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不登校は終ったり始まったり、始まったり終わったりするもの。【加筆修正済】

不登校。

ってひとくちに言うけれど、それはただの定義。

「病気や経済的理由を伴わない年間30日以上の欠席」をした児童や学生のことを「不登校」という状態であると区分けしているだけ。


以前にも書いたけれども。
不登校は「症状」の名称に過ぎない。

例えば「頭痛」と同じ。
「頭痛」の要因が、二日酔いであろうが、肩こりであろうが、発熱であろうが、眼精疲労であろうが、「頭痛」は「頭痛」である。

同じように。
「不登校」の要因が、成績不振であろうが、朝起きられないことであろうが、イジメであろうが、失恋であろうが、なんとなくダルい。であろうが、「不登校」は「不登校」である。


「不登校」が「良くないこと」と思われたのも一昔前のこと。

当時は「不登校の行く末」が、わからなかった。
だからみんなが不安だった。

「不登校児=引きこもり予備軍」
という世の中の認識も、実際にあった。

我が子が不登校になり。
「引きこもりになるぐらいなら」と。
親子共々、命を断とうか悩む親だってあったのだ。

しかし。
当時の関係者が提言していた通り。
「不登校はどの子にでも起こりうる」ことであり。
「不登校が人生の終わりではない」
そして
「学校へ行かない生き方も確立できる」
という認識がされる世の中になった。

あの頃に比べれば、今は。
「不登校」状態の子どもに優しい世の中だし。
「不登校」を容認してくれる世の中になった。

私は。
それを肌でひしひしと感じている、
一昔前の不登校児の母親でも、ある。

そうして。
今の「不登校に優しい世の中」を
ありがたく享受している母親でも、ある。


さて。
1学期も残すところ、あと3日。
昨年度とさくさくねんど(←漢字変換で出てこなかった。サクサク粘土…。笑)を不登校児童として過ごした我が家の末娘は。

6年生の1学期は「不登校児童」になることは不可能となった。
だって、1学期、あと3日だからね!笑


学校に行こうが行くまいが、彼女の「幸せ」や「不幸せ」には関係ない。

だから彼女が現在のところ「不登校」状態ではないことに、母親である私が一喜一憂することもない。

まあ正直、学校行ってくれてるのはラクではあるけども。笑

彼女はただ。
「学校に行きたい気持ちがあり、学校に行ける精神状態」
であるから登校しているのであろう。

だからまた、いつか学校に行かなくなって「不登校」の状態になることもあるだろう。

不登校は、始まったり終ったりを繰り返す。
でも、それで、別に良いと思う。

子ども自身の人生だもの。

あれこれ試行錯誤しながら生きれば良い。


そんな彼女との会話。

私「いま学校に行っていて、困ったことや大変なことは、無いの?」
娘「うーん。無い…。かなぁ?割と色々が平気~。」
私「4年生や5年生の時は、平気じゃなかったってことなのかな?」
娘「ま、そういうことだよね!笑」
私「どうして、平気になったと思う?」
娘「うーん。なんでだろう。前と同じようなことがあっても、あんま傷つかない気はする。」
私「なるほどねぇ」
娘「あとね。前よりも色々、頑張らなくてもいいかな?って思えるようになったかな?」
私「にゃるー。なにを頑張ってたの?」
娘「女子同士の女子女子したお付き合いとか!笑」
私「おおー。私も割と苦手だったなー」
娘「いまは、男子と一緒にいるから、そういうのにハマらなくても生活できるからラク」
私「自分に向くことと向かないことが、わかってきたのかもね」
娘「それはあるかも!苦手なことは、少し距離をおけばいいって、わかってきた。」
私「自分と世の中との付き合い方が上手になったのかもね?」
娘「ああ、なるほど、そんな感じー」


末娘は。

去年と一昨年と。

学校に行かない生活をしてみて。

いま、学校に行く選択をしている。

学校に行かずに家にいることだって、できる。

でも、登校することを選んでいる。

学校に行くことも、学校に行かないことも、彼女の人生の、幸・不幸を左右しない。

ただ。

この。

「自分の人生は選択できるものだ」という経験は。

彼女の人生を幸せにするだろうと、私は確信している。