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ここだけの話

「たまの休みなので、ちょっと一人になってもいい?」

という頼み事を旦那にした。
旦那は「いいよ、ゆっくりしておいで」と応えてくれた。

仏か。

前置きとして、ここ最近の私は仕事詰めで、会おう!と言っていた友人達にも会えずにいたため、丸一日仕事or仕事→飲みや食事のルーティン、という日々を過ごしており、我が子や旦那と顔を合わすのは仕事前、我が子が学校に行くまでの数分という状況だった。
そして久々の休みが取れた。
そこで私が選んだのは
「ちょっと一人にさせて欲しい」
というものだった。

昼食を作り、家族と食べ、バスに乗って、なんかよく知らないわけわからん土地へ向かう。どうせなら行ったことのない場所に行きたいと考え、あてもなくバスに乗り、適当に降りて、今、なんやようわからん銭湯でこの文章を書いている。

ここまで読んで下さった方はもうお察しだと思うが、私は俗に言う「良い母親」ではない。
せっかくの、やっと、ようやく取れた休みだった。そんな日に私は、日々家事や育児を全て押し付けている旦那、私の帰りを待つ我が子、そんな二人を差し置いて、私は、「一人になること」を選んだのだ。

言っておくが私の稼ぎは決して良い方ではない。ないどころか、自社でのイベントで赤字を叩いたりしている。雇われ作家でなんとか食ってはいるが、いかんせん作家というものの収入は浮き沈みが激しい。トータルで見れば、二人して共働きでまともに働いた方がきっと家計は潤うと思う。
そしてわたしには借金がある。数年前にデカイイベントを立ち上げてコロナが爆発し、どえらい額の借金がある。そしてそれ以前にも私のごく個人的な理由による借金がある。旦那はそれを承知で私と結婚をし、なんならそれを一緒に返してくれている。
色々あるが、まあ、貧乏なのである。
そしてさらに私は素行があまりよくない。
あまり良くないっていうか多分普通に考えたらめちゃめちゃ悪い。独身当時はグレーな仕事もたくさんしてきたし、あと大昔に騙されてエロ本に載った事があるのだが、マジあの野郎見つけたらぶっ殺したいのだがまあそれは今はいい。
家庭というものがとにかくおかしな形であった私にとって、自分が関わる今この家庭がとてつもなく尊くて、かけがけのないものであること、は決して嘘ではない。嘘ではないが、まあ、私は、ありとあらゆる意味でよく遊ぶ。家族からすれば、「会っていない人と久々に会ってくる」とか、「仕事絡みの飲み会がある」とか、「打ち合わせついでにメシ食ってくる」とか、そういうことも、「いやお前遊んでるだけじゃねえか」と言われてしまえば、ぐうの根も出ない。もちろんそういうことから仕事に繋がる事はよくある。あるが、仕事に繋がらないこともよくある。結果、私は、「家族をほったらかして遊んでいる母親」なのであった。

最悪なのである。

この、よくわからん土地で、この、よくわからん日記みたいなしょうもない文章を書いている暇があるのなら、少しでも何か書けばよいし、金がないなら日払いのバイトに行けばよいし、何より、家族のそばにいるべきなのである。

なのに、なぜ。


「潰れるから」である。

私はもとより、「生活」というものにほとほと向いていなかった。二十歳を迎える時にはもう団体行動ができないとかデリカシーがないとかそういう自分の性分に嫌気がさしており、嫌気がさすなら変わる努力をすればよいもののそれもサボり、そんなわけなのでけっこう早い段階で孤独死を覚悟していた。旦那と結婚するまでは自分の家もなかった。ありとあらゆる人間のヒモをして、愛想を尽かされて追い出されるという事を繰り返していた。そして旦那のヒモであった。私は働かなかった。そして旦那の金を食い潰した。
そしていつしか子どもが出来、家が火の車になった。気付けば旦那も支えきれないほどのとんでもないことになっていた。そこで私はようやく気付き、働き出したのである。

最悪なのである。

私はとにかく「誰かと共存すること」に向いていない。自分勝手で、自己中心的で、快楽主義で、かっこつけで、ダサい人間なのである。

私は生きているとものすごく疲れる。
いやそりゃ誰でもそうやろ、と言われてしまえばまあそうなのだが、私は、普通の人が、普通に出来ることが全くできない。できないが、している。なぜなら生きていけないからだ。社会というものに馴染まなければ生きていけないからだ。生きていると意味がわからないことに沢山ぶつかる。そしてその意味がわからないことが分からないと途端に頭がパニックになったりする。幸い、鬱というものになったことはないのだが、知り合いのクリニックの人間に言わせると、「万年躁状態」なのだそうだ。落ち込むことはあるが、一日寝ると忘れてしまう。忘れようとしているのかもしれないが、とにかく私は落ち込むということが少ない。
私はなんか知らんけどとにかく自信があって、やりたいことは我慢が出来ず、なんでも楽しいと思ったらやってしまう。とんでもない、はた迷惑なアホなのであった。

そんなわけなので、まともな人間のフリをして生きていると、とんでもなく疲れる。疲れるので、一人になりたくなる。日常生活とは他人との関わり合いの上で成り立っている。さらに私の仕事は主に演出家である。何某かの講師である。何かを家にこもって書いている時はまだいいが、何かを家にこもって書いている時は、家には家族がいる。常に誰かと関わっている。まあ、仕事がどうであれ、家族がいるということは、家族と関わっていくということであるので、今私の職業はあまり関係ないか。だんだん何が言いたいのかわからなくなってきたが、そもそもこの日記に言いたいことなど特にない。

とにかく家族に申し訳ないし、今自分が何をしているんだという疑問がある。さっさと帰って家族に尽くせ。自分の時間など作るな、働け、休みは家族と過ごせ。家事をしろ、子どもの話を聞け、旦那の愚痴を聞け、働け、金を稼げ。

そういった意見は何一つ間違っていない。私もそう思う。ここで先程の話に戻る。

「潰れる」のだ。


自分の時間など作るな、働け、休みは家族と過ごせ。家事をしろ、子どもの話を聞け、旦那の愚痴を聞け、働け、金を稼げ。

できているかどうかは分からない。自分のことは本当の意味で客観視出来ない。「私としては」必死に頑張っているつもりだが、まあ、頑張ったところで、ありとあらゆることが足りておらず、家族に迷惑をかけているだろうという自覚はある。自覚はあるが、限界まで頑張っているぞという自信もある。いやもっとやれるだろう、という気持ちもあるが、多分、今、いや、今日、今日が、私の限界だった。バスに乗ってから銭湯に着くまでの記憶がものすごくおぼろげだ。スマホがなければ家に帰れないかもしれない。とにかく頭がぼんやりしていた。遠くからやってくるバスを眺めているとき、限界だ、と小さくつぶやいてしまったことだけなぜかとてもよく覚えている。

「いいよ。ゆっくりしておいで」
そう言ってくれた旦那は、私のことを誰より理解し、誰より味方でいてくれ、誰より私の扱い方を心得ていてくれる人だ。
いつだか、私が「いけるいける!やれる!がんばる!」といって色々なことに必死になっている時、「いや、ちょっと休め、海でも見てこい」と旦那が言ってくれた。しかしその時私は「いや!大丈夫だっつの!いけるっつの!次の休みみんなでご飯でもいこーよ!」などと息巻いており、そして、旦那の忠告通り、休みの前日にぶっ倒れた。

私はやたら体力がある。そしてメンタルも強い。よほどのことでは落ち込まないし、体調も崩さない。バカだからだ。ストレスもあまり感じない。バカだから。そしていろんなことに気付かないうちにぶっ倒れる。そして廃人みたいになることもある。

それを防ぐための、
「いいよ、ゆっくりしておいで」
なのだ。

その証拠と言ってはなんだが、今私はこの文章をものすごい勢いで書いている。そして書いているうちに新しい企画を何個か思いついたし、ここ数ヶ月ずっと頭の中にあったモヤのようなものがグングン晴れていっている。
週末には締め切りが二つかぶっているが、昨日まで「無理だ、できるわけない、帰りたい」と思っていたのに、今、めちゃめちゃやれる気になっている。帰り道をさっきナビタイムで調べた。さして遠くにはいなかった。当たり前か、バスで行ける範囲なんだし。なんなんだ。なんだったんだ、さっきまでの絶望感は。こんな近所で、数時間ぼんやりしているだけでこんなに元気になるなんてなんなんだ。バカすぎないか。

私が潰れずになんとか生きているのは、すべてこの「家族の犠牲の上」にあり、そして、しかし、この時間がないと、私は潰れてしまう。
大黒柱である私が潰れるということは、家族が潰れるということである。

罪悪感に苛まれつつも、たまにこういった時間をとりつつ、家族には絶大なる感謝と、そして、還元をするべく、明日からまた仕事を頑張ろうと思う。次の休みは家族とランチをする。金を稼ぐ。働く。家族と笑う。我が子を抱いて寝る。
そうやって生きて行く。

恥ずかしくて面と向かって言ったことはないし、この日記も旦那と我が子には絶対に見られたくはないのだが、本当に、私のような、ゴミクズと一緒にいてくれてありがとう。

わたしには家族がいる。
わたしのことをひとりにしてくれる家族が。
それがどういうことなのか、見つめ直すことができた。

ありがとう七月二十二日。
ありがとう家族。
もうすぐ帰るよ。











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