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映画→テレビ→YouTubeと変化していくメディア媒体の中で失われた「引き算」と「圧縮」の技術

現在、スーパー戦隊シリーズの戦闘シーンを『秘密戦隊ゴレンジャー』からパイロットのみ抽出して図っているが、スーパー戦隊シリーズの戦闘シーンにも実は奥深い歴史の変遷がある。
それは即ち「どれくらいの尺でどのくらい密度の濃いバトルを圧縮して劇的に見せられるか?」という「時間」と「見せ方」の戦いの歴史であり、ここに対する意識がきちんと向かない人に戦隊を語る資格はない。

先日のスーパー戦隊シリーズの戦闘シーンに関してこのようなことを書き、現在1話の変身後の戦闘シーンのみをピックアップして、時間経過を図っているが、平均値は大体2分〜3分、長くても4分ぐらいあることがわかった。
戦隊の1話は基本的な世界観・設定・物語・登場人物同士の関係性などあらゆる情報をたった20分程度の尺の中に過不足なく詰め込まねばならず、しかもその見せ方に絶対の正解はない。
これに関しては『星獣戦隊ギンガマン』で初めてパイロット監督に就任し、以後平成ライダーのパイロット請負人として活躍することになる田崎竜太監督が以下のようなことを語っていた。

—— 「星獣戦隊ギンガマンでパイロット監督を経験して感じたことは?

田﨑:パイロット監督は、変身パターンからサブタイトルの出かた、アイキャッチ、オープニング、エンディング、なども含めて、1から10まで全部作るんです。
作曲家の先生との打合せもパイロット監督がするのですが、ここで「作曲家に対しての言葉」が必要になって来るんです。「ギンガマン」は佐橋先生でしたけど、共通するものがあったりしたので、最初に佐橋さんと仕事ができたのは良かったです。
セットのデザインを美術デザイナーと作っていくのもパイロット監督の仕事なのですが、これは責任重大。そのセットを1年間使うので、変な構造にすると(他の監督から)「撮り辛いな」と(笑)

戦隊シリーズでは1話か2話、遅くても3話までには年間を通して使う秘密基地のセットが出てくるわけだが、それも含めてどういう構成・構図にするかまでを全てパイロット監督が決めなければならないそうだ。
ここを失敗してしまうと他の監督はもちろんのこと脚本家・キャストにも大きな支障を来してしまうということであろう、もちろんその中には戦闘シーンを変身前・変身後の双方においてどれくらいの尺でどんなスタイルで見せるかも含まれる。
だからこそ戦隊シリーズの1話のアクションがその後最終回までの戦闘スタイルを良くも悪くも規定すると言った方がよく、ここを魅力的に見せられなければ締まりのないダラダラとした戦闘シーンが1年も続くことになってしまう。
要するに「引き算」と「圧縮」こそがパイロット監督が一番に求められるお仕事であり、冒頭で「何を見せるか?」あるいは「何を見せないか?」を全て決めた上で勝負するのが監督の腕の見せ所である。

そしてこれは決してスーパー戦隊シリーズの話だけではなく仮面ライダーやウルトラマンなど他の子供向け特撮番組もそうだし、もっといえば「映像作品」と呼べる全ての媒体に言えることではなかろうか。
映画だってやはり真に面白い作品かどうかは冒頭の5分〜10分にどれだけ魅力的な粋筋の画面を見せられるかにかかっており、ここに対する自覚のない作品はやはり押し並べて面白くない。
そういえば北野武も黒澤明との対談のなかで映画『まあだだよ』を見た時にどういう時間経過で物語が流れていくのかに注意して画面を見ているというようなことを語っていた。
映画監督は特に90分〜2時間というテレビよりも限られた尺の中で1つの物語を映像として語らなければならなず、テレビやYouTube以上にこの「引き算」と「圧縮」が必要となってくることは間違いない。

そのように考えるとき、映画→テレビ→YouTubeと変化していくメディア媒体の中で、特にYouTubeで失われた物の1つがこの「引き算」と「圧縮」の技術ではないだろうか?

SMAP×SMAPの放送作家だった鈴木おさむとカジサック・ヒカルとの鼎談の動画で鈴木おさむが香取慎吾について「尺で締める天才」と述べていた。
実際、ビストロSMAPにしろ他のコントコーナーにしろ、最後のオチの部分を担当するのは大体リーダーの中居正広か末っ子の香取慎吾のどちらかである。
ことバラエティーで全体を俯瞰してまとめ上げる能力に長けているのはこのどちらかとなるが(嵐だと大野智が落ち担当)、映画・テレビとYouTubeの大きな違いはここではないかと思う。
テレビだと1時間の放送内容でもCMなどを挟むと実際の尺は45分程度になるし、その中で更に細かいコーナーの中で結果を残そうとすると演者の瞬発力とカメラマンの演出力・監督の編集力が必要だ。

だから演者も短い時間の中で爪痕を残すようなコメント力やパフォーマンス・立ち回りが求められるわけであり、自然と「引き算」と「圧縮」の技術を会得して戦わなければならないのである。
これに対してYouTubeにはそういった「時間」「尺」の制限はなく、テレビ・映画では使えない部分であってもクリエイターが面白いと思えばその場面を使うことができるのだ。
カジサックもヒカルもそのようにして成功してきたタイプであって、要するにテレビ・映画では「こういうことは語れてもああいうことは語れない」という制約が物凄く多いが、YouTubeにはそれがない。
Google側が決めるアルゴリズムや規約に反してさえいなければ、何をやっても許されてしまうのがYouTubeの面白くもあり恐ろしくもある諸刃の剣である。

テレビと違って編集権も投稿日時もあらゆることが自分で決められるが、その代わりに映像のクオリティーに関しては周りの大人たちが誰も責任を持ってくれないという厳しさもあるだろう。
そして同時にこれはテレビ上がりの芸能人がYouTubeに来ることで成功するパターンがあっても、逆のYouTuberがテレビで成功するパターンがヒカキンなどのごく一部を除いてないのも大きな理由の1つはそれだ。
YouTuberはテレビの芸能人と違って局プロデュースではなく自己プロデュースであり、素人上がりでも見せ方さえうまければなんとかなってしまう安易さがあるが、テレビ・映画ではそれが通用しない。
これに関してはシークエンスはやともが述べていたことでもあり、再確認の意味も込めてここで引用しておこう。

YouTubeは今のままでいいです。ただ、広い舞台−−例えば何万人入るようなライブ会場とかでライブだったりテレビだったりという風になると、周りの大人に料理されるようになるんですよ。たくさんの大人、何千人・何万人の大人の人たちを借りて自分たちを料理してもらうんで、っていう風になった時は殻被ってるとバレます。「お前そんな人間じゃねえだろ」って大量の大人に言われるんで、それはいつか絶対バレます。僕も「ホンマでっか!?TV」とかいろんなテレビに出させてもらって、「あ、テレビとYouTubeの違いってここだ!」という風に思ったんで。嘘つけないんですよテレビの場合

YouTubeの場合は例えば嘘をついたとしてもそれを客観的に注意してくれる人があまりいない、いたとしてもその嘘を貫き通してしまえば成り立ってしまうという怖い世界である。
それは「自分を客観視した上での適切な立ち居振る舞い」を技術として磨く機会の損失と同時に、「引き算」と「圧縮」の重要性がわからないということにもなる。
自分を客観化し軌道修正してくれる人たちが周りにいないというのは意外に怖いことであり、だからというわけでもないだろうがYouTuberは芸能人以上にスキャンダルや社会的事件を引き起こしやすい。
若くして巨万の富を得られる可能性がある優秀なプラットフォームがあり、マインドが成熟する前に高い収入を得られて周囲からちやほやされるのだから、さぞかしその夢見心地は最高なのだろう。

Tik Tokやショート動画もそうだが、はっきりいって素人の成り上がりが作った安上がりの動画なんてとても見るに耐えない、あんな足し算思考だらけの無駄な装飾でゴテゴテと飾られた動画なぞ面白くも何ともない。
これは決して懐古趣味でも何でもなく、YouTubeやTik Tokのショート動画を見るくらいなら、エジソンのキネトスコープ時代のショート動画や10分程度で完結する初期のサイレント映画を見る方が遥かに有意義である。
特に『大列車強盗』は映画史を語る上でも重要な傑作であり、たった12分程度なのにフィルムとしての完成度・映像の見せ方・圧縮と引き算の全てにおいてYouTuberが出す同じ時間の動画より遥かに完成度が高い。
全部で14カット、すなわち1分1カットで強盗が列車の中で盗みを働いてから警備隊に撃ち殺され、最後にクロースアップで観客に向けて強盗のリーダーが発砲するというサプライズのサービスショットまで入れている。

音楽も字幕も言葉による説明もないのに画面の運動だけで見せる創意工夫と技術は今よりも遥かに上であり、そりゃあYouTuberが粗品にバカにされ続ける理由も分かろうというものだ。
確かに昔のテレビを中心としたマスメディアには偏向報道や権力の偏りなど問題点がなかったとは言わないが、逆に言えばそれがまた視聴者に厳選された良質の作品をお届けする自浄作用として機能していたのも事実である。
YouTubeにはそういう自浄作用のようなものがないから、善し悪しを結局は数字で測るしかなく、再生数・コメント数・登録視聴者数といった定量化されたものでしかクオリティーを図れないという貧しさを持ってしまう。
もちろん映画・テレビにも匹敵する引き算と圧縮の技術を持ったYouTuberは僅かながらでもいるわけだが、ほとんどはそういう「時間」に対する意識が低い人たちがダラダラと長ったらしい動画を投稿し続ける毎日だ

コスパ・タイパなんて言っておきながら、その実自分たちが見ているものが寧ろそのコスパ・タイパとは真逆の情報価値が低く無駄に長い動画ばかりを見ていることに気づいてる人が果たしてどれだけいるのか?
そこに気づかない限り、YouTubeが映画・テレビに取って代わる新時代のメインコンテンツになることはないだろう。

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