『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)は結局のところ「神」も「ヒーロー」も敗北した作品ではないか?
YouTubeで配信されていた『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)が終了したが、改めてもう10回近く見直した今でも思うのは当時の「戦隊ヒーロー」のこれが限界だったのであろうなということだ。
今更新しい解釈や感想を補足しようとは思わないが、私は最終的なところで「神」も「ヒーロー」もある種の敗北と「ファンタジー戦隊の死」という形での終焉を見た本作にはいささか憐憫の情が湧く。
リアルタイムで見た皮膚感覚も含めて私は後半から露骨に本作がシリアス路線にテコ入れを図った段階で、本作の人気が落ちるのは目に見えていたし、最終的にそれは視聴率の大幅低下となって現れた。
だが、そのような数値上のこと以上に、「カクレンジャー」とは最終的なところ『鳥人戦隊ジェットマン』で描かれた「80年代戦隊の死」を悪い形で受け手に突きつけるものになったことは指摘せずにおれまい。
まず鶴姫と白面朗の親子関係は最終的に修復したものの、石化状態から解放されたから無条件に親子に戻れるということが物語の中に豊かな細部として介入してくるわけではないのである。
にもかかわらずなぜこんな要素を入れてくるのかというと、1つには脚本家・杉村升がそういう要素を好んで作品に入れていたからということが挙げられるだろう。
少なくとも『仮面ライダーBLACK』の後半から台頭してくる仮面ライダーBLACKVSシャドームーン、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のティラノレンジャーVSドラゴンレンジャー、魔女バンドーラと息子のカイが該当する。
擬似的なものであれ本物の肉親であれ、杉村升は物語を盛り込むためにこうした要素を盛り込むことがあり、思えば井上敏樹なんかよりも遥かに「戦うトレンディドラマ」の作家ではなかろうか。
ネットではどうしても登場人物同士の複雑な人間関係やエキセントリックなキャラ付けを好んで行うために井上敏樹は「ジェットマン」の時に「戦うトレンディドラマ」と呼ばれたことがある。
しかし、井上敏樹が脚本を担当する作品の中で主人公に特定の肉親が物語の中心に絡んでくることがなく、むしろ親子の関係などは物語序盤の段階で崩壊するか、そもそも描かない。
これに対して杉村升は物語当初はそんな設定を出していなかったはずなのに、盛り上げのために後付けによる設定変更をしょっちゅう行う傾向がある。
それが作品全体に影響を及ぼすほどのことでなければ笑って見過ごせるが、彼の場合はしばしば作品の破綻にもつながりかねないほどの大惨事を引き起こす。
分けても「ダイレンジャー」後半からはそれが誰の目にも誤魔化しようがないほどに狂っており、しかし本作と次作「オーレンジャー」は青息吐息の領域まで来ていた。
本作は「ダイレンジャー」ほど作品の悪いところをカバーできるだけの良いところがあまりなく、そもそもアクション主体で行きたいのか物語主体で行きたいのかも明確ではない。
そんな中で本作というか「ジュウレンジャー」から一貫して見続けていくと、実は段階を踏まえて杉村升は「ヒーローの敗北」を一貫して書き続けた作家であることがわかる。
白倉Pに偉そうに説教していたらしいが、そんな説教をできると思える資格があるのかと思えるくらい、彼の作品は子供向けと思えないような終わり方を好むメリーバッドエンドが多い。
それは彼が曽田博久と並ぶ学生運動の挫折を体験した世代だからということと無縁ではないが、それを別としてもヒーローが単純に悪を倒して終わらないのはどの作品でも共通している。
『仮面ライダーBLACK』では南光太郎は一度その甘さ故にシャドームーンに隙を見せてしまい地球征服を許してしまい、シャドームーン殺しの罪を背負って生きていくことになった。
彼がメインライターを担当した作品の中でハッピーエンドと言えそうなものは『恐竜戦隊ジュウレンジャー』くらいで、あれだけは最終的に「神」が勝利することで「ヒーロー」も勝利する。
しかし「ダイレンジャー」では「神」である大神龍は敗北しなかったものの、「ヒーロー」であるダイレンジャーはゴーマ族と本質的に同一の存在であるが故に勝利することができない。
それを踏まえた本作ではついに「神」も「ヒーロー」も敗北せざるを得ない瞬間を露呈させてしまった、それが決して最初に意図されたものとは全く異なるものだったにしても。
無敵将軍は海坊主とヌエに二回負け、カクレンジャーは妖怪軍団を前に何度も詰み寸前の状況を経験するハメになり、ツバサマルと隠大将軍もダラダラを相手に強く出られなかった。
そして最終的には「大魔王は人間の負の感情の塊だから倒せない」という設定まで出したものだから、この時点で攻略不可能な無理ゲーになってしまったのである。
カクレンジャーは基本的に自分たちで大局を判断できない奴らだから(目の前の悪を倒す判断力はあっても)、三神将のいう「大魔王を生け捕りにして封印しろ」が実質の敗北宣言であることに気づかない。
そして第一話では島にあった筈の封印の扉は最終回では「心の扉」という無茶な設定変更に加えて、最後にカクレンジャーと妖怪大魔王がやっているのが押し競饅頭というなんとも無様な画になってしまった。
最終回のどこにも全く感動の要素もなければ衝撃の瞬間などどこにも存在していない、むしろ自身が過去作品で使っていたものを適当にツギハギしたに過ぎない。
特に妖怪大魔王の「人間がいる限り、私たちは必ず蘇る、必ず!」というセリフも創世王の「おのれブラックサン、私は必ず蘇る。人間の心に悪がある限り必ず蘇る、忘れるな!」の安直な再利用だ。
そのくせ自分たちは偽りの勝利に酔いしれて猫丸で当てもない放浪の旅を続ける、こんなののどこが感動のハッピーエンドなのか私には全く理解できない。
だが、本作に参加していた高寺Pはそういう本作の躓き・失敗に思うところがあったのか、『激走戦隊カーレンジャー』以降ではその反省点をしっかり活かしている。
消化不良に終わってしまった妖怪大魔王とカクレンジャーの因縁を4年後の『星獣戦隊ギンガマン』で黒騎士ヒュウガVSゼイハブにもつれ込んだ(どちらも俳優が同じ)のはそのあたりも無関係とはいえない。
神もヒーローも挫折・敗北せざるを得ない瞬間を本作と次作で味わったからこそ「じゃあどうすればそれを乗り越えてヒーローは再生するのか?」に挑むことができたのではなかろうか。
思えば「ジェットマン」でバラバラに解体されたスーパー戦隊シリーズはその後「ファンタジー」という新機軸の導入の裏で「ヒーローと神が死ぬ瞬間」の残酷さを露呈させていたといえる。
私がリアルタイムからずっと「ジュウレンジャー」〜「オーレンジャー」を高く評価できなかったのは「結局ヒーローは敗北する」という諦めが物語の山場で顔を出すからだ。
そしてそれに伴い長所であるアクションなどの細部までが引っ張られて良さを失ってしまう、そういう瞬間を子供心に見せつけられてきたのである。
だから私は本作を罷り間違っても歴史的名作などと評価することはないのだが、本作までを見て改めて長年の引っかかりに気付きそれを言語化することができたというのが大きい。
おそらく今後も好きになることはないが、この4年間で得た収穫と同時に未消化に終わってしまった要素をどう後年の作品が克服していくかというのが特にはっきりと見える。
それが私にとっての『忍者戦隊カクレンジャー』であり、今後も本作を擁護することだけはないと確信したのが今回見直しての最大の収穫であった。
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