キリスト教礼拝における間(ま)について

 昨日から授業が再開されましたが、無理なく出せる記事は出していければと思います。つまり、過去のfb投稿の焼き直しです(^^;;
 今回は、2年前の今日の投稿を加筆修正した上でお届けします。

 とある集まりの中で、礼拝における間(ま)(※以降、原則として同じ読み)について話題になりました。こう書くと仰々しいですが、要は「賛美歌の奏楽が終わった途端、間髪入れずに次のアナウンスをする司会者の方がいるよね」というあるある話になったのです(^^;; 「礼拝司会者の学び」を年1回でも定期的に行なっている教会はどれくらいあるでしょうか。奏楽者目線で言えば、5秒くらいは間を置いてほしいなぁと思います。
 ただ、考えてみれば礼拝における間はこれに限った話ではないと思います。当然、一つ一つのプログラムの合間に微々たる間はありますが、前奏・後奏も一つの間だと言えますし、さらにこの世と礼拝の間(あいだ)にあるカーテンのような役割を果たしていると聞いたことがあります。
 また、聖書朗読や説教(メッセージ)の前後に黙想の時間を設けている教会もあります。間奏としてオルガン等が演奏されていたとしても人間の声はない訳ですから、これも大切な間と言えるでしょう。司会者の裁量の範囲内でもう一つ加えれば、聖書朗読での間の置き方も工夫次第で聞こえ方が変わってくるのではないかと思います。

 そもそも、安息日そのものが人間の営みにとって大切な間なのだろうとも思います。創世記の最初に記されている「天地創造の7日間」の7日目は、次のように描かれています。

神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(旧約聖書 創世記2章2~3節)



 現代では朝から晩まで「すべてのわざ」をやめることは難しいですが、せめて1~2時間だけでもそのようにしようとして教会へ行っていると言うこともできるのではないかと思います。普段の生活から一旦離れて、人間とは違う視点を持っておられる、しかも一人一人に最善の計画を用意してくださっている神の言葉を聴き、方向転換を示されていくのです。(礼拝にはそれ以外の要素もありますし、現在の状況下での「自宅でのオンライン礼拝」ではまた違った心構えが必要かと思いますが)

 人間の領域でガチガチに固めてしまうと、神様が介入してくださる領域はそれだけ狭まってしまうんだろうとも思います。聖霊の風が自由に吹き込んでくださるためにも、どこでもいつでも適度な間を置くことが大切だと教えられました。特に日常生活の中でどのように余裕を持つか…なかなか難しい課題ですが、そういうところにこそ神からの知恵が与えられることを期待しつつ。

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