験した果てにある極楽浄土の快楽としての「天衣無縫の極み」に到達し、それが幸村のテニスを圧倒しました。
しかし、この価値観はあくまでも「中学生の部活動」としてのテニスだったからこそ通用するもので、新テニでは必ずしも絶対的な価値を持ちうるものではありません。
まあ人にボールを当てたりゾーンで吸い寄せたり倍返ししたり、波動球で客席まで吹き飛ばすのが中学生のテニスなのかと言われたらそれはそれで多大な疑問はありますが(苦笑)

ただまあそれは少年漫画のお約束としてある程度飲み込むとして、「テニスって楽しいじゃん」はあくまでも部活動という学生時代の狭い範囲内のことならばそれでいいのです。
中学生のうちから将来プロになることを見据えてテニスをしている奴はいないでしょうし、旧作でもプロ入りをはっきりと宣言したのは青学最強の男・手塚国光だけでした。
義務教育である中学の内までは親が養ってくれるし、怪我のこととかあんまり気にせずにできるために勝利のプレッシャーだとかそんなものを本来気にする必要はないはずです。
私自身も小中時代にやっていたテニスはあくまで遊び・趣味の範囲でしたから青学や立海のように立派な目標を持ってやるような部活ではありませんでした。

要するに旧テニで示されたテニプリの価値観は強者の絶対的な強さを持ちながらもその中心にある「楽しむこと」という中学生らしい価値観をメッセージとしたのでしょう。
だからこそシリアスに描きすぎるとどうしても「巨人の星」みたいに暗く重いドラマになりがちなスポ根を明るく爽やかなタッチで描けたのだと言えます。
テニプリの良いところってこれだけド派手なバトルを繰り広げながらも根底が明るく爽やかなので見ていてそこまでストレスを感じないところですね。
まあもちろん赤也のテニスなんかは見ていて正直しんどかったんですが、それでも最終的にはリョーマが明るくスカッとした世界観に必ず戻してくれますから。

ただ、これらはあくまでも学生時代の利害関係がなく純粋にテニスを楽しめる思春期の少年たちの物語だったから明るくできたのだといえます。
逆にいえば、これがプロ入りを見据えた世界観の話だったとしたらどうしてもそこには「責任」と「結果」が伴うし、「テニスを楽しく」なんて綺麗事は通用しません。
これに関しては以前も言った通り、プロの世界になるとそういう学生時代にやっていた頃のような楽しさはゼロなので別の価値観が台頭することになります。
旧作の役割はどうしても重く描かれがちなスポ根を明るく爽やかなものへと揺り戻しを行うことにその目的があったのですが、それはあくまで狭いコミュニティだから通用した価値観でした。

旧作で比嘉や立海の傷つけるテニスが新テニで完全に否定されなかった理由


「テニスって楽しいじゃん」で揺り戻しを行い一度スタートラインに戻った「新テニスの王子様」では様々な価値観のテニスが肯定されており、立海や比嘉のテニスも完全には否定されていません。
というより、実は旧テニの段階でも彼らのテニスそのものは否定されてはいなかったのです、青学が全勝した末に優勝しているからそう見えがちなだけで、青学は他校のテニスのものは肯定しているのです。
しかし、比嘉や立海の傷つけるテニスの奥底にある価値観が歪んでいたわけであり、そこの「自分の力に対してどう向き合うか?」という精神的な側面を新テニではじっくり時間をかけて描いています。
これは許斐先生自身もインタビューで仰っているように、旧作では心理や内面の描写をくどくどと描かずに「成長の結果」のみを描いており、その為に一面的な見え方しかしませんでした。

それが新テニになると1人1人のメンタル面の掘り下げをしっかり行っている為、そう簡単には進化しない分1つ1つの力や進化にしっかり意味を持たせて深めるという作業をしています。
だからこそ赤也や幸村の破壊的なテニスもそれ自体を否定するのではなく「その力とどう向き合いどう使いこなすか?」の方に時間をかけて「力をものにしていく過程」に説得力を持たせているのです。
この「力(=才能)と心の向き合い方」は旧作ではあまり重要視されてこなかった部分であり、特に赤也・幸村・真田・木手・跡部様辺りは旧作では一面的にしか見えなかった内面がより多面的に見えました。
そのおかげで旧作では他校が苦手だった人は好きになり、そして好きだった人はもっと好きになるという図式になっており、反面青学のメンバーに関しては旧作でもうその魅力を語り終えたのです。

許斐剛先生は幸村精市を「もう1つのテニプリ」として描いたと手塚VS幸村のことを言っていましたが、それは同時に旧作から引きずっていた「テニスを楽しむ」に対してようやくあの試合で答えが出せたといえます。
幸村はいわゆる「落ちたエリート」であり、跡部様や赤也がそうであったように翼をもがれた悲劇のイカロスたちが地べたを這い蹲ってでもテニスを全てを投げ打つ様を許斐先生は認めているのです。
「天衣無縫の極み」というもので一気に落とされたかのように思えた者たちを先生は決して無下にせずに拾って大事にし、そういう人たちにも自分なりのテニスを確立する機会を与えたのでしょう。
それが新テニで幸村たちに先生が与えたご褒美であり、世界大会編はそういう報われない思いをしてきた中学生たちの再生と復活を描いた物語となっているのではないでしょうか。

そして青学はというと、もっぱら手塚・越前・不二の3人に絞られ、手塚は完全にドイツへ行って敵になり不二は風の攻撃技に目覚めて越前は平等院から徳川と共に日本を託されています。
このように新テニでは旧作で描いた中学生のうち本当の本当に「天才」と呼ばれる上位陣だけが残る形となって、その基準に達しないキャラは残念ながら落とされる形です。
これは同時に旧作でついたいわゆる「推しキャラ」のファン層をふるいにかけているといえますが、許斐先生は決して理由なくそのようなことを行っているわけではありません。
きちんと振るい落とすだけの理由があってそうしている訳であり、そこで最初に書いた「代理戦争としてのスポーツ」というテーゼが重要になってくるのです。

「楽しさ」だけでは戦えなくなってくる新テニの代理戦争は戦闘狂もといテニス狂の世界


新テニは「テニスって楽しいじゃん」に取って代わる新しい価値観が「滅びよ、そして蘇れ」であり、これは平等院とその師匠であるオジイが提唱したものでした。
この価値観は天衣無縫に決着をつけたD1の先にあるS1の平等院VSボルクで台頭してきた本作の重要なテーゼであり、平等院が己の身を持って示した本作の新しい美学です。
つまり「一度自分を完全に滅ぶところまで追い詰め、そこから復活して強くなる」という超回復理論ですが、これは言うなれば「ドラゴンボール」のサイヤ人が持っていた理論でした。
知らない方は「ドラゴンボール」のナメック星編を読んで頂きたいのですが、ナメック星編でベジータは「サイヤ人は死の淵から蘇るたびに急激に戦闘力を増す」と言っています。

悟空もベジータもそのようにして底なしに戦闘力を高めている訳ですが、この理屈を新テニに入れたのが平等院が提唱する「阿修羅の神道」であり、ここに入れるのはごく僅かです。
高校生で入れるのはおそらく鬼と徳川、そして中学生だと越前リョーマ、亜久津仁辺りでしょうか、この辺りの化け物のようなテニスの才能と不屈の闘志がなければできません。
亜久津はアマデウス戦で無没識を開眼してその片鱗を見せたことでアマデウスと平等院に認められ、徳川は平等院と鬼の双方から何度も稽古をつけてもらって強くなっています。
そして越前リョーマもサムライのスタンドを持ち、また光る打球を破壊ではなく希望にしているので、彼らが中心となって世界を獲ることになっていくのではないでしょうか。

ということは、本作におけるGenius10の定義は戦闘狂もといテニス狂であり、テニスにおいて戦って戦って戦い抜いて無限に強くなる者のみが選ばれているのです。
そしてその資質を申し分なく持ち合わせているメンツとなると徳川カズヤと越前リョーマがその筆頭に来る訳ですが、ここでどうしても気になるのが不二周助となります。
不二周助はお頭から「脅威になるかもしれない」と評されており、実際内面は十分にテニス狂なのですが、でもまだ彼のテニスはスタートラインに立ったばかりでしょう。
今後どのように強くなるかはわかりませんが、少なくとも阿修羅の神道のようなものには踏み入れることなく独自の進化ルートで高みを目指すことと思われます。

この辺り、なぜ徳川と越前が本作のW主人公なのかの説明にもなりますが、越前と徳川がお頭に認められ日本を託されたのは何よりもテニスで強くなるための意識と努力が他と違うからでしょう。
例えば遠山は未だに「楽しむテニス=天衣無縫」と「越前リョーマを倒す」ことのみに固執しており、そこから視野を広げたり新たな価値観を受け入れたりという部分がありません。
またそれは跡部様も同じことで、技の進化自体はしているのですが意識の部分において「手塚の呪縛」がより強くなっており、そこがまた本気の入江に太刀打ちできない理由でもあるのです。
お頭が遠山と跡部様に対しては特に期待をかけているように見えないのも、まだ心底この2人がテニス狂になりきれていないからなのではないでしょうか。

結局のところ「テニスで強さを目指す」ことに対して純粋であるかどうかが鍵を握る


新テニの世界観はアマデウスやボルク、メダノレのように次々と海外から規格外の天才児が現れるシビアな世界であり、そのレベルについていけるのは中高生共にごく僅かしかいません。
一見旧作の世界観ではテニス狂っぽく描かれていた立海の幸村・真田・赤也が決勝のスペイン戦に出られなかったのは出番調整もありますが、何よりもそこの意識の差にあるようです。
その点において飽くなき向上心を持ち続けているメンバーが決勝戦に残ったわけであって、その頂にまで上り詰めてきたスペインもまたテニス狂ぞろいなのだろうなと予想できます。
こうなると、そもそもテニス以外の部分のマインドに問題があって歪んでいた立海メンバーはドイツ戦はゴールではなくむしろスタートだったのではないでしょうか。

そもそも新テニは中学生も高校生も関係ないシャッフルマッチによる勝ち負けという徹底したヒエラルキーのもとで行われる弱肉強食の世界です。
旧作よりもよりソリッドに尖ったシビアさを見せていく本作において、そのトップに立つ平等院の元まで来られるレベルの人はそう多くはありません。
新テニにおけるGenius10とは単なる「天才」ではなく、さらにその奥にある「純粋にテニスで強さと高みを目指せる資質を持った強者」のことを指すのでしょう。
桃城が越前を殴った時に言った「選ばれなかった側の気持ちを考えたことがあんのか!」というのはある意味強さのインフレに置いていかれる気持ちの代弁かもしれません。

まあその桃城がその後どうなったかは画像の通りですが、すっかりインフレに置いていかれましたね。

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