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言葉にすることの意味と難しさ


 「言葉にして、相手に伝える。」

 ということが、なんで難しいんだろうとずっと思っている。今でも難しいと思っている。更に言って仕舞えば「わざわざ、言葉にして伝えたいことってあるんだろうか。自分の中に」という自問自答が常にそばにありながら、偶に、言葉にしたい衝動にかられるような出来事に恵まれる事があって、そういう瞬間はいつも、「自分が伝えたいことなんてない/自分の言葉で伝えることなんてできない/自分が理解したと思っている事は全てまやかしであって、自分の満足のためにしている自慰行為でしかない」という言い訳がすっ飛び、ツイキャスでもnoteでも絶対に誰かとこの興奮や感動を分かち合いと思いながら生きてきた。

 そしていつも失敗しては、また振り出しの「言葉にして、相手に伝える。」のは難しいんだろうと悩んでは落ち込んでいた。

 それは、自分のアイデンティティを保つためなのか、自分の興奮を伝えたいからなのか。だけの話ではないと思う。(勿論、上記2つの要素も孕んでいるとは思うけど)実際には、「自分が誰かとこの感情を分かち合いたい、あなたもそう思うだろう?」と問いかけることで、社会に混ざりたいのだと思う。過激な言葉に変換すると、今の社会に対して喧嘩を売りたいんだと思う。「こんなに素晴らしいものがあるのに、社会はまだ見つけていないし、誰もそれを言語化していない」などと。

 どういう立場で物を言っているんだろうと自分で書いていて思う所もあるし、それは文字通り他者の人生や価値観を下げて、自分の人生を棚に上げた発言だとも思うけど、それでも、言葉にして伝えたい欲求に駆られてしまうのは、社会が自分の感性に訴えかけるような刺激物を自分に与えてくれるからだ。また、刺激物を与えてくれる人達がいるからだ。だから、自分はずっと職人のような一流の技であったり、修行僧が日々積み重ねている修行の光景をYouTubeじて見る度、彼らの仕事が果たした結果に憧れて、自分は何も積み上げられなかった。受けた感動すら言葉にできないくせに、自分は一体何ができるのか、何もできないままじゃないか、すぐに「絶望」してしまい、言語化をサボってきた。

 自分の筆が動くときは、自分のため(のもあるけど)だけではなかった。誰かの話を聞いた時に、もしくは創作物と出会ったときに、そこで感じた思想や生き様や行動の結果や、反省の中に自分が考えてこなかった認識を体感した時にショックを覚えてしまった「自分」を誰かに訴えたいからだなのだ。

 だから、自分が書いたものが、他者に届かなくてもいい。けど、届いたら「うれしい」。その「うれしい」をあなたと分かち合うために、自分は文章を書いて投げかけるのだ。それが徒労に終わったとしても。

 たとえ、徒労に終わったとしても、伝えたいことがあるから、伝わることを信じて書くんだじゃないのか。そして、伝えた結果、伝わった人が何を思うかもセットで気になってしまうんじゃないのか。それが、どんなに客観的に見てみすぼらしい文章や、価値観で描かれた物であったとしても。確かめたいことや、期待や、不安があるから、ずっと読み手が見える場所に物を書いてきんじゃないのだろうか。

 一言でいえば、友達が欲しかったのだ。お互いの価値観を認め合えるような、時には反発しあっても、伝えることがお互いにできるような、そんな友達が。そして、それに見合うような友達になれるような存在に自分もなるために、ネットという言葉の修行場に足を踏み入れたのだ。

 だから、言語化すると言うことは、伝える努力を常にし続けるという事であるし、そのために、勉強もするし、いろいろな創作物をただ見るだけじゃなく、あるいは自分の中にある枠組みの理解や表面的な、語彙の裁断によって、切り取り解釈するだけじゃない、より深い視点で物事を見る(陰謀論に走らず)つまり読んだ結果をそれなりに正確に、その当時持ちうる感受した感覚全てを書けて表現することなんだと思う。
 その表現するという行為が、時に酩酊のような感情に振り回された身勝手な物になってしまうことにも十分気を遣いながら、何度も発表して自分にフィードバックし、血肉して再度言語化していく。だから、書く行為と読む行為は繋がっているし、私とあなたという最小単位から構成された社会を形作っていく。逆に言うと、この相互作用が働かない空間というのは、一方的な価値観や責任の押しつけ合いしかない傷しか生まない場所になってしまうし、結果生まれるのは分断だと思う。要は、あなたの言葉は信じられない。になってしまう。自分の言葉は信じられないと思われてしまう。

 実際に自分が生きてきた人生を振り返ると、自分の言葉は常に自分だけを向いてきた。社会から提供された様々な感動に一方的に救われた気になってきた。その気持ちを社会に押しつけてきた。他社を顧みない舌足らずな言葉で。
 自分の言語化できない感情を言語化してくれることだけに価値を見いだし、それ以外の言葉を聞かずに塞ぎ込んでいた。自分の価値観が壊されることが怖かったからだ。友達が欲しい。自分の価値観を壊さない友達が、一方的に自分を認めてくれる友達が欲しかった。でも、それは友達なんだろうか? そんなことすら、気がつかなかった。

 社会で生きるということは、人と交わる事を意味するし、そこで自分以外の価値観を認める、もしくは反発し会うことが大事なんじゃないか。

 表面上の同意はあっても、心の奥底の同意なんか得られるわけも、出来る訳もないじゃないか。人の話なんか聞いたって忘れるのは、自前の記憶力の悪さというのもあるけど、人の話、もしくは人の気持ちが分かろうとしなかったからじゃないか。人の話を聞いても、「でも」と逆説をつけて無かったことにしてしまったこと。それがこじれて、自分の価値観は誰にも受け入れられないと嘆いている人間に手を差し伸べる人はいないし、手を差し伸べ手くれていることにも、気がつくことなんてないじゃないか。

 最近本を読むのが楽しいのは、他者の感覚を共有することができるからだと思っている。読める本の幅はやっぱり少ないけど、でも、誰かの話をやっと少しだけ聴けるようになったと思う。それを未だショックを受けて、しまって、自分の中にとりこんで、言語化出来ていないのはしょうがない。自分がしてきた修行はあくまで内省的な物にすぎないから。自分の内省的な言葉が、反省が、感覚が外に向いていなかったからだ。

 言葉にすると言うことは、だから常に社会性をおびえている。

 このnoteに出した瞬間に、1pvついた瞬間に、人と繋がっている。そのつながりをどこまで大事にしながら、何を伝えられるんだろうか。そういうことに対して向き合っている作業が、修行が言語化なんだ。

 だから、タイトルの通り、言葉にするのは難しい。そういったものにあふれている。多様な価値観と直面する自分がいて、折れてしまうことも多いけど、立ち向かっていく事が大事なのだ。あなたと、友達になれるような自分でいるために、そしてあなたと友達になるためにだ。

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