戦いの世界においてなぜ男女の愛が成立しないのか?が良くわかる『カムイ外伝』の「九の一」
スーパー戦隊シリーズに限らないが、そもそもなぜチームヒーローにおいて「女性戦士」というカテゴリーが存在するのであろうか?
今でこそ戦いの世界に女が入ることは珍しいものではなくなったが、それでもやはりビジネスにしろスポーツにしろ男に割って入れるほど爪痕を残せる女性の人材は少ない。
スーパー戦隊シリーズにしたってジャンプ漫画にしたって「そもそもなぜ男性よりも非力な女性が戦いの世界に入るのか?」ということを疑問視したり考えたりしたことある人がどれだけいるのか?
それに関する答えは実は既に歴史が証明しているのだが、そんな「戦いの世界における女のあり方」を教えてくれる格好の材料が白土三平の『カムイ外伝』にて示されている。
『カムイ外伝』はかなり昔の作品なので馴染みが薄い方々のために軽く説明しておくと、江戸時代の厳しい忍の掟に逆らい、カムイという抜け忍が刺客を掻い潜って生き延びていく逃亡劇だ。
その為、彼の中には最初から自由などなく、24時間365日気を抜かずに神経を張り詰めて刺客たちの魔の手から逃げ続けなければならないという過酷な運命を背負っている。
そんなカムイが逃亡中で描かれた中に「九の一」というエピソードがあるわけだが、このエピソードは初見でも非常に印象に残ったエピソードであり、戦いの世界における「男と女」の根源をよく捉えていた。
同時にこれがスーパー戦隊シリーズにおいて「女性戦士」というカテゴリーが存在する理由にもなっており、何度も読み返す度に驚き・衝撃があって噛めば噛む程味が出る。
この話の筋自体は簡単なものであり、結論からいうとカムイが出会った若い娘・トネと荒くれ者の8人の刺客は共犯者であり、カムイを油断させて殺そうと図ったのだ。
カムイは非常にストイックであり冷静沈着で隙がない完璧超人だが、数少ない弱点の一つが表面上のクールな顔つきと言動とは裏腹の「非情になりきれない優しさ」にあった。
情というのは忍びの世界においては仇となることが多く、カムイは情に弱い=女性の涙に弱いといった風な弱点を刺客側も把握した上で用意周到な罠を仕掛けたのである。
作戦はほぼ9割成功しトネはカムイをしてアテカに餌を与えさせることに成功した、アテカは自らに餌を与えた相手に刃物を飛ばして殺すように調教されていたのであり、うまくいけばここでカムイを殺せた。
しかし、カムイは偶然に目の前にいたカエルをしゃがんで掴むことによってこの罠を1割で回避してしまい(この辺りカムイは相当に強運の持ち主というか悪運に強いというか)、トネの喉元に刺さって死んでしまう。
まあ最終的にはトネがうまくカムイを殺せたと内心油断しアテカが餌を飛ばすところに立っていたことで墓穴を掘った、つまり「策士策に溺れる」を地で行くような結末を迎えたわけだ。
逆にいえば、もしカムイが目の前にいたカエルを掴むという想定外の行動に出なかったらカムイはここで死んでしまっていたわけでもあり、いかにギリギリの攻防が描かれていたかが伝わる。
一見トネが可哀想なようにカムイに仕向けさせ、表向きの8人の刺客が悪人と思わせておきながら本当の刺客はそのカムイが「助けてあげなきゃ」と思った彼女だったというオチだ。
このエピソードには様々な戦いの原理が詰め込まれているのだが、わけても「男女の愛」が戦いの世界において成立しにくい理由を端的に無駄なく描いたお話だったといえるだろう。
生き馬の目を抜く戦いの世界においては戦局が常に左右されるわけであり、常にこめかみに銃を突きつけられているような感覚でいなければ生き延びることはできない。
しかし、男というのはなんだかんだ単純な「陽」の生き物であるから真逆にいる「陰」の女に弱い側面があり、男を失脚させる1つの策として「女の色気に溺れさせる」があった。
横山光輝版『三国志』でも孫権が劉備を一度酒と女に溺れさせて骨抜きにして殺そうとしたことがあったが、孔明が事前に策を打っておいた為に難を逃れている。
そう、戦いの世界において男女の愛が成立しない理由はここにあり、実際劉備と婚約した妹君も利害によって割かれてしまい離婚することになってしまった。
結婚という男女の愛を合法化する仕組みが成立するのはあくまで戦いなき平和な時代のみであり、いつ死ぬかもわからず世の中が不安定な動乱の時代には成立しない。
火事場で日頃の礼儀や常識なんか守っていたら焼け死ぬということを龐統も述べていたが、まさにカムイもまた火事場の中において女性との関係性を持ってはいけなかった。
女性の存在は組織の「保守」「安定」には向いていたとしても「改革」「発展」には向かない、いわゆる「陽」の星がその人に入っていない限りは。
井上敏樹先生はかつて「ジェットマン」のインタビューで「若い男女が1つのチームにいながら恋愛しないのが不思議」と言っていたが、私は「ああ、井上先生は平和な時に生まれ育ったお坊ちゃんなんだなあ」と思った。
曽田先生がメインライターを務めた戦隊シリーズ(『超新星フラッシュマン』〜『地球戦隊ファイブマン』)に参加していながら何を学んでいたのだろうか?
戦いの世界において一々男女が個人的感情や私情を優先していたらその先に待つのは「死」なのだが、なぜだか「ジェットマン」では凱を除いて戦死者が味方側から出ない。
いわゆる中盤に登場した裏次元戦士は別としても、あれだけ男女の惚れた腫れたを展開していながら味方側が最終回後半の結婚式で凱が死ぬまで誰一人死んでいないのだから奇跡である。
いつ死ぬかもわからず、自分が死んでしまえば世界は滅んでしまうかもしれないという状況の中で戦士が恋愛に現を抜かす余裕があるかというと、よっぽどの強運の持ち主か相当に鍛えられた屈強な戦士でないと難しい。
「ジェットマン」も含めて恋愛が成立した作品もないわけではないが、ほとんどにおいて戦隊内外を問わず男女の愛が成立しないのはそういう理由によるものである。
そのあたり「なぜ戦いの世界で男女の愛が成立しにくいのか?」に関して必ずしも突き詰めたとは言い切れず、「戦うトレンディドラマ」としか評されないのもこの辺に原因があるのではないか?
「Gガンダム」のように「愛の力によってしかラスボスを倒せなかった」という場合を除けば(これも半分ギャグだったし)、男女の愛が基本的に戦いの中で肯定された試しはあまりない。
話を「カムイ外伝」に戻して、このことがトラウマになったのか、カムイはその後スガルの島で若い女性たちに絆されることがあっても、感情を挟むことなく冷静沈着に行動して生き延びていくようになる。
抜け忍である限り平穏無事な家庭や男女の愛など成立しない、少なくとも動乱の世を厳しく生き抜いてきた白土三平先生はそういう感覚をずっと体の中に刻み込んで生きてきたのであろう。
そのように見ていくと、スーパー戦隊シリーズをはじめとするチームヒーローにおける女性戦士の役割はやはり「くノ一(相手を油断させる刺客)」が原点であることが見て取れる。
いわゆる吉田沙保里のような男性性が強い女戦士を除けば、基本的に女性の場合は力だと男性陣に敵わないので柔術や魔法の類に頼って戦うことが多いのだ。
現代は女性が社会進出を果たし更に目立つようになったことで一見男尊女卑から女尊男卑に逆転したように思われるしそう言われているが……。
それは「表面上」が逆転したように見えるだけで、実際のところは昔とそんなに大差がなく、相変わらず世を発展させるのが男でそれを保守するのが女性の役目ということに変わりはないのではないか?
ここ数年で世間をお騒がせしており影響力を与えている人なんて女性もいないわけではないがやはり男性が圧倒的に多く、いつの世も名前を残す方は男の方である。
激動の時代であればあるほどその傾向が強く、表面上は女性性が強くなったように見えて実は根っこの部分ではまだまだ男性優位であるというのは変わっていないようだ。
少なくとも今のこの激動期において、十分なバックアップや将来性もなく安易に結婚を選択してしまうのは大変にリスクが高い。
SNS戦国時代へ差し掛かっている昨今、男女の愛なんて表面上の綺麗事では乗り越えられないことをこのエピソードは端的に伝えてくれる。
江戸時代という設定ではあっても十分に批評性の高い作品であり、今こそこの話を読み返して意味を考えてみてもいいだろう。
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