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創作に伴う賛否について

 東京国立近代美術館(以下、近美)で開催している「民藝の100年展」へ。最終休日ということもあり、入場は時間予約制に。そうとは知らずのこのこ出向き、次の入場まで、1時間半待ちに一度は臆したものの、隣の受付から「入場時間までの間コレクション展をご覧になれますので〜」と聞こえてきたので、よし、と当日券を購入。

 行ったことがある人はわかると思うが、竹橋の駅周辺は毎日新聞社ビルと当美術館があるのみ、しかも休日は社ビルも閉鎖しており、地下の飲食店街も入れない、加えて外は雨!ここで目的なく1時間半を消化するのは至難の技だなと思っていたところ、時間を潰すどころか、コレクション展を見て過ごせるなんて、プラマイプラス!他の美術館もぜひ導入すべきだと思った。

 近美は何度か訪れたことがあるものの、コレクションをじっくり鑑賞したことはなかった。展示室入口にあるフロアマップを確認すると、なんと3フロアもあるではないか。時代別、ジャンル別で実に10室、1時間半もあるし、脳みそを起こしがてら、ゆっくり見て回るかと入った最初の作品が近代美術ではなく、現代アーティストの作品で面食らったが、隣にはちゃんと屏風の日本画が並んでいて、なるほど、これが近美の見せ方なのだね、と俄然これからの順路が楽しみになった。

 美術館の収蔵品展とは、文字通りその美術館が収蔵している作品の展示で、新しい作品が加わることもあるが、概ね、これまで集めた作品を展示する。ルーブル美術館や大英博物館といった館はあまり入れ替えはしなさそうだ(行っことがないのでわからない)が、日本の美術館は会期を設定して、作品を入れ替えるところがほとんどだ。同じラインナップの中で、どのようなテーマ・視点で、構成・編集して、どう見せるのか、キュレーターの腕が一番問われるところだと思っている。

 本筋に戻って、収蔵展の内容としては、近代美術館というだけあって、江戸の日本画に始まり、その後鎖国が解けたことで西洋の文化に触れ、3Dの表現へと流れていく。西洋画に魅了された日本人画家たちは、西洋の巨匠に各々師事し、技術を身につけてくる。展覧会中盤ではそのような絵が展示されていたのだが、浅はかな素人が一見したところによると、いや、これゴッホやん、セザンヌやん、モネやん!!とツッコミたくなる作品ばかりであった。種子島にペルリが持ってきた鉄砲を見様見真似で再現してしまった、これぞ日本人の得意技だなという感心と、当時はこうやって絵を学んでいたまでで、まさか100年後に国立美術館に展示されるとは思ってもなかったかもしれないので、悪く言うつもりはない。

 音楽でもお笑いでも何でも、何かを作って発表すると、それを受ける人が居て、その人の中でいろいろな思考が渦巻いてゆく。鑑賞者の頭をぱかっと開けて、統計するならば、そこには賛もあれば、否もあり、もちろん両極のあいだには幅広いグラデーションが縦にも横にもあって、受け止めきれないほどの意が存在する。今こうやって書いている私の中のぐるぐるもそのどこかに位置付けされるのであろう。

 前述の感想を「パクりやん」と言ってしまえば、それまでなのだが、多少なりとも作詞作曲を経験した自分にとっては、やはり作品をつくって発表するということについて、まずは評価をしてほしい、するべきだと思う。「こんなの自分でも作れるわ。」という感想を聞くが、そう言った人に問いたい、では実際に描いて発表できるのか?と。作れることと、実際につくることは違う。アーティストが0を1にするためにどれだけの労力がかかるか、それは実際につくった人にしか経験し得ないものである、ということをぜひ肝に命じて鑑賞していただきたい。

 終盤の展示室で、樹木のタイトルがついた日本画があった。木肌は黒い墨で塗られ、枝と思しきうねうねが画面いっぱいに広がっており、葉はついていない。タイトルを見ていなかったら、これが木を描いた作品とは思わなかったかもしれない。ふと、最近読み返した「神様はじめました」という漫画の1コマを思い出した。

 ご存知ない方のためにざっくり説明すると、高校生の主人公がひょんなことで家なき子になってしまい途方に暮れていると、神社の神様がやってきて、君に神様のしるしをあげよう、と人神様になってしまうというストーリーである。主人公はじめ登場するキャラクターの運命の糸がそれぞれに絡み合って、とっても面白い。個人的おすすめ漫画の一つ。

 話が外れたが、その1コマというのが、神様のお葬式に行くという話である。葬式と言われ、戸惑いながら向かうのだが、そこでは宴が開かれていた。なんでも大きな病に長年苦しんでいて、死をもって、ようやくその苦しみから解放されたのだという。その病って・・・と話す主人公の目の前に描かれていた亡くなった神様というのが、枝がのたうち回ったようにぐねぐねと描かれた枯れ木だったのである。読みながら、苦しみをこういう風に表現するのか、なるほどな〜、と思っていたので、よく覚えていた。

 ここからは私の勝手な想像だが、もしかするとこの漫画の先生が、この近代美術館を訪れ、ふらっと入ったコレクション展で、たまたまこの絵を見て、しばらく時間が経って、ふと病に苦しんだ神様を描こうとしたときに、そういえばとこの絵が蘇ったとしたら、それはもう紛れもなく、つくって発表したことの本望ではないかと思った。そしてその行為は、媒体は違えど、前述で述べた西洋の巨匠に習った日本人画家と同じことではないかと、すとんと腑に落ちたのである。

 とかなんとか、脳みそを起こすどころか非常に有意義な時間となった収蔵品展だった。

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