つまさきに蝶々
落ち込んでいるとき、どうして人はうつむいて歩くんだろう。
重力に逆らう気力もないままに首をもたげて帰る道すがら、わたしは心の隅で、そんなことを考えていた。
そんなことを考えていること自体現実逃避だってことはわかっていた。今、誰よりも落ち込んでいるのは間違いなくわたしだ。
失敗を苦笑いで取り繕って、自分のそんなみじめさを、自分がいちばんちゃんと見ていて。
はあ、ほんと、いやになる。
遅い夜の住宅街には人の気配もなく、わたしはどこまでも自由に落ち込むことができた。くたびれたスニーカーの靴紐だけが交互に小さく跳ねて、なんだか楽しそう。
「あんたは飛べるよ」
ふと声がした。
あたりを見渡すけれど誰もいない。というか、振り向いてはみたけれどわたしは声の主を心のどこかでわかっていた。声は下の方から聞こえた。
「いつでも言ってくれれば」
さっきと似ている、けれどやや鼻にかかった声がする。
やっぱり。
しゃべっているのはスニーカーだった。最初に声を出したハスキーボイスが右足で、鼻にかかった甘い声色が左足だ。
「スニーカーじゃないよ、あたしたち」
心の声が聞こえているかのように左足が言う。
「つまさきの蝶々」
今度は右足。歩く速度に合わせて、前に出た方がしゃべる仕組みみたいだ。うつむきながらも、ほんの少しだけおもしろくなってきた。
というか、つまさきの蝶々って。
「人間は靴紐って言ってる」
「蝶々結び、なんて名前をつけておきながら」
「まさかほんとうに蝶々だとは」
「思ってなかったでしょ」
「ふふふ」
「くすくす」
小さく跳ねるわっかはたしかに、蝶々の羽ばたきに見えなくもないけれど。
蝶々?この、うす汚れて灰色になった紐が?
「あ、ひどい!」
「信じてないね」
「飛んでみせようか」
「そうしよう」
足に口でもついているのか、心の声は言葉としてそのまま蝶々たちに届いているらしい。と思うや否や、靴紐の蝶々はぱたぱたとわっかを大きく羽ばたかせ、わたしの体はふわりと宙に浮いた。そしてそのままバランスを崩して地面にお尻をつく。
「いったあ……」
夜の道でひとり何をやっているんだろう、わたし。
「えへへ失敗」
「なんせ久しぶりだから」
「次はうまくやるよ」
「息を吸って」
「いくよ」
わたしの返事もろくに聞かずに蝶々たちはそう言うと、もう一度小さな羽を羽ばたかせた。
どこにそんな力があるんだろうと思うけれど、わたしの体はふたたび浮き上がり、今度は両足でうまくバランスを取りながら空を切って進み出した。
すると急に、いつもの帰り道だと思えないくらい、あたりの景色が違うものに見えはじめた。
高さはそんなにない。せいぜい、竹馬に乗るくらいのものだ。
夜景を見下ろすわけでもなく、星屑の間を縫って宇宙遊泳するわけでもない、ただ数十センチの空中散歩。
それでも、両足の蝶々はわたしを重力から解放してくれた。
望んでないのに、勝手に、地面にしばられていた重たい気持ちを軽くしてくれた。
なんてことだろう。気づかなかったよ、こんなところに蝶々がいたなんて。
「ちょっともう、ギブ!」
「今日はここまで」
「羽ちぎれそう」
「久しぶりすぎて」
ものの3分もしないうちに、とつぜん蝶々たちはそう言うと、わたしの体をそっと地面に下ろした。
なんだ、高さも出ないし、たった3分持たないのか。わたしは呆れて笑ってしまう。
「うるさいなあもう」
「これでも全力よ」
「……ありがとうね」
心の声だけでも聞こえているのはわかっていたけれど、わたしはあえて声に出して言った。
疲れ切ったのか、照れているのか、ふたりは何も言わなかったけれど、また歩き出したわたしの足の速度に合わせて羽をひらひらさせた。
うつむいて歩くときにしか、見えないものもあるんだな。
落ち込んで前を向けなくたって、視界のすみで蝶々が羽ばたいているんなら、それもきっと悪い眺めじゃない。
そう思ったところで思い出す。
そうだわたし、落ち込んでいたんだった。
気づいたところでもう一度沈む気にはなれず、わたしはなんだか妙にふわふわした足取りのまま帰路へつくのだった。
***
うつむいて歩く夜にも靴ひもの蝶々は「いつでも飛べる」って顔で
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