親子や夫婦、パートナー関係における支配、共依存
支配する人、される人
世の中にはこのふた通りのタイプの人がいると思う。
私はきっと支配される側、だ。そして、人に依存しやすい。依存しやすいから、支配されるし、支配されるから依存してしまう。悪循環にハマりながら生きてきたな、と思う。
母親には逆らえず、機嫌をとり、どうしたら機嫌を損ねないか、日々伺っていた。
これをすれば喜ぶというのがわかれば、必死になってそれを続けた。
家庭内には問題が絶えなかったのだが、唯一私が学校で何か成績を残したり褒められたりするときは明るい話題となって一瞬でも空気が和らいだので、私は一生懸命優等生でいようとした。
18の時に意を決して世帯分離したことで母親の支配からは逃れたはずだったが、元夫も、支配する側の人間だった。
気に入らないことがあると物に当たり、壊し、怒鳴ったり、無視や、さらに無言の説教(と私は呼んでいる)という、その場から逃げることも話し合うことも許されずひたすら不機嫌な相手と対峙し続けるという精神的な暴力を日々受けていた。
私自身がこれはもう立派な精神的DVだったな、と気づくのは、結婚15年を過ぎ、不倫されて、半年ほど経ってようやくわかったことである。
なぜ気づかなかったのか。
答えは簡単だ。
それが当たり前の人生だったからだ。
子どもにとって親というのは絶対的な存在だが、私の場合は、従わなければあらゆる意味で危険を被るという環境で育ってきた。
「お前のそれはただの我儘だ。」と日々言われ、一体甘えるとは何なのだろうかと、甘えるということを知らないまま大人になった。
今、子どもたちが黙って抱きついてきたり、◯◯が食べたいなー、とアピールしてきたり、ママ、ママー!と言ってくれるこれが「甘える」なんだなと、子どもたちから教わったようなものだ。
話が逸れたが、とにかく私は常に誰かの顔色を伺い、相手の機嫌をとって生きてきたのだ。
それゆえに、「自分を生きる」だとか、「自主性」という言葉はあまりしっくりこないことが多かった。何かに取り組んでも、あなたは他人事ね、自分ごととして考えられないからダメだ。未熟だ、と言われることも多かった。
さて、今現在の私はどうかというと、至極穏やかに生活をしている。
今年の春まではとあるコミュニティに属していたのだが、実はそこでも支配型人間の被害に遭ってしまい、いまだに執念深く攻撃を受けているが、随分と酷い扱いを受けたおかげで、「私はもう誰にも従わない。誰にも酷いことを言われて良いような人間ではない。」と気づくことができた。
時間も労力も金銭的にも搾取され、半ば無理やり逃げ出すようにして、自分を守ることができた。
渦中にいる時は必死だったので、気づかないのだ。
「私のために言ってくれているんだから。」「できない自分が至らないだけだから」と、必死になって「やる気を出すためには」とか、「ゼロリセット思考」だとかを検索しまくって、無理やりやる気を出そうと足掻いてみた時期もあった。
足掻いて足掻いて、毎日悩んで行き着いた結果は、「自分が辛くなったり心がギュッと苦しくなるような人や物事からは離れていい。」という結論だった。
形としては逃げ出したような物だったとしても、それは逃げたのではなく、「自分を守るための選択をした」という立派な決断だったのだ。
こんな記事を読んでくれている人はもしかしたら、日々自分のことを責め続け、どうしたらもっと立派な人になれるか、どうしたらちゃんとできるか、悩んでいる人かもしれない。
そしてそんな人が読んでくれているとしたら、今日はこれだけ伝えたい。
自分を責めて思い悩んで、どうしようかと模索している今のあなたそのものが立派なんだと。
それ以上、あなたを責めないであげてほしい。
誰だって、幸せになる権利があるし、幸せになれる。
小さな幸せを数えてみてほしい。そして、迷った時は、自分の心が喜ぶ方を選択してほしい。
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