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逆立ちした人間


半年にわたる猟期が終わり、
エゾシカを追いかける日々が一段落すると、
いつも、すぐに植物のことが書きたくなる。
狩猟シーズンが終わると同時に
山菜採りの季節が幕を開ける、
ということもあるのだが、
それだけではない。
私は動物同様、植物も大好きだからだ。

20年以上前のこと。
森を自分できちんと案内できるようになりたいと、
樹木・林業・レクリエーションなどについて猛勉強をして
「森林インストラクター」なる資格を取った。
悲しいかな、多くについては忘れてしまい、
また色々と、学び直したいと思っている。
そして、植物に対する興味は、
歳を重ねる事に増すばかりだ。

狩猟の面白さは、動物を狩ることだけではなく、
彼らの目線、彼らの気持ちで
世界を見た時の再発見にこそある。
人間がどれだけ無力なくせに、
驕り高ぶった、勘違いな存在であるのか。
少し視点を変えただけで、
自分の考え方、果ては生き方までもが変化する。
その変化は、私の心の中で、
とても良い方向に作用している。
人間と野生動物以上に、人間と植物の隔たりは大きい。
一見、知性も何もなさそうな植物のことを知れば知るほど、
思いもかけない彼らの偉大さに感じ入り、
自然に対して謙虚な気持ちになれる。
更には、高度に発展した人間社会の弱点や、
解決策さえも見えてくるのだ。


植物がどれだけ優秀な存在であるか、
まずは、バイオマス(生物量、簡単に言えば重さ)について。
なんと、地球上の全生物の重さのうち、
99%以上が植物だというから驚きだ。
生存競争における勝敗の基準を物量におくなら、
まさに植物こそが地球の覇者。
人間などは足元にも及ばない。
彼らの成功の秘密の中に、必ずや、
人間が生きるヒントも隠されているに違いない。

古代ギリシャでは「植物は逆立ちした人間である」と
例えられたという。
文献により、この言葉は
かのアリストテレスが言ったものとされていたり、
デモクリトスの言葉であるとするものもあり、
私にはどちらが正しいのかは分からない。
その意味するところも、
「栄養吸収器官である
 人間の口は体の上部にあるが、
 植物の根は下にあり、
 生殖器(植物では花)も
 人間と植物では位置が逆」
ということを表している、とするものや、
「一見動けないと思われる植物も、
 人間同様に動いているのだ」
ということを主張している、という解釈もある。
いずれにせよ、昔の賢人たちは
人間と植物を遠く隔たりのある存在とは
捉えていなかったようだ。

我々の感覚的な理解に反し、
動物と植物の共通点は多い。
例えば知性。
知性、という言葉の定義にもよるが、
最近は植物に知性があるとする説を唱える人も多い。
生存するために様々な作戦を練り、
行動できる能力を知性と呼ぶなら、
確かに植物にも知性はあると言えよう。
先ほど書いた通り、バイオマスの観点から見れば、
植物の方が、動物よりも優れた生存戦略を持つ、
つまりは知性が上回っている、
とも言えるのではないだろうか。

驚くべきは根の成長点である先端、
根端と呼ばれる場所で行われている電気活動だ。
1ミリ前後の根端は、
重力、光、圧力、温度、湿度、磁場、
化学物質、有害物質、音の振動など
多くの変数を常に計測しつつ、
活発に電気信号を作りだしている。
これは、動物の脳内のニューロンが作りだす
活動電位と非常に似ているものだという。
根端は小さな植物でも1500万以上、
大きな樹木に至っては億単位で存在する。
それら全てが協力しあうことで
植物は、必要な栄養分や水分などを
バランス良く吸収する。
植物が一個体の体内で行うこの複雑な連携の見事さを
インターネットに例える学者もいるほどだ。

植物はコミュニケーション能力も高い。
何も言語だけが情報伝達手段という訳ではない。
鮮やかな花の色や、甘い果実の香りで
遠くの動物を誘き寄せ、受粉や種の運搬に利用する。
あるランは、姿形から、発散するフェロモンまで
メスのハチを見事に真似し、オスのハチを夢中にさせる。

動物を利用する方法は他にもある。
キャベツは、チョウやガの幼虫に葉を食べられると、
天敵である寄生バチを呼び寄せる化学物質を発散する。
幼虫の種類によって、天敵となるハチの種類も異なるため、
化学物質の調合を変えることまでするという。
昆虫による摂食傷害を受けたときに放出する化学物質は
「悲鳴物質」とも呼ばれる。
身の危険を感じ、悲鳴を上げるとなると、
植物には感情がある、とも考えられる。


しかし人間を含む動物と圧倒的に違う部分もある。
体の構造だ。
植物に動物のような脳はない。
しかし彼らは、彼らなりに考えるし、行動もする。
肺がなくても呼吸し、目がなくても光を感じ、
口がなくても栄養や水を取り入れることができる。
動物のように、ある機能が一箇所に集中するのではなく、
全体に分散しているのだ。
この体の作りは、モジュール構造と呼ばれている。
動物の場合は、脳が、心臓が、
やられてしまったらおしまいだが、
平気で生きていくことができる。
人間社会に置き換えて考えると、
植物は、昨今盛んに叫ばれる地方分権社会を
ナチュラルに体現しているのだ。
日本で言えば、災害などで
東京が甚大な被害を受けて機能を停止した場合、
国内全域がパニックに陥るだろうが、
植物をお手本とした社会構造を作っておけば
そうはならない。

再生能力も凄まじい。
尻尾を再生するトカゲはいるが、
尻尾からトカゲ本体が再生されることはない。
しかし植物は、種類によっては枝を地面に刺すだけで
新しい個体が元気に成長してしまう。
国家から分断されても、地方が元気でいられる、
そんな社会が実現すれば、
大都市ばかりに人口が集中する歪みも
解消できるだろう。

利他の概念からも考えてみる。
腕をもがれて平気な人間はいない。
しかし、植物は自分の体、それも相当部分を
動物に食べられることを、最初から戦略に織り込み済みだ。
むしろ、わざわざ食べられるために
エネルギーを消費してまで甘い果実を作りだす。
貪欲に貯蓄を増やすことに執念を燃やす人間には
是非とも見習ってもらいたいものだ、と
自戒の念を込めて記しておきたい。


「逆立ちした植物」と例えられた私たち人間は結局、
どう逆立ちしても、植物には敵わないのである。



※参考文献
植物は <知性> を持っている
ステファノ・マンクーゾ/アレッサンドラ・ヴィオラ著


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