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『ドラゴンボール』の人造人間編〜セルゲームがつまらない理由と『ドラゴンボール超スーパーヒーロー』の改善

とまあ、もう少しだけ『ドラゴンボール』について語っておきたいのだが、今回話題にするのは前回の記事で私が散々こき下ろした人造人間編〜魔人ブウ編である。
わけても今回は人造人間編〜セルゲームがつまらない理由と『ドラゴンボール超スーパーヒーロー』での改善についてもう少し具体的に語っておくとしよう。
人造人間編以降の『ドラゴンボール』が「球の奪い合いによる上昇志向」という根幹が壊れてしまい、作品としての指針と方向性を見失い商業主義に迎合して陳腐化したことは語った。
しかしそれは「作品論」としてであって、「絵の運動」としての人造人間編以降については語っていなかったということで、今回はそこについて触れておこう。

ナメック星編まででピークに達した『ドラゴンボール』はメカフリーザ襲来辺りから東映・バンダイ共々凄まじい引き延ばしと劇場版の濫作がとんでもなく続いていた。
私をはじめ当時の子供たちは楽しんでいた人もいればつまらないと思っていたのだが、私の周りに関していえばそれはもう人造人間編以降の展開の酷さは擁護しきれなかった。
今でもネットで調べれば、そりゃあもう人造人間編〜セルゲームの悪評がどんどん並んでいたのである。

  • 地球人が作ったぽっと出の人造人間が宇宙の帝王フリーザより強い筈がない

  • そもそも人造人間やセルは本当に悪者か?

  • 悟空が父親としても戦士としてもクズだ

  • ベジータ・クリリンを筆頭に無能な戦犯だらけ

  • 超ベジータもムキンクスもセル完全体のかませ犬

  • ピッコロが神様と融合したのにセル第一形態のかませ犬

  • 未来トランクスがわざわざ戦いに参加する意味があったのか?

こういった批判の雨あられであり、全盛期で脂が乗っていたはずの鳥山明先生の画力もこの辺りから初期のポップな丸ではなく、アニメに合わせて角張った四角の絵が増え始めた
そして話の流れもナメック星編までと比べて全く変わり映えも緊張感もなく、悟空たちは精神と時の部屋で修行ができ、しかもセルの倒し方も最初からヒントが見えている。
で、セルゲームが始まるかと思いきや、ミスターサタンとかいう訳の分からない俗物根性丸出しのギャグキャラを出すという謎の空気の読めなさ、こんな展開のどこで盛り上がればいいのか?
実際、私は当時小学生だったがクラスの男子と「なんかつまんないよね今のドラゴンボール」と散々にこき下ろしていたし、実際それは今もあまり変わっていない。

良かったところを挙げろと言われたら精々が19号を圧倒・撃破した超サイヤ人ベジータ、セル第二形態を足止めした天津飯、ラストで未来世界の人造人間とセルを撃破した未来トランクスくらいであった。
前回も述べたように、ドラゴンボール争奪戦という要素が喪失して、単に地球を脅かす強敵をただ修行して倒していくだけの陳腐な英雄物語に成り下がったが、そんな中にもキラリと光る良さはある。
そんな状態だったのだが、いわゆる「絵の運動」として、すなわちアクションやビジュアルといった点で見た時の人造人間編〜セルゲームの演出上の問題点をここでは一点だけ指摘しておこう。
それは当の鳥山明先生にとってドクターゲロをはじめとする人造人間やラスボスとして出てきたセルが一体どんな敵なのか、確固たるイメージもなく見切り発車でスタートしたことである。

気を感じない・エネルギー吸収可能・エネルギー無尽蔵・人類を無限に食らいつくして進化といったような能力だけが点で存在し、それが例えばピッコロ大魔王〜フリーザ軍までのように「」になっていない。
奴らの狙いも「孫悟空への復讐」というあまりにも矮小なものであったが、それならわざわざ人造人間なんざ作らなくてもドラゴンボールを7つ集めて神龍に頼んで孫悟空を倒してしまうように間接的に働きかければいいだろう
また、人造人間たちもトランクスのいる未来世界で無辜の者たちをゲーム感覚で虐殺している未来の人造人間17号・18号は本当に同情も和解も一切できない悪だったが、現代世界では悪事らしい悪事を働いていない。
そしてセルに関しても確かに人類を次々と殺してはいたが、その目的は悟空やベジータと同じく「強くなること」であり、本当に悟飯がブチギレて倒さなければならないほどの純粋悪とは断定できないであろう。

機械の体だから気がないといっていたが、ならば彼らが手から放つ気弾・気功波の類は何なのかと思うし、セルの核細胞は頭にあったはずなのになぜか悟空のゼロ距離かめはめ波で頭を吹き飛ばしても消滅しなかった
そして18号を吐き出して第二形態に戻ったにも関わらず、自爆した後なぜかまたパーフェクトセルとして復活しており、結局のところ「人造人間がどんな兵器なのか?」に関する具体性が全くない。
もっとも、鳥山明先生自身が連載当時は編集部から散々ダメ出しを食らいながら、悪い意味で行き当たりばったりな展開にしたことでサイヤ人〜フリーザ軍ほどの強固なキャラにできなかったのだろう。
その設定・ビジュアル・キャラの詰め不足は作品自体の大きな欠点となって現れてしまい、超サイヤ人というとんでもない超パワーを持った孫悟空たちが負けたり劣勢に追い込まれたりする展開に納得いかなかった。

つまり何が言いたいかって、ピッコロ大魔王・ベジータ・フリーザをはじめとする悟空が大苦戦を演じたかつての強敵たちほどの色気(存在感)を人造人間はきちんと絵の運動として証明できなかったのである。
だから、例えばファンが感動のシーンとして挙げている悟飯の超サイヤ人2への覚醒やそこからの大逆転のカタルシスもかつての超サイヤ人・孫悟空ほどの衝撃にはならなかった
確かにあの超サイヤ人2の演出は素晴らしいしあの絵を大好きだというファンも多いが、そもそも気がスパークする演出自体がナッパのエピゴーネンだし、そこまでの悟飯があまりにも動かなさすぎだ。
本当にセルがキレさせるまで悟飯は木偶の坊でちっとも戦わないので「何今更躊躇ってんだよ!?」とイライラしながら見ていたのを今でもはっきりと覚えている。

それに悟飯がキレてパワーアップするのは元々サイヤ人編から持っていた個性なので納得はできるのだが、でもいかにも物語として仕込まれたものを見せつけて「どうだ、うまくできたろ?」と見せるのは悪手である。
孫悟空が超サイヤ人に覚醒し暴れるのに説得力があったのはフリーザの圧倒的な強さと絶望感を示し、その上で更にクリリンの二度目の死という究極の代償を払って作品の根幹すら喪失した。
その重みがあった上で孫悟空の怒りが絵の運動として活写され最強にカッコいいのだが、あれと同じようなことを悟飯がやったとて納得はできても然程の衝撃とはなり得ない
そうした諸々が負債として積み重なってしまったがために、あのような無様な醜態を作品として晒す羽目になってしまったのではないかと思うのだ。

そのように考えると、ちょううどAmazonプライムで配信がスタートした人造人間編のリメイク作である『ドラゴンボール超スーパーヒーロー』はこのあたりの反省点をきちっと練り直している
Dr.ヘドが作ったガンマ1号・2号は自らを「スーパーヒーロー」と称する正義の味方と思い込んだ滑稽な存在としながらも、その力はアルティメット悟飯や潜在能力解放ピッコロとほぼ互角であった。
性格も冷静沈着で知略に長けた頭脳派の1号と軽妙なノリながら自由に戦う感覚派の2号で色分けがなされており、しかもそれぞれ孫悟飯とピッコロと激しい肉弾戦を繰り広げて光線銃を使う。
そして鳥山先生が本来であれば戦わせたかったセル第二形態の究極版として描かれたセルマックスは世界そのものを滅ぼしかねない究極の決戦兵器として、いかにも大ボスとして描かれていた。

基本的に鳥山明は「実は小さい奴が最強」という文法破りを使うが、「スーパーヒーロー」に関しては東映特撮など従来のヒーロー作品でありがちな「巨大な奴が強い」というのを用いている。
しかも悟飯とピッコロが決して受け身じゃなく積極的に前線に出向いて戦い、しかもゴテンクス・18号・クリリンなどの他のメンバーもしっかり助力として戦わせていた。
そして悟空たちを敢えてビルス星で修行させたままにして合流させなかったのも、敢えて強さのインフレを回避させるようにして意図的に組まれた演出であろう。
これに関して鳥山明は「セルマックスは完成すればブロリー以上」といっているが、当然これは観客を騙すためのブラフであって、あくまでセルマックスの強さは画面の運動としてオレンジピッコロの苦戦を持って示される。

そして孫悟飯ビーストの存在もまた地球の神様であるオレンジピッコロの瀕死によって怒りが誘発されることによって満を持して見せ場として持ってきたことで上手いことそこがクライマックスになっていた。
その意味では『スーパーヒーロー』は漫画の絵の運動としてみると違和感はあるが、「映画」としての「画面の運動」という観点で論じてみるとこれが実にうまく出来ていたのかと思う。
改めてAmazonプライムで見直してきちんと再評価してみたいが、以前も述べたようにこうなると必ずしも後出しジャンケンで出したものが悪いことばかりではないのだなと。
だから、評価軸は流石に同一視することはできないが、私は改めて原作終了から20年以上経った現在の『ドラゴンボール』が充実した体制で新作映画を作れているのは悪くはないと感心する。

R藤本も言っていたが、どんどん進化していく『ドラゴンボール』に関しては半分妥協しつつも、今後どうなっていくかを見守っていこうか。

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