「小林靖子信者」に限らないが、「〜ファン」「〜信者」と名乗る大半は愚か者である!「作家」と「作品」を分け、より解像度の高い批評を書くには?
昨日、『星獣戦隊ギンガマン』の1・2話の分析・批評の記事を投稿したが、その際に「小林靖子 天才」のサジェストをクリックしたところこんなページを見つけた。
個人的には「何を今更」と思うわけだが、その典型的な「小林靖子信者」を軽く批判させていただいた。
特に「信者層の形成は作風の確立したメイン作タイムレンジャーからで、その後電王で急拡大したと見られている」は本当にその通りすぎて笑ってしまった。
私なんぞは一時期そういう風潮が強かったせいか、『未来戦隊タイムレンジャー』以降の小林靖子メインライター作品を意図的に低めに評価していたわけだが、要するに特定のスタッフの色が強く出過ぎると危険な信者を生み出してしまうということだ。
以前にFC2ホームページをやった時はまだ私も尖に尖っていたこともあり『侍戦隊シンケンジャー』を滅茶苦茶低く評価し批判していたが、今思えば自分自身もその「小林靖子信者」と同じ穴の狢になってしまっていたと自省している。
もちろんこのwikiのページを決して手放しに称賛しているわけではない、たとえば「男性同士のやりとりがやおい臭かったり、女性キャラがヒス化、空気化、電波化する」はあまりにも思考の抽象度も解像度も低すぎる稚拙な見解だ。
何せ、ファンの中でもまだまともであろう鷹羽飛鳥ですら『星獣戦隊ギンガマン』で破綻した詭弁をさも正論の如く述べていたし、基本的に子供向け番組を見る「大きなお友達」の大半は語彙力も読解力も幼稚園児レベルだからそんな詭弁を鵜呑みにするのも仕方あるまい。
私や黒羽翔はそんな「〜ファン」「〜信者」を自称する「オタク」が押し並べて反吐が出るほど嫌っており、そのことを包み隠そうともせず、だから忖度や忌憚なしにダメだと思ったらお互いに論理的な批判も容赦無く展開する。
「自分は違う」などと思っているファンや私に対して怒り任せに感情論で噛みついてくる奴のほとんどは親友がこの記事で批判している「無駄なマウントを取る特撮オタク」とやらに該当している自覚は持ったほうがいい。
そうではないというのであれば、最低でも井上敏樹や小林靖子の作品・作風を論理的に批判したり、あるいは既存の評価に対して冷静に俯瞰して物申すくらいのことはできるようになるべきだろう。
そんなことも出来ない癖に、さもそれっぽい「ヒーロー論」なるものを振り翳して悦に浸っているだけでは「賢ぶってるだけの愚者」、すなわちクルーガー効果の「バカの山(=完全に理解した)」から脱せないからだ。
とはいえ、そういう者たちをただ批判するだけならチンパンジーでもできることだから、今回は改めてその「愚か者」から抜け出すにはどうすればいいのか?どうすれば「作家」と「作品」を区別した見方ができ、批評を書けるのか?
そのあたりについて、小林靖子という脚本家並びに女史が手がけた作品群をモデルとして1つのノウハウを理論化してみよう。
『星獣戦隊ギンガマン』の大ヒットと『未来戦隊タイムレンジャー』以降の作風の変遷は延長線上にある
昨日の記事で私はこのように述べた。
これ自体は紛れもない事実だが、それは「評価の傾向」としてであり「作風の変遷」というわけではなく、『星獣戦隊ギンガマン』の大ヒットと『未来戦隊タイムレンジャー』以降の作風の変遷は延長線上にあり、分けて考えることはできない。
小林靖子自身はたびたびインタビューで「「ギンガマン」のようなストレートなヒーロー・主人公は今描けない。何かしようと思ってしまう」と言っていたが、これは言い換えれば「最初に理想のヒーローを描いて、あとは捻りを入れていく」ということだろう。
だから女史のファン・信者は独自性が露骨に出始めた「タイムレンジャー」以降の「癖の強い作風」、彼らの言い分でいう「黒靖子」を過剰に持ち上げ「ギンガマン」を低く評価するかなかったことにしてしまうのだ。
しかし、私に言わせればそれというのは要するに小林靖子の「再現性のない天才性」の部分は褒めるが「そうではない普通の部分」に関しては見ないという「臭い物に蓋をする」居心地の悪さを感じてならない。
以前も述べたが改めて大事なことなので強調しておくと、脚本の構造を緻密に分析していけば『未来戦隊タイムレンジャー』以降の小林脚本は全て『星獣戦隊ギンガマン』で形成された基礎・基本の変形バージョンに過ぎないのだ。
一人の作家が持てる作風の引き出しは決して多くはなく、それはさながら数学ⅠAで習う「論理と集合」に出てくる「命題」の「逆」「裏」「対偶」の概念に近いものではないだろうか。
たとえば『星獣戦隊ギンガマン』を元の命題Aとして、この作品で打ち出されたのが「ヒーローとは圧倒的な強さと人間としての弱さを併せ持った存在であるべきだ」というジンテーゼである。
これを「逆」にしたのが『未来戦隊タイムレンジャー』で「圧倒的な強さと人間的な弱さを持った存在こそがヒーローである」という「前提」と「結論」の部分がひっくり返ったものだ。
「裏」はもちろん『侍戦隊シンケンジャー』であり、「ヒーローじゃなければ圧倒的な強さと人間的な弱さを併せ持ってはいない」という「ギンガマン」の「裏=ネガ」として描かれている。
そして「対偶」が実は最後の『烈車戦隊トッキュウジャー』で、こちらが「圧倒的な強さと人間的な弱さを併せ持っていなければヒーローではない」という「タイム」の「裏」かつ「シンケン」の「逆」の存在だ。
つまり、小林靖子は自身の脚本のパターンが「ギンガマン」で完成しそれに縛られているということを自覚の上で、それをどのようにずらせば違うヒーローとして描けるかを極めて論理的に考えて実践した。
ちなみにそのいずれにも失敗してしまったのが『特命戦隊ゴーバスターズ』なのだが、これに関しては別の機会で述べるとして、要するに「ギンガマン」とそれ以後の小林脚本の変遷は「別物ではない」ということだ。
こんな程度のことは彼女の脚本の「構造」を見抜く力を持っている者であれば容易にわかるはずのことだが、この程度のことも見抜けないで信者を名乗ることは傲岸不遜だろう。
小林靖子は「性」=「俗」の概念がほとんどないので「BL作家」や「ジェンダーフリーに理解のある作家」という評価は誤り
小林靖子脚本の作風に対する個人的見解は以前に述べたのでここでは繰り返さないが、改めてここで補足するならば小林脚本には「性」=「俗」の概念がほとんどない。
だから「男性同士のやりとりがやおい臭かったり、女性キャラがヒス化、空気化、電波化する」に関しては単なる視聴者の手前味噌な悪意に基づく自己解釈でしかないだろう。
本人は「BL作家」と揶揄されることに関して「そう思う人は何見てもそう思うんだろうし好きに見ればいいが、私自身がそういう同性愛の設定で脚本を書くことはない」と明確に否定している(ソースは髙寺成紀の怪獣ラジオ)。
「女性キャラがヒス化、空気化、電波化する」もいわゆる「強気な女性キャラ」を指してそう述べているのだろうが、どちらかといえばこの傾向は富野監督作品や井上敏樹脚本の方が色濃い。
また、以前にも少し述べたが、「気が強い女性が活躍する」ことから小林靖子という作家を「ジェンダーフリーに理解のある作家」ということを述べた方もいるが、これも誤りである。
小林靖子の中には「都合のいい男の従属品」としての「ヒロイン」を描かないという傾向はあるが、それは決して女性の社会進出だとか結婚しないとかいうことではない。
実際『星獣戦隊ギンガマン』ではハヤテはミハルという婚約者がいたしゴウキにも鈴子先生というヒロインがいて、さらに『未来戦隊タイムレンジャー』ではドモンとホナミの間に子供もできている。
しかしこれらはいわゆる「ジェンダー」ではなく「このキャラがこう動いたら自然とこういう結末になる」という結論の導出でしかなく、実は彼女には「性」=「俗」という「臭さ」「生々しさ」は感じられない。
仮にそのように感じられるのだとしたら、それはその人自身が単に抽象度の低いレイヤーでそう思い込んでいるだけであって、彼女が意識してLGBTを露骨に描いたことなど一度もないことは強調しておこう。
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