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『黄金バット』が半世紀以上もの時を経て現代に復活する意義〜「正義の味方」と言う概念すら超越した「強さ」の権化〜


『黄金バット』という作品がどうやら漫画で復活するとのことらしいが、これは一体どのような意味があってのことなのだろうか?
私自身もちろん『黄金バット』という作品の存在は知っていたし、アニメ版も見たことがあるが、正直な話これを令和の今になって復活する意義がいまいちピンと来ない
丁度今私も「ヒーロー」の歴史について図書館等で文献や映像を見て片っ端から当たっているが、どうやら戦後日本のあらゆる「スーパーヒーロー」のルーツはこの『黄金バット』で間違いないようだ。
いわゆる「レインボーマン」「コンドールマン」などを手がけた川内康範が「正義の味方」を作ったり、それこそ「世界の黒澤」こと黒澤明が「七人の侍」を手がけたりする前から存在していた。


大元は紙芝居から始まったスーパーヒーローなのだが、いわゆる「絶対無敵」という概念が出来上がったのは昭和アニメ版が放送されてからではないだろうか。
アニメ版は「強い!絶対に強い!」というナレーションがキャッチコピーとして余りにもシンプルかつ的確過ぎて、本当のそのイメージ通りの作品となった。
それこそ「仮面ライダーBLACK RX」がファンの間で語り草となっているが、特撮には時々理不尽なまでに強い「チート」が出てくることがあり、戦隊だと「ジャッカー電撃隊」のビッグワンがそれだろう。
だが、アニメ版の黄金バットはそのRXやビッグワンが可愛く見えるレベルで段違いの強さを誇り、弱点が精々「乾燥に少し弱い」くらいのことしかない。

それが今この時代に復活するということは、それこそ激動の今だからこそ一周回って人々は「圧倒的なまでに強いヒーロー」の存在に憧れていることの表れだろうか?
何だか昭和→平成と時代が下るにつれて「憧憬」「強さ」よりも「共感」「弱さ」に軸足を置いたヒーローが増えてきて、また「正義拗らせ」系の作品も多い。
以前に「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」のレビューを書いた時に、私は「歪んだ正義で動くキャラは見ていてあまり好きじゃない」みたいなことを書いたのも結局はそこにある。
特にアニメでは『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』みたいな等身大の少年少女が高尚な悩みに耽りながら戦う作品が持て囃されているのだから余計にそうだろう。

別にそういう作品はそれはそれで悪くはないのだが、その一方でめっきり圧倒的な強さを持って敵を倒してスカッと爽快感を得られる作品が少なくなったとも私は思う。
それこそ今YouTubeで配信中の『仮面ライダー龍騎』にしたって、描いてることは私利私慾を正当化して戦う13人のライダーバトルなのだけれども、ヒーロー作品として好きかと問われたら好きではない
私が特撮ヒーローを見ていて、特にスーパー戦隊シリーズでそういう見ていてスカッとする強さのヒーローは『星獣戦隊ギンガマン』以来長らく見てないし現れてないのだ。
これは何も懐古厨とか作品の信者だとかそういう問題ではなく、そもそも今の体制ではそういう真っ当な正統派ヒーローを作ることすら厳しくなっているということである。


特に『百獣戦隊ガオレンジャー』から顕著だが、スーパー戦隊シリーズもどんどん商業主義に丸め込まれていく形で大量生産大量消費の波に飲み込まれてしまった
今ではむしろスポンサーから「この段階でこれを出してください」との要請がかなり来ており、放送時間も含めてカツカツな中で作らなければならないという事情がある。
だからまずスーパー戦隊シリーズの基本である「5人の正義の味方をしっかり立てる」という基礎基本すら等閑(なおざり)な状態で作品を作らなければならない。
そして年々優秀な作り手がどんどん現場からは遠のいていって、残ったのは全盛期の魅力をとっくに消耗した年寄りスタッフとまともに使えない若手しか残らなくなる。

要するに阿漕な商業主義の中で起こる悪い意味でのファストフード化=濫作による質の低下と、「業務の属人化」によって血の巡りが悪くなってどんどん寂れていくスーパー戦隊の制作現場の現状の2つ。
前者は「商品」として、そして後者は「作品」としての側面で劣化してしまい、それが結果としては年々下がっていく平均視聴率と玩具売上という形で出ているのではないか?
今やっている「ドンブラザーズ」にしたって、やっぱり既に全盛期の切れ味を失ったおっさんたちが中心なだけあってもう流石に今の時代には沿わなくなっているのが隠せていない。
売り上げはどうやらそこそこに良いらしいが、それでもやはりこんなのがスーパー戦隊シリーズの令和の変革やニュースタンダード像などと認めるのは私は嫌である。

そんな中にあって、この『黄金バット』という現代日本の「スーパーヒーロー」のルーツといえるものが漫画という形で復活することに、私は驚きと同時にいくつかの疑問がある。
流石に時代が半世紀以上も進んだ現代のリアリティーラインでは、この理不尽なまでに強い黄金バットのチートじみたスペックを再現するのは漫画でも厳しいのではないだろうか。
今の時代に謎の仮面の男が出てきてただ悪事を解決してスカッとさせる手法は何の工夫もなくやると「なろう系」「安いご都合主義」と叩かれかねないし、ただでさえ今は規制がバカみたいにかかる時代だ。
そんな時代に何の工夫もなくただ強いヒーローを描いてもそれは現代の世に黄金バットというヒーローを復刻させることにはならないだろうし、それなりに強さの理由付けも必要なってくる。

じゃあその理由をどうやってつけるのかという話だが、これまた難しく下手にゴテゴテとした理屈をつけ過ぎると同人作品のようになって「もうそれ黄金バットじゃない」ともなりかねない。
あと漫画で復活させるのは良いとしても問題は「誰が脚本と作画を担当するのか?」であり、正直こういうヒーロー作品のコミカライズであまり上手く行った例を私は知らない。
確かに『黄金バット』は「正義の味方」という概念すらも超越した「強さ」の権化であり本当に芸術と思う美しさがそこにあるが、あれを現代に復刻させるからにはアップデートは必要である。
ただ、それを通してもう一度「現代日本のヒーロー」における「娯楽」とは何なのか、その感覚をきちんと大事にして欲しいし、それが無理ならいっそ復刻せず過去の遺産として仕舞っておいた方がいい。


何せ2010年代からこっちスーパー戦隊シリーズでもそうだし、『ドラゴンボール』『ウルトラマン』『仮面ライダー』『ゴジラ』等々過去の名作のブランドに依存したビジネスが主流となっている。
それが「今の子供たちに向けて真っ当な作品を」という崇高な理念や思いに基づくものであるならばいいけれど、単なるオタクの自己満足や金儲けの為の食い物にして欲しくはない。
スーパー戦隊シリーズでさえもう何回『チェンジマン』『ジェットマン』『ギンガマン』を擦り倒せば気が済むのだという思いを何度もしてきているわけで、まあ東映特撮なんてそんなものだと言われればそれまでではあるが。
ただでさえニッチだった特撮・ヒーローというジャンルをこれ以上消耗品として擦り倒して自ら潰すような真似だけは勘弁だ、数少ない日本が世界に誇れるコンテンツの1つなのだから。

まあ過度な期待は持たず、『黄金バット』の圧倒的な強さやヒーローとしてのあり方がどのようにこの令和の時代に再現されるか見守るとしよう。

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