ルサンチマンからのカタルシス
例えば、「名探偵コナン」の江戸川コナンは17歳の中身ではあっても、見た目は6歳で他の人達には肉体的には圧倒的に不利です。周りより視野が低いし眼鏡をかけているので視界も限られています。その状態から前半は対象の観察に使い、後半で連れ添っている「眠っている大きい男の人」をありよに自分の推理を論じて相手を瓦解させます。
「カメレオン」の矢沢栄作という主人公も高校生の体躯としては明らかに不足していますし、正面を切った戦いも非常に不利です。だから、最初から正面から攻めずに同じように前半を観察に使い、後半で周りの事物を利用して相手を打倒します。ただ、年代的にはカメレオンの方が先ではあります。今アニメが放送されている「逃げ上手の若君」も逃げ足が速い主人公は地理を熟知している状態で相手を打倒します。
漫画や映画というものは画面の中に逃げているという状態がある以上、視聴者や読者にはルサンチマンという画面の中に逃げた相手という強者に対する伝わらない怒りというのがあります。その部分を上手く描くことが出来たのは荒木飛呂彦先生の「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズと秋本治先生の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だと思います。私見ではありますが、ジョジョの奇妙な冒険の第一部の主人公は「キン肉マン」のゆでたまご先生がモデルで敵役は荒木先生自身をモデルにしていると思います。ゆでたまご先生の「家」に対して荒木先生が「あがりこんでやろう」というのが第一部のストーリーで、こちら葛飾区亀有公園前派出所は警察官という昭和の時代ではいじめっ子の象徴であった警察官が今で言う副業にかまけて本業をおろそかにして失敗するという「シャーデンフロイデ」を読者側の「カタルシス」として描いたのが長く続けることが出来た要因ではないかと思います。
そういった読者という受け手のネガティブな感情を否定でしか判定していないのがインスタグラムやフェイスブックのような海外製のインターネットサービス>SNSの見落としではないでしょうか。そうではあっても教育や教練の舞台では「お互いが平等公平な状態で対向するから名作は生まれる」と言うでしょうし、SNSは「彼らがSNSの世界で華やかであるのは、そのための努力を裏でしてきたから」と言うコンセンサスの共有を主張するでしょう。
しかし一方で成年漫画が海外でも評価されるようになったのは、成年でないと行えない行為をとがめられるリスクを背負って人前で行うという勇敢さが評価されたからであります。結局、教育教練とSNSの世界は「受け手を自らのかごに収めているだけ」なのでしょう。
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