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伝統と革新はどちらが大事か?というのは無意味な比較である

中田敦彦の松本人志への提言について、Non Styleの石田と梶原が対談で触れていたが、結局中田敦彦の発言は何が問題だったのか?ということだ。
問題となっている動画はこちら。

もう少し簡潔に内容をまとめられないのかと思ったが、要するに中田敦彦が言いたいのは「松本人志、お前もう既得権益と化してるんでそろそろ退けば?」ということだろう。
映画の面白いつまらないといった論評も含め、どうやら吉本興業をはじめとするお笑いの世界には芸能界の中でも特に忖度が強く働いていて、誰も松本人志に物申せない状態らしい。
確かにそうである、私が子供の頃はまだ上からいじられまくっていた松本・浜田も今や完全に大御所として1つの伝説を通り越した既得権益と化してしまっているようだ。
しかもなぜかそこに粗品までもが言及されているため、当の本人たちは迷惑を被っており、今や中田敦彦は完全にお笑い界の全員を(理解者以外)敵に回してしまっている。

こんな四面楚歌状態ではあるが、それを石田は旧態依然の古い上下関係に縛られてしまい発展性も新しさもないことに対する批判として解釈しているようだ。
その上でM-1のような従来の漫才=保守がいいのか、それを壊した上にある発展=革新のどちらが大事なのか?ということだが、結論からいえばそれは無意味な比較ではなかろうか。
そもそも、これはお笑いに限らずサブカルチャーにしろ何にしろ色んなジャンルに共通することだが、伝統と革新を二項対立として並べるのは才能と努力のどちらが大事か、というのと同じくらい馬鹿げている
少し考えればどちらも大事であり、まず基礎となる伝統をきちんと身につけ基礎体力をつけ、その上で自分たちらしさを追求する革新をやっていけばいいということくらいわかるだろう。

要するに守破離であり、まずは徹底的に「守る」ことからスタートし、守りに守り抜いた先に少しずつ自然と破れていき、最終的に離れていくのが自然な伝統芸能の形である。
だから石田と梶原が論じているのは本質から外れたことであり、「守る」ことと「破る」ことのどちらが大事かということを論じるナンセンスさだというのを理解していない。
まあただ、昨今はお笑いに限らず日本のエンタメが全体的にそもそも守破離の構造も、そもそも「エンターテイメント」が何かを理解していない上辺だけの楽観的な人間が跋扈しているのは事実だが。
オリエンタルラジ・Non Style・キングコングのいずれも共通しているのは従来の漫才とは外れた論理的で技術頼りの応用技で笑わせてきたが、肝心のM-1の古典的漫才の人たちからは評価されていない。

で、その古典的漫才の人たちが現在のお笑い界の重鎮として真ん中にどかっと居座っているために、不利な思いをして埋もれている後輩たちが何人もいるということを中田は言いたいのであろう。
しかし、中田敦彦は知識と教養はすごくある人なのだが、反面相手にきちんと配慮した物言いができない=共感性が全くないので、言い方やニュアンスが誤解を招いてしまっている。
とはいえ、中田が間違っているのかというとそうではなく、影響力を持つ誰かが面と向かってそれを指摘しなければいよいよ危ないところに吉本興業(並びにそこの社員たち)は立たされているのだ。
闇営業以来どんどん吉本興業はジャニーズと並んで不祥事が明るみになり信頼・信用を失墜しつつあるのだが、ある意味今回の中田の提言はそこに一石を投じたことになる。

以上が事のあらましなのだが、未だに日本の中では伝統=保守的で古臭くて悪いこと、革新=前衛的で新しくていいこと、という誤った固定観念があるらしい。
スーパー戦隊シリーズもそうであり、特にここ数年を見ても「ゼンカイジャー」「ドンブラザーズ」の白倉伸一郎並びに「キングオージャー」の大森敬仁も根底はこの考えなのだろう。
個人的には90年代のスーパー戦隊シリーズが原体験としてあったことも少なからずあるが、何でもかんでも革新的だからいいわけじゃないし、何もかも保守的だからいいわけでもない。
守るべき部分とそうでない部分の双方を見極めて取捨選択し、最終的に「戦隊」としてまとまって面白くなっていればそれでいいのであって、「これが正解」という絶対のものがあるわけじゃないのだ。

生前の黒澤明と北野武との対談でも言われているが、映画には「これが映画だ!」などという絶対の正解はなく、面白くありさえすればいいと言っている。
小津安二郎もそのように言っていたし、それこそ蓮實重彦だって「映画のショットに絶対の正解があるわけではない」というようなことは度々公言している。
だが、本当に素晴らしい映画監督というのは絶対的正解がないにもかかわらず「これだ!」というこだわりや絶対的なショットの演出・構図を持っているものだ。
だからお笑いも似たようなもので、本当に面白いお笑いという絶対的基準があるわけではないが、それでも独自の漫才スタイルを持っているかどうかが大事なのだろう。

話を戻すが、中田は要するに松本人志をはじめ大御所が重鎮として居座り続ける限り、それが支配的な宗教じみたものになってしまい幅が狭くなり先細って縮小再生産になると言っているのだ。
確かに、今やお笑いができる場所も減ってきているし、テレビでも昔と違って純粋にお笑いを見せられる場所も減ってきているが、これに松本人志ら大御所はどう対応するつもりなのか。
ジャニーズみたいに臭い物に蓋をする形で逃げるのか、それとも真正面から向き合って考え直して見るのか、まあ後者の可能性はどう考えても薄そうだが。

今、お笑いに限らず日本の創作業界が全体的に昔に比べて力を失っていることは間違いない、これもまた時代の変わり目を象徴する出来事なのだろうか。

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