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『非常線の女』(1933)の失敗に見る、日本で犯罪映画が流行らない理由

小津映画の中で珍しく(?)ハワード・ホークスのような犯罪映画を題材にした『非常線の女』(1933)を鑑賞したので感想・批評をば。
かなりの辛口評価ではあるが、決して見所がない作品というわけではないので、その辺りはご留意頂きたく思う。

評価:E(不作) 100点中40点

やはり小津は初期のサイレント辺りよりも後期の「紀子三部作」辺りで遅めの全盛期を迎えたという印象である。
『東京物語』(1953)という最高傑作を見た後なのも大きく影響しているが、小津映画にアクションのイメージがあまりない理由も頷ける。
私はあくまで作家主義ではなく作品主義なので、例え小津が作ろうがつまらないものはつまらないし面白いものは面白い
本作はどちらかといえば反面教師ではあるが、見所もあるといえばあるので、そちらを語ってから具体的なダメ出しをしていこう。

よかったと思うところ


衣装やカメラワーク・役者の選出がお洒落

まず良かった点の1つはやはり衣装・カメラワーク・役者の選出(田中絹代除く)がお洒落であるということだ。
これはさすが小津安二郎というところであり、スーツをはじめこんなに衣装がお洒落な映画はなかなかないであろう。
カメラワークも洗練されていて、一貫してローアングルなところから撮るカットで構成がすごく見やすくわかりやすい。
クライムアクションだとどうしてもアクションが主体なのでカメラがブレがちなのだが、本作にはそれがないため逆に安心して見れる。

特に岡譲二のスーツ姿にシルクハットの格好良さといったら絶品であり、これが後の笠智衆に継承されているのかと頷ける程だ。
また水久保澄子や逢初夢子など女性陣も負けず劣らず色気があって、決して男性陣に引けを取らない身振り手振りで活躍している。
特に逢初夢子の悪女ぶりも素晴らしく、男を次々にちょろまかし暗躍するのだが、決して嫌味になりきらない上品さがあるのだ。
また、水久保澄子も単なる「心配性のお姉さん」というだけではない色気を放ち、劇中できちん爪痕を残している。

後期作品で更に洗練された形で開花させていく小津映画の美点は既に本作の時点である程度の完成を迎えていた
このお洒落な上品さにより、ともすればどぎつくなってしまう犯罪映画を誰にでも見やすいものにハードルを下げてくれている。
ある種の「親しみやすさ」がまず画面の中から伺えるのだが、本作のいい点は決してその「親しみやすさ」だけではない。

最小限の寸鉄で表現される激しいアクション

2つ目に驚いたのは最小限の寸鉄で表現される激しいアクションであり、これが改めて見直してみたときに気がついた驚きである。
小津映画というと溝口映画と並んで「アクションが少ない」というイメージがある、少なくとも黒澤明の時代劇などに比べれば。
しかし、本作では取っ組み合いの格闘シーンもあるし、また追跡シーンは意外なほどしっかりとカメラの中に映し出されている。
そりゃあ運動量やカメラワークでいえばハワード・ホークスやバスター・キートンには到底逆立ちしたって敵わないだろう。

しかし、小津安二郎は「動きが少ない」「画面が動かない」ことを逆手にとって最小限の動きで最大限の効果を発揮するミニマルなアクションを演出している。
これは当時の基準というだけではなく今見ても驚くべき要素であり、これももちろん後期の作品群に継承されている要素の1つだ。
後述する北野映画との比較も交えるが、特にラストの追跡シーンから田中絹代が岡譲二に向かって発砲するアクションはなかなかの迫力がある。
真正面で切り返しながらのアクションは実はかなり時代を遅らせて後世の作家が昇華させている要素なのだ。

小津映画にアクションのイメージがあまりないといわれるが、あくまでも「いわれている」だけで実際は結構動きが多いし激しい
ただ、いかにもな外連味ある大仰なアクションとして表現されないために、その事実が見えにくいだけなのだ。

悪かったところ・改善点


最終的に叙情に流されてしまった

まずこれは仕方ないのであろうが、犯罪映画なのに最終的に叙情に流されてメロドラマのような結末になってしまうのはいかがなものなのか?
どうしても男女が揃って逮捕されるオチは私は好みではなく、あれだけ好き勝手しておいて最後に「救い」を用意するのが私はあまり好きではない
小津映画はどうしてもこの点で「甘い」と言わざるを得ず、私だったらやはりこの2人を心中させるというラストにするであろう。
涙を流しながらというのもあまり印象が良くなかった、あそこまで悪党をやっておいて急に改心やらするなと私は言いたい。

犯罪映画に限らないが、私は悪いことをした奴がろくすっぽその罪滅ぼしや罪償いをせず悪として貫き切れずなあなあなで流されるのが嫌いである。
たとえどんな事情があれ一度犯罪者として裏で暗躍したのであれば、それは人並みの幸せを捨てるのと引き換えの覚悟が必要だ。
悪役を悪としてきちんと貫ききれない中途半端さは私は嫌いであり、小津が後期の作品で犯罪映画を題材にしなかったのもこれのせいだろう。
小津は犯罪映画を題材として扱うにはあまりにも優しく達観しすぎた作家であり、奥底がどこかで甘いと言わざるを得ない。

田中絹代があまりにも芋臭い

そしてこれは完全なる個人的な趣味にはなってしまうが、私はどうしても本作で描かれる田中絹代の芋臭さ・垢抜けなさが気になってしまうのである。
何が言いたいかというと、田中絹代はこういう犯罪者や悪女のような立ち位置の人物像がどうしたって様にならないのだ。
これが例えば成瀬映画や北野映画のようにセリフを極限まで省いているのであれば、まだ彼女のルックスでも成立したかもしれない。
しかし本作は小津映画ゆえに会話による掛け合いが多く、涙まで流してしまうため田中絹代の演技の過剰さがどうしても気になってしまう。

小津映画はよく後期を指して「単調である」といわれるが、その原因の1つはこの田中絹代の演技やキャラ付けの失敗にあったのかもしれない。
田中絹代は決して京マチ子や原節子のように抜群のスタイルやルックスではなく、所作や息遣いなどの演技力で勝負するタイプの役者だ。
だから最小限の寸鉄で最大限の効果を出す小津映画のミニマリズムには合わず、小津では彼女の魅力を100%は引き出しきれなかったと思う。
田中絹代の女優としての色気・魅力をきっちり引き出し切って見せたのはやはり溝口健二であり、小津映画にはやや不向きであったか。

個人的に田中絹代は高く評価している女優ではあるが、本作における起用はぶっちゃけ失敗だったといわざるを得まい。

日本にそもそも文化として犯罪映画が存在しない

これを言ってしまったらもう身もふたもないが、日本にそもそも文化として犯罪映画になりそうな題材が存在しないのである。
日本で犯罪映画が流行らない理由はここにあり、欧米と違って日本は侵略という発想自体があまり存在しない農耕文化だ。
これに関しては北野武も蓮實重彦とのインタビューやニコ生での赤ペン先生とのインタビューでも度々公言している。

例えば欧米だと常に「戦い」の歴史だから映画の題材としては戦争や犯罪をいくらでも題材として描くことができる土壌や文化が当たり前に存在する。
しかし、日本だと戦争といっても日露戦争や第一次大戦は題材にしづらいし、第二次大戦は負けているため、なかなか描くことができない。
日本で男が葛藤しながら命をかけて戦うなんてやはり時代劇か任侠映画くらいしか存在しないし、あとは特撮作品やロボアニメなどのヒーローフィクションである。
では宮崎駿が描いた「カリオストロの城」はどうなのかという話だが、あれも舞台になっているのはやはり海外のクライムアクションだ。

そんな日本の文化的な土壌の貧しさを戦前にして限界として露呈させてしまったのが本作ではなかろうか。

後の北野映画で洗練されていくミニマル演出


本作は確かに犯罪映画としても小津映画としても失敗作の部類には入るが、失敗作なりの見所はそれなりにあった。
だが分けても演出やアクションとして見るならば、北野武が描く「その男」以降の演出は本作をさらに発展させたものではなかろうか。
北野映画は銃撃戦をはじめ暴力描写も全体的に乾いていて動きも最小限だが、その中に確実に痛さと激しさが存在している。
その圧縮されたミニマル演出は小津安二郎が先鞭をつけ後期で確立させた演出の発展であるといえなくもない。

そのため、本作はどうしても成功か失敗かでいえば失敗作の部類に入るが、ただ決して無駄な作品ではないだろう。
本作の失敗を小津自身も反省して後期に活かしているし、また後継作家がそれをしっかり花開いて昇華させている。
その意味では反面教師というか過渡期の作品として「まあこういう作品もありか」と見ておくといい。


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