冷やし中華いななき
小さな定食屋の店先に女がおり、その手には「冷やし中華はじめました」のノボリ。
店先にノボリを設置しようとしていると、若い夫婦が立っていることに気づく。
女 あ、いらっしゃいませ、すみません、今開店準備中なので少々お待ちくださいね
妻 あの、冷やし中華やってるんですか
女 え?あ、はい今日から
妻 やってるって、冷やし中華やってるって
夫 いやー、冷やし中華をやってる店があるなんて
女 えっ
妻 私たちどうしてもどうしても冷やし中華が食べたくて
女 あ、そうなんですか
夫 まさか、たまたま歩いてただけなんですけど、冷やし中華を生きてるうちに食べられるなんて
女 えっ
妻 ほんとだね
女 そんな珍しいですかね、冷やし中華
夫 いや、というか大丈夫ですか、冷やし中華はじめちゃって
女 えっ
妻 そうですよ、ノボリなんか出して
女 え、毎年出してますし、これもそんな珍しいもんじゃないですよ
夫 いやいやいや、だって冷やし中華は禁止されたじゃないですか
女 えっ
妻 やってる奴はモグリですよ
女 えっえっ
夫 政府に見つかりでもしたら国外追放モノですよ
女 ちょっと待ってください、言ってる意味がわからないんですが
妻 え、逆になんで知らないんですか
女 いや逆になんで知ってると思ってるんですか
夫婦、困惑する。
夫 え、本当に知らなかったんですか
女 はい
妻 えーっ
女 本当に知らないです、嘘だと思ってます私
夫 これを見てください
夫、スマホの画面を見せる
女 『冷やし中華密売の定食屋、逮捕 約200食を販売か』 え、なんですかこれ
夫 最近捕まった冷やし中華密売のニュースです
女 え、フェイクニュースですか
夫 フェイクニュースではないです
女 2ちゃんねるのふざけた書き込みとかでもなくて
妻 違います、あと今は5ちゃんねるなんですよ
女 いや知らないですけど
妻 あの、テレビとか観ないんですか
女 はい、テレビはあんまり…え、いつからですか、いつから冷やし中華が禁止されたんですか
妻 だいたい2週間前くらいですかね
女 どうして禁止されたんですか
夫 それが分からないんですよ
女 えーっ
妻 とにかくよかったですよ、今日私たちが来て
女 え、(ノボリを見て)これ出してたらまずいですかね
夫 ええ、すぐにしまった方がいいですよ
女 えー、せっかく今日からなのに
妻 そんなこと言ってる場合ですか
女 うーん
女、しぶしぶノボリを店の中へしまう。
女 え、でも冷やし中華を食べに来たんですよね
妻 はい、夏だし
女 でも食べたらあなたたちも共犯者ということになるんじゃ
夫 覚悟の上です
女 あなたの覚悟で私たちも犯罪者にされたんじゃたまったもんじゃないですよ
妻 まあまあ、だってもう材料も麺もあるんでしょう
女 そりゃ、今日から始めるところでしたから
夫 そしたら材料所持ですでに犯罪ですよ
女 そんな麻薬みたいな感じなんですか?
妻 食べなくても冷蔵庫の中にあるだけでダメですよ
女 そんなこと言ったらたまたま冷蔵庫に麺とキュウリと紅ショウガとハムとつゆが入ってたら全員ダメじゃないですか
妻 明確に冷やし中華を目的にして所持してたらダメなんですよ
女 理不尽すぎる
夫 まあ、ここで会ったのも何かの縁だし、せっかく用意した材料も勿体ないでしょ、捨てたら足がつくし、胃の中に入れちゃったほうが証拠隠滅できますよ
女 うーん、まあ、もう所持してるだけでダメだったらすでにダメなんでしょ
妻 そうそう、だから私たちに冷やし中華を食べさせてください
夫 このままここで話してても怪しまれちゃいますし、お店の中に入ってもいいですか
女 うーん…まあ、はい、とりあえずどうぞ
暗転する。遠くから人々の悲鳴が聞こえている。
【店内】
女が奥から冷やし中華を二食運んでくる。
夫婦が向かい合わせに座る席にそれを置く。
夫婦の近くには女の夫にあたる店主がいる。
女 お待たせしました、冷やし中華です
妻 わあ
夫 おいしそうですね
女 なるべく早めに食べてくださいね、他のお客さん来て見られたら嫌なんで
妻 でもどうせあんまりお客さん来ないんでしょう
女 そうですけど、人に言われるとムカつくな
男 それにしても冷やし中華が禁止されてるなんて知らなかったな
女 私、まだ嘘だと思ってるよ
夫 こんなことで嘘なんかつきませんよ
男 そう言われてもなあ、せっかく沢山仕込んだのに、全部ムダかあ
妻 いただきます
夫 いただきます
二人、食べる。
夫 ああ、おいしい
妻 おいしいね
男 ありがとうございます
夫 これが食べたかったんですよ
妻 嬉しいなあ
夫 人生最後の冷やし中華になるかもしれないと思うと、感慨深いですよ
女 嬉しいですけど、それはちょっと大袈裟じゃないですか
妻 いやいや、冷やし中華がこれから合法になる確証もないですから
男 まだ非合法っていう感覚がないんだけど
夫 マリファナみたいに一部の地域では合法になればいいんですけど
二人、食べていると、遠くから人々の悲鳴が聞こえる。
夫 あの、さっきから気になってたんですけど、なんの音ですか
男 ああ、悲鳴です
夫 それはわかるんですけど、なんの悲鳴ですか
妻 治安最悪ですね
女 治安はすごく良いですよ、車が通ってなくてもみんな赤信号はちゃんと待つし
夫 じゃあなんの悲鳴なんですか
男 この近くには遊園地があるんですよ
女 そのジェットコースターに乗ってる人たちの悲鳴が聞こえるんです
夫 へえ
妻 あ、だからお店の名前が『ぎゃー亭』っていうんですか
男 そうです
夫 あ、そうなんだ、てっきり般若心経かと
女 はらぎゃーてーじゃないですよ
男 遊園地がやってる時はいつでも悲鳴が聞こえてくるんです
夫 悲鳴を聞きながら食べる冷やし中華もオツなもんですね
風鈴の音。それと共に人々の悲鳴も聞こえる。
妻 オツねえ
夫 オツだなあ
女 オツですかねえ
男 もう慣れちゃったからなあ
夫 お二人、お若いですよね
女 はあ、まあ
夫 このお店は長いんですか
男 まあ、5年前くらいからやってるんで、そこそこ長いですかね
夫 立派だなあ
妻 ご結婚も早かったんですか
女 まあ、お互い調理専門学校を卒業してすぐ
妻 素敵ですねえ
男 そういえば私たちが出会ったきっかけも冷やし中華だったんですよ
夫 そうなんですか
女 言われてみれば確かに
男 夏の実習で冷やし中華をつくるんですけど、その時に同じ班だったんです
妻 へー
男 でも妻は卵が嫌いで、錦糸卵を冷やし中華に乗せるのを頑なに拒否するので班のメンバーからすごい反感を買って
夫 えー
女 お恥ずかしい限りです
妻 こんなに優しそうな奥さんなのに
女 当時は尖ってたもので
夫 あ、だからか、なんか違和感あると思ったら、この冷やし中華にも卵が乗ってない
女 お恥ずかしい限りです
男 僕が班のいさかいを収めたんですけど、それが功を奏したみたいで、妻といい感じになって
妻 あらー
女 お恥ずかしい限りです
夫 いいじゃないですか、青春って感じで
男 あの時は本当に大変だった、班のリーダーの勅使河原というやつが特に怒って怒って、
女 確かに、勅使河原くんは卵にこだわりがあったもんね
男 お二人はどちらから来られたんですか
夫 あ、国境を越えてきました
女 えーすごい
夫 審査がすごく大変でしたね
妻 新しく移住しようと思っていて
男 そうだったんですね
夫 この地域に来ることになって、冷やし中華を食べることをすごく楽しみにしていたんですけど
妻 運悪くこのタイミングで禁止されてしまって
女 なるほど、それでそんなに食べたがっていたんですね
夫 そういうことなんです
会話をしているうちに、やがて冷やし中華を食べ終わる。
妻 ああ、おいしかった
夫 ごちそうさまでした
男 いえいえ、喜んでいただけたならよかったです
夫 いやあ、幸せでした
妻 ええ、しばらくこのことを思い出して楽しくなってしまうくらい
女 それは本当によかった
男 なあ
四人、ニコニコしている。
笑顔のまま、沈黙が流れる。
女 あの、そしたら、
夫 はい?
女 あ、いやあの、そろそろ、
夫 ?
女 いやあの、だってほら、もう違法になってしまったんでしょう、冷やし中華は
妻 はい
女 あの、なので今日はもう店じまいをして、残っている材料を全て処分しようかなと
男 おい、そんな急かすもんじゃないよ
女 でも、もし見つかったら事じゃない
夫 (遮って)あの、ちょっといいですか
女 (驚いて)はい、
夫 冷やし中華、テイクアウトしたいんですけど
女 て、テイクアウト?
夫 はい
女 あの、うちは基本的にお食事の持ち帰りはできなくて、
夫 うちに子どもたちがいるので、その子たちにも食べさせてあげたくって
女 でもあの、違法ということなら、持ち帰るのは危険なんじゃ、ほら、もし万が一帰る途中に職務質問なんて受けたら、
妻 (怒って)夫がそんな怪しく見えますか
女 いやそういうわけではないんですけど
男 そういうことなら、特別におつくりしますよ
女 あなた、
男 いいじゃないか、どうせ乗り掛かった船だし
女 私は別に乗りたくないのよ、そんな怖い船
夫 ありがとうございます、子どもたちも喜びます
男 いえいえ、何人前ご用意すればいいんでしょう
夫 50でお願いします
男 ご、
女 50?あ、あの、50人もお子さんがいらっしゃるんですか
夫 (照れながら)はい
妻 (照れながら)お恥ずかしい限りです
女 いやあの、
夫 50と言っても妻は25回しか出産してないんですよ、みんな双子なんです
妻 お恥ずかしい限りです
女 あの、そんなことを聞いているんではなくて
男 50となると、ちょっと、
夫 無理でしょうか
女 無理というか、うん、無理ですよ、完全に無理です
妻 ええっ
女 50食なんて急に言われてもすぐに用意できないですし、そもそも今日のぶんは30食ほどしか材料を仕入れてないので、
妻 ああ、客が来ないから
女 さっきからなんなんですかあなたは
男 ご協力できればよかったのですが、ちょっと難しいかもしれません
夫 そこをなんとかできませんか、子供たちは冷やし中華をまだ食べたことがなくて、これが最後のチャンスかもしれないんです
男 うーん、
女 あの、無理なものは無理ですよ、そもそも違法なところを無理を言って提供したのに、さすがにこれ以上はちょっと、
男 そうだ
女 え、
妻 何かいい方法が?
男 お子さんたちは食べざかりですか?
女 は?
夫 いや、2割3分5厘というところですね
男 そうか、それなら
女 あなた、何を言ってるの?
男 全てハーフ&ハーフで提供します
女 あなた?
夫 なるほど、そうすれば30食から倍の数を作れるし、
妻 子供たちも残さず食べられます
女 あの、そういう問題じゃ、
男 冷やし中華のハーフ&ハーフを作ったことがないので、できるかどうか分かりませんが…一か八か、やってみます
女 いや、半分にするだけでしょ、というか勝手に話を進めないでよ、
夫 本当にありがとうございます、このご恩は一生忘れません
女 あの、
男 こうしている時間も惜しいですし、さっそく準備に取り掛かります(厨房へ去る)
妻 よろしくお願いします(深々と頭を下げる)
女 ねえ、ちょっと待ってよ!…ああ、もう!
夫 申し訳ありません、我々のワガママで
女 (夫婦を睨み)…本当ですよ、もし…もし、このことが知られたらどうなるんですか、これのせいで私たちは逮捕されるかもしれないんですよ
妻 はい
女 はいじゃないですよ、本当にいい迷惑ですよ
妻 すみません、いつかこのお礼は致しますので
女 いりません、もし警察に見つかったら全部あなたたちの指示ってことにしますから…(項垂れる)
沈黙。悲鳴が聞こえる。
夫 (遠くを見つめながら)昔、僕たち夫婦はあの遊園地に行ったことがあるんです
女 え?
夫 まだ世界が分断されていなかったころ、僕たちがまだ恋人同士だったころ、あの遊園地に行きました
女 …
妻 そうか、そういえばこの辺だったかもしれないわね
夫 僕たちもその時、できたばかりのジェットコースターに乗ったんです、僕は妻にカッコいいところを見せたくて、本当はジェットコースターがすごく苦手だったけど、悲鳴を上げないように必死で我慢しました
妻 そうだったの…私は夫のそんな気もしらずに、キャーキャー喚いていました
夫 でも、今思うと、カッコつけずに僕も思い切り叫べばよかった、それが一番ジェットコースターを楽しむ姿勢だったんじゃないかと思うんです
女 …
夫 僕は今でもその時のことを後悔しています、だから何かを我慢するのはもうやめにしたいんです
妻 あなた…
女 …え、何が言いたいんですか?
夫 え、
女 だから私たちに無理を言って冷やし中華を50食も作らせようって言うんですか、自分が我慢するのが嫌だから
夫 …そうです
女 そんなの、ただの自己中ですよ
妻 (怒って)夫のどこが自己中なんですか
女 あなたは黙っててください
夫 返す言葉もありません
女 大体、人に迷惑かけてまで食べる冷やし中華なんてきっと美味しくないですよ
夫 …
妻 …でも、あなただって昔、調理実習で人に迷惑をかけたんでしょう
女 え?
妻 卵が食べたくないからってワガママを言って、それだって立派な自己中じゃないですか
夫 おい、やめとけ
妻 その時の冷やし中華は、美味しかったんですか?
女 …
沈黙。すると、店の入り口のドアが叩かれる。驚く3人。
女 は、はい
警官 すみません、この近くの署の者です、少しよろしいでしょうか?
3人、目を合わせる。
女 え、えっと、すみません、ただいま取り込んでおりまして、
警官 そうですか、そうしましたら急ぎで済ませますので、お話だけよろしいでしょうか
女 あ、あの、
妻 ワンワン!ワンワン!ワオーン!
夫 (察して)ワンワン!ワンワン!
女 (察して)あの、うちはちょっと犬がおりまして、凶暴ですので、その、
警官 そうですか、でも大丈夫です、私は犬が大好きなので、
妻 ガルル!ガルル!
夫 ガルルルルル!
女 あの本当に、噛みつきでもしたら大変なので、
警官 大丈夫です、私は本当に犬が大好きなので、
警官が入ってくる。
警官 (店内を見渡し)犬は?
妻 …逃げました
警官 え、飼い犬ですよね、大丈夫なんですか
女 え、ええ、大丈夫です、そのうち帰ってくると思うので、
警官 そうですか
夫 (小声で妻に)猫のほうがよかったんじゃないか?
妻 だって私、犬の鳴きマネしかできないし、
女 あ、あの、なんのご用でしょうか
警官 (女の服装を見て)こちらのお店の方ですか?
女 は、はい
警官 冷やし中華禁止条例、ご存知ですね?
女 …はい
警官 いま近辺の飲食店やご自宅を回って、材料の所持、冷やし中華の調理がないかの見回りをしています、簡単に厨房や冷蔵庫の確認をさせて頂いてもよろしいでしょうか?
女 えっと、
夫 このお店では冷やし中華を出してませんよ
警官 あなた方は?
妻 私たちは客です
警官 そうですか、私はこのお店の方に聞いているんです
夫 でも、本当にこのお店では冷やし中華を出していないんですよ
警官、机の上の空いた皿に気づく。
警官 これは?
女 あ、えっと、これは、
警官 このつゆはなんのつゆでしょうか?(匂いを嗅いで)酸っぱいですね
女 …
妻 それは冷製ラーメンの残りです
警官 冷製ラーメン?
妻 はい、冷製ラーメンは冷たいラーメンです
警官 …皿のところに、小さくハムやきゅうりのような欠片が見えます
妻 冷製ラーメンにはハムやきゅうりも載ってるんです
警官 …そうですか
妻 はい、ですからこのお店では冷やし中華は出してません
警官 …そうですか
厨房から男が椀に入った冷やし中華を持って出てくる。
男 あの、お持ち帰りの時、椀の数にも限りがあるんで冷やし中華を袋詰めにしてもいいでしょうか
警官 …
女 あ、あの、あ、これは、
警官 今、冷やし中華と言いましたよね?(男から腕を取り上げて)これはなんですか?
女 …
警官 事実を隠蔽したならもっと罪が重くなりますよ
女 …はい、それは…冷やし中華です
警官 …やっぱり
女 …
夫 あの、その冷やし中華、僕たちのせいなんです
警官 え?
夫 僕たちが無理を言って、このお店につくってもらったんです
妻 私たちが彼女をほとんど脅したような形で無理を言って提供してもらったんです
警官 …それは本当ですか?
女 えっと、
夫 ですから逮捕されるなら僕たちのほうです
警官 …脅しでもなんでも、冷やし中華づくりに協力した時点で冷やし中華調理ほう助という罪に問われます
妻 そんな、彼女は本当に悪くないんです
警官 何を言おうと、罪は罪です
女 …私は、私の意志でこの人たちに冷やし中華を提供しました、
夫 奥さん、
女 たくさんのお子さんが帰りを待ってるんです、見逃してあげてくれませんか
警官 言いましたよね、罪は罪です
女 …
警官 ともかく、こちらの品も押収させて頂きます、…?(手に持っている冷やし中華を覗き込む)
妻 ?
警官 …この冷やし中華、卵が載ってない
女 は、はい、
警官 ちょっと失礼、(厨房へ駆けていく)
夫 ど、どうしたんでしょうか、
警官、戻ってきて、
警官 …冷蔵庫にも卵がない、
男 はい、うちのメニューには卵を使ってないんです、妻が卵嫌いなもので、
警官 …(佇まいを直して)私にはあなたたちを逮捕することができません
女 !え、なんでですか、
警官 このケースは非常に特殊なので、あまりこのことが世間に周知されることはなかったのですが…政府が禁止を定めた『冷やし中華』にはきちんとした定義があるのです
夫 というと?
警官 『冷やし中華』という状態を満たすには「ハム、きゅうり、卵、麺」が最低限揃っていることが条件です
男 !つまり、
警官 卵が載っていないとこれが冷やし中華であるとは認められない、ということです
女 よ、よかった、(その場にへたり込む)
警官 まだ禁止条例が出て日が浅いので、今後、卵が載っていなくても規制される可能性もありますが…、いや、それはないかもしれません…
妻 なぜですか?
警官 今回の禁止条例を定めたのは環境省のトップである勅使河原環境大臣なのですが、彼は冷やし中華には卵だけは絶対必要だと仰っているのです
男 勅使河原…勅使河原ですか?
警官 はい
女 …
警官 しかし、あなた方の話だと明確に冷やし中華をつくるという意思はあったようです、ですから今回は厳重注意に留めましょう
男 はい、すみませんでした…
警官 二度目はありませんからね、それでは、本部に報告に参りますので、私はこれで…(店を出る)
少し安堵。
妻 (女に手を差し伸べる)立てますか?
女 いえ、大丈夫です…(立ち上がって)ああ、一生分の汗かきました…
妻 あの、本当にありがとうございました(頭を下げる)
女 …
妻 私たちを庇ってくれて
女 別に庇ったわけじゃありません、あの場で嘘をつくのが苦しかっただけです
妻 もし見つかったら私たちの指示ってことにするって言ってたのに、あなたはそれをしませんでした
女 …
妻 ありがとうございました、本当に(再び頭を下げる)
女 …もういいですよお礼は、それよりも早く出て行ってください、冷やし中華持って
妻 はい
男 いま袋詰めにしたものを持ってきますね(厨房に行く)
妻 人に迷惑かけて食べる冷やし中華もいいもんでしょ
女 え?
妻 あなたが調理実習で人に迷惑をかけたおかげで、私たちは救われたんですよ
女 …でも、私が調理実習で人に迷惑かけなければ、私が卵嫌いじゃなければ、勅使河原くんが冷やし中華を規制することはなかったのかもしれない、
妻 でもその時、あなたはどうしても卵の載ってない冷やし中華が食べたかったんでしょう、
女 …
妻 ちゃんと自分の欲望に従ったんです
女 …
夫 実は僕たち、嘘をついてました
女 え?
夫 ここに移住しにきたと言ってましたが、本当は亡命しにきたんです
女 え、
妻 私たちの住んでる地域は本当に規制が厳しくて、とてもこれ以上は生活できなくて、
夫 1世帯に子どもが51人以上になると、罪に問われるんです、ですが、(妻を見て)
妻 (腹をさすって)私のお腹にはまた新しい命が宿りました、堕すなんてしたくないし、ですからもう、逃げるしかなかったんです
女 行き先はあるんですか?
夫 今のところ決まっていません
女 …
夫 早めに落ち着ける場所を探さないとですね
女 (迷っているが)…あの、よかったら、
妻 (止めて)いいえ、けっこうです
女 …
妻 こんなにご迷惑をおかけしたのに、これ以上なにかしていただくわけにはいきません
夫 冷やし中華をつくって頂けただけで十分ですよ
女 でも、
妻 そりゃ、これからどうするかは決まってませんけど、とりあえずは冷やし中華食べながら考えます
女 …
妻 大丈夫、私たちだって自分の欲望に従ってるんですから
男、パンパンになった袋を持って厨房から戻ってくる。
男 お待たせしました
夫 (受け取って)ありがとうございます
妻 じゃあ、私たちはこれで、子どもたちも待っていますから(出て行こうとする)
女 あの、待ってください、
女、奥からチケットの束を持ってきて、夫婦に渡す。
夫 これは?
女 遊園地の招待チケットです、
妻 …
女 近所の店に毎年たくさん配られるんです、でも私たちは別に行かないし、ものすごい貯まってて、なので、差し上げます、
夫 …
女 53枚ありますから、お二人と、お子さんと、新しく産まれてくるお子さんと、みんなで行けますから、だから、必ずお元気で、またうちに食べにきてください、
妻 …ありがとう
女 貸し切り、いつでもできますから
妻 はい
女 お客さん、来ないので、(笑う)
妻 (笑う)…あ、でも
女 ?
妻 あと1枚もらってもいいですか?
女 は、はい(もう一枚持ってきて渡す)
妻 たぶんきっと、次産まれてくるのも双子だから、54枚ないと
女 …最後まで本当に厚かましすぎますね
妻 言ったでしょう、自分の欲望に従ってるんですよ
女 …そうですか
夫 遊園地に行ったら、必ずジェットコースターに乗ります、そしたら今度は思いっきり叫びます、お二人にも聞こえるくらいに
男 はい
夫 じゃあ、本当にもう行きます
妻 本当に本当に、ありがとうございました
二人、深く頭を下げ、店を出ていく。
男と女、店の入り口をしばらく見ている。
男 …今日はもう店じまいしようか
女 …そうだね
男 …今から遊園地でも行こうか
女 え、
男 チケットまだ余ってるよね?
女 うん、いっぱいある
男 行ったことなかったし、
女 うん
男 行こうか、
女 うん
男 …ジェットコースター、乗る?
女 絶叫系苦手だけど、乗ろうかな
男 めいっぱい叫んでたら怖いのなんて忘れるよ
女 (笑って)そうだね
二人とも、着けていたエプロンなどを外しながら、奥へと去る。
その間に明かりは暗くなっていき、暗転する。
暗闇の中、ジェットコースターに乗る人々の悲鳴が響き渡っている。
それはやがて大きくなり、増幅し、空間を包んで、そして消えていく。
終幕。
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※こちらの戯曲を2021年1月30日にオンラインで開催された日本劇作家協会 月いちリーディングにて読んでいただきました。
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