Review 2022-23


そのバーを見つけたのは、まだ猟期が始まる前。

東京に引越して半年程が経ったある夜の遅くに、

犬の散歩をしている時のことだった。


暗い路地に、ぼんやりとした温かい灯りが

浮き上がって見える。


エントランスにはピンク色のブタの置物が鎮座し、

その首から

「ワンちゃんは人間より歓迎です」

と書かれた看板がぶら下がっていた。


大きなガラス越しに、店内を覗き込む。

オーナーの女性と、バーテンダーは若い男性。

私と犬の存在に気付き、

にこやかに手を振りながら迎えてくれ、

店内を案内してくれた。

天井は吹き抜けのように高く、照明は控え目だ。

長大なカウンターの脇には、

革張りのソファが並んでいる。

居心地の良さの中に、微量の切なさが散りばめられ、

何だか無性に、郷愁に駆られる。


その時は持ち合わせもなく、

私たちは後日の来店を約し、帰路についた。




以来、いい酒が飲みたくなると、

その店に行くようになった。


6メートルにもなるカウンターに

余裕を持って並べられたハイスツール。

犬と隣り合って座る。

私には、上質なアイラモルトか、すっきりとしたカクテル。

犬には、新鮮な水と、

バーテンダーお手製のドライフルーツが振舞われる。


家から歩いて10分足らずの立地でありながら、

ノスタルジックな空間と、そこに流れるゆったりとした時間は

私の心を別世界へと運んでくれる。

“現代社会”という名の

煩わしいスーツを着せられてしまった人間にとって

このバーのような秘密のポケットを持っておくことは、

実はとても大事なことのように思える。



しばらくすると、夜の散歩の度に

犬はその店に行きたいと

私を力強く引っ張るようになった。


店への道筋は完全に記憶している彼だが、

開いているのが木曜から月曜までであることまでは

理解できていない。

閉店日には、

降ろされたシャッターを前脚で引っ掻き、

首を傾げてじっと待つ。

そして顔を上げ、

何故開いていないのだと、

恨めしそうな涙目で私を見つめる。

私は肩をすくめ、犬の隣にしゃがみ、頭を撫でてやる。

しばらくすると彼は諦め、

名残惜しそうに何度も振り返りながら、

家に向かって歩き出す。



数日後、彼は雪辱を果たし、

私たちはまた仲良くカウンターに肩を並べる。


そうした日々を繰り返しながら、

我々は徐々にオーナーとバーテンダーと

懇意になっていった。


弱冠27歳のバーテンダーMは、

元々狩猟に興味があったらしい。

鹿撃ちや熊撃ち、カナダでの体験などについて話すと、

いつも食い入るように聞いてくれていた。

やがて私のSNSを全てチェックするようになり、

遂には自分でも狩猟がしたいと言うようになった。

そして驚いたことに、

本当に銃の所持許可を取得してしまった。




2023年 3月12日。

今期最後の狩猟。

まだ銃は持っていないが、

やる気は満々のMを同行者に選んだ。

更にもう1人、

ヘラジカ猟に興味があるとコンタクトしてくれた

若い女性も参加することになり、総勢3人。

我々は夜明けを待たずに、氷点下の気温の中を歩き始めた。


この前日にも、私は同行希望の男性2名を帯同し、

同じポイントに入っていた。

しかし、鹿に遠くから気付かれて逃げられてしまい、

手ぶらで下山することとなった。

2日連続で同じ場所を歩くことに躊躇いも覚えたが、

朝一番の時間は、比較的見つけ易い、

草を食べている鹿を狙いたい。

そして、開けた草地があるポイントは

私が知っている限りではここしかない。

再度、その草地にアタックをかけると決めた。


前日、なぜ獲れなかったのかを考える。

歩き出しが遅すぎたことが、最大の原因に思えた。

発砲が許されているのは、日の出から日の入りまでだ。

いつ鹿が出てもいいようにと、夜明けと共に山に入ったが、

一番鹿が出るポイントに到達する頃には

既にかなり明るくなっていた。

また、真後ろから朝日を浴びることも、

大きなディスアドバンテージとなった。

進行方向に向かって長い影が伸びてしまい、

その影の動きで、人間の存在を悟られてしまうのだ。

そこでこの日は、前日より30分早く歩き始めた。

発砲して良い時間帯に、一番いいポジションまで

到達しておきたい。

もしその前に鹿に出会ってしまったとしても、

単に見逃せばいいだけのことだ。




前日同様、風は全く無い。

静まり返った山に、枯れ葉を踏む足音が響きわたる。

どんなに注意深く歩を進めても、消し去ることはできない。

だから私は、可能な限り自分の足音を

鹿のそれに似せるように心掛けている。


まず、最も基本的な部分でいうと、

人間の足は2本、鹿は4本だ。

私は大概の場合、両手にストックを持っている。

急坂を登る時のサポートと

射撃の際に銃の先台を安定させるためだ。

だから鹿と同様、4つの支点で体重を支えている。


形状を比べると、鹿の爪先はスリムな蹄となっている。

歩いても、サクッ、サクッと短く小さな音しかしない。

私が、先端が細いストックで、落ち葉を突く音は、

鹿の足音とあまり変わらない気がする。

問題は、鹿に比べて圧倒的に大きい人間の足裏だ。

鹿が落ち葉を踏む時と、音量や音質が全く異なる。


自分の足音に、注意深く耳を傾け、更に分析を進める。

すると、鹿とは大きく違う特徴があることに気付く。

人間は、まず踵から着地し、

土踏まずから母指球の方に体重が移動してゆく。

踵をついた瞬間は点で落ち葉を踏む音。

続いて、体重が母指球に到達するまでミシミシと音量が上がってゆき、

最後に軽く爪先が落ち葉を蹴る。

この、一定の長さに加えて

音量と音質の変化を併せ持つ足音は、

人間に特有のものだ。

鹿にとっては、違和感そのものに違いない。

どうやって解消したものか、と考える。


我々の足裏が、点ではなく面であることを変えるのは、

物理的に不可能だ。

なので、できる限り真っ直ぐに地面を踏み、真っ直ぐに足を上げる。

1回の足音が立てる長さを短くし、音質の変化も抑える。

コツは、狭い歩幅で歩くこと。

大股で歩くと、

どうしても踵から母指球への体重移動が発生してしまう。

そして、ズカズカと一定のペースで歩かず、

数歩進んでは止まる。

周辺を凝視しては、耳を澄ませる。


曲がり角や尾根に差し掛かった時など、

一気に視界が開ける要注意ポイントでは、

爪先立ちになり、

尚且つ、ストックにかける体重を増やす。

できるだけ均等な重量が、4つの点にかかるようにする為だ。

そうやって山を歩くと、

何だか随分と、自分の足音が鹿に似てきた気がする。

果たしてこの工夫によって

本当に鹿の耳を誤魔化すことができているのかは分からない。

しかし、あらゆる可能性を考え抜き、

兎にも角にもやれることは全部やってみる、ということ自体は

狩猟の基本スタンスとして正解であるはずだ。




後続の2人も、息を殺してついてくる。

辺りが徐々に明るさを増し、

発砲可能な日の出の時間を迎えた頃。

我々は最初の急斜面を登り切り、

なだらかなアップダウンを繰り返す

草地に到達していた。


大地の盛り上がりを慎重に超えてゆく。

それを繰り返すこと数回。

草地の端に、白い丸が見えた。

鹿の尻尾。

思い描いていた通りのシチュエーションだ。

その鹿は、我々に背を向けて、1頭だけで草を食べている。

まだこちらには気付いていない。

しかし距離が遠すぎる。

このまま撃っても当たらない可能性がある。

それならまずは、山の中で鹿がどのように見えるのかを

Mに体感してもらおう。

ジェスチャーだけで、

身を屈めて音を立てずにそばに来るよう、指示する。

ジリジリとMが近付いてきた。

鹿を指差すと

目を見開き、大きく頷いている。


不意に、鹿が頭を上げてこちらを見た。

気付かれた。

仕方がない、次の鹿を探そう。

あの鹿が単独でないと仮定すると、

群れの残りはどこにいるのだろう。

草地の右側の森を、上からそっと覗いてみようか。

次なる作戦に思案を巡らせていると、

豈図らんや、

鹿が再び頭を下げ、草を食べ始めたではないか。

姿勢を低くして座り

身じろぎひとつしない我々を、

岩か何かだと思ったのだろうか。

何たる僥倖。


ゆっくりとザックを背中から下ろす。

鹿は緩やかなV字を描く窪みの反対側の斜面に居て、

我々が身を隠すことができるものは何もない。

人間の動きや音を認識したと同時に

あっという間に姿を消してしまうだろう。

同行の2人に動かないように合図し、

銃だけを持った私は這うように前進を始めた。




食事中の鹿は、音に疎い。

草を噛み千切る音が

耳のすぐそばで鳴っているからだろう。

私は、鹿が地面に口をつけている間に進み、

頭を上げた瞬間に止まる。

鹿の瞳は横長で、視界は横に広い。

そっぽを向いてはいるが、

前方しか見えない私と違って、

相当に広い角度が見えているはずだ。

鹿が口に入れた草をしばらく咀嚼し、

再び頭を下げるまでは完全静止。

私は単なる岩なのだ、と自分に言い聞かせる。


圧倒的に人間に不利ではあるものの、

鹿にとっては命が懸かった

“だるまさんが転んだ”が

張り詰めた静寂の中で展開される。


どのくらい時間が経ったのだろうか。

ようやく鹿が射程距離に入った。

6年にわたる狩猟の中で

数回しか経験したことのない、

伏射の姿勢をとる。

完全に腹ばいになり、銃を地面に置いて安定させる。

普段なら、藪が邪魔で鹿が見えなくなってしまう為、

開けた草地ならではの射撃姿勢だ。

鹿を完全に照準の中に捉える。

ブレは全くない。

絶対に当たる。

確信を立証するように、引き金を引く。

深閑とした大気を銅の礫が切り裂き、

鹿はその場で前のめりに倒れた。




もし鹿が獲れた場合、

止め刺しはMがすると事前に決めてあり、

彼にナイフを持たせてあった。

胸に入れたナイフを抜くと、

熱い血がMの手を濡らしてゆく。

やがて鹿の瞳孔は満月のように開いた。


まだ枝分かれしていない角。

1歳のオスだ。

その頭をよく見て驚いた。

上顎が右に大きく捻れているのだ。

下顎と全く噛み合っていない。

怪我でここまでの変形が起きるとは考えられず、

生まれつきのものだろうと推察した。


きっとこの顎では、

満足に草を食べることはできなかっただろう。

普段は群れていることが多い鹿だが、

何故かこの子は1頭だけで草を食べていた。

群れから仲間外れにされたのか、

或いは空腹を満たすのに時間がかかるため、

自分だけ残って食べ続けていたのか。

いずれにせよ、その短い一生は

辛い時間の連続であったことだろう。

それでもここまで生き延びたことに

深い敬意を表しながら、

肉の一片たりとも残さぬように解体した。

Mが皮も鞣したいと申し出たことにより、

穴を開けないように丁寧に毛皮を剥いだ。




途中で腹が減った。

火を起こし、捌きたてのヒレ肉を焼くことにした。

こんなに美味い肉は食べたことがない、と

夢中で肉にかぶりつく2人の若者を見て

思わず顔が綻ぶ。



帰り道、肉は全てMが背負った。

子鹿だとはいえ、

丸一頭分の肉の重量はなかなかのものだ。

更に凍っていた土が春の日差しに解け、

足元は悪い。

ストックをMに貸すが、

たまにズルズルと足を滑らせ

へっぴり腰で斜面を下っている。

それでも、弱音は決して吐かない。

重労働の中に、喜びを見出しているのが見て取れる。

きっとMは、いいハンターになる。

私より随分遅れて山から降りてきた彼の、

汗だくの笑顔を見て、そう思った。





仔鹿の肉はMの一部となり、

その革は初めての狩猟体験の記憶を

いつまでも鮮やかに蘇らせる。


私はまた、愛犬と共にカウンターに座り、

Mの作った酒を飲む。


そして私たちは

いつになっても飽きることなく、

力強く生きた子鹿を讃え合い、

特別な一日を分かち合った幸せを言祝ぐのだ。







<2022年度 狩猟まとめ>


捕獲 : シカ3頭 

内訳 : オス1頭/メス2頭


同行者: 7名

内訳 : 大学生1名/社会人6名 ・ 男性4名/女性3名








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