見出し画像

その夜のできごと

その灯台は、ずっと同じ方向にそびえたまま、この海で起こったありとあらゆる出来事を見てきました。

太陽が目覚めるよりも早く、船乗りたちが高らかに歌いながら荒波を分け入って漁に繰り出すところ。

誰もいない夜の防波堤で、そっと少女の流したメッセージボトルを、対岸の少年が拾うところ。

魚たちのささやかなおしゃべり、それから頭に止まる情報通のかもめのひとりごと。

この海で起こったすべてのことを、灯台は知っていました。

だからもちろん、その人魚がときどき水面に顔を出しては、気づかれないようにそっと船乗りたちを見ていることも知っていました。

人魚は、汽笛の音が入江に響くと嬉しそうに岩肌に腕を伸ばし、尾びれをパシャパシャと水面に打ちつけながら船乗りたちの旅立ちや帰還を見つめるのでした。

とりわけ彼女は、みんなから「王子」と呼ばれる若い船乗りの男をじっと見つめていました。「王子」は精悍な体躯と爽やかな笑顔で、港町の女性たちからも人気のある男でした。

人魚は彼に憧れているのだ、と、そのことは灯台にもわかるほどでした。

しかし彼女は、船乗りたちに見つかりそうになると、いつもあわてて海に潜ってしまうのです。想いどころかまるで、存在すらも悟られてはならないというような素早い動きで。

灯台はそれを気の毒に思いました。住む場所や見た目が違うからといって、何恥じる必要はないんだよ。彼女が怯えるように海に潜るたびに、にそう言ってあげたくなりました。

しかし話しかけることはおろか、動くことさえできない灯台にはただ見守ることしかできないのでした。

そんなある夕暮れのことでした。波は凪ぎ、空には雲ひとつなく、まさかこのあと大嵐がやってこようなどとは誰も思わないような天気でした。

情報通のかもめが朝から「大嵐がくる」と騒ぐので、灯台はそのことを知っていました。今晩漁に出かけるのは、だから本当は危険なのですが、そのことを知らない船乗りたちは意気揚々と出航の準備をはじめていました。

そのとき灯台にひとつの考えがよぎりました。それは、実行するにはあまりにも危険な考えでしたが、灯台は「これしかない」と思いました。

そして考えを巡らせながら、じっと、夜がふけるのを待ちました。

静かな夜を破ったのは、大きな雷の音でした。それをきっかけに水面にはじけ出した雨粒はやがて波をうねらせるほどの威力に変わり、あっという間に海は表情を変えました。

遠くに、漁に出て行った船が見えます。本当ならこんなとき、まっすぐに航路を照らして帰りの道を示すのが灯台の役割。でも今日は、それをしませんでした。

もちろんそうすれば船は簡単には戻ってこられなくなり、船乗りたちは危険にさらされます。それを承知で、灯台は暗闇につつまれたまま、遠くに見える船をじっと見つめていました。

やがて、船は転覆しました。他の船乗りは小型のボートに乗って陸地を目指しましたが、「王子」だけは波間に投げ出され、気を失ったように漂っていました。

そのとき、人魚が水面から顔を出し、「王子」を抱きすくめると陸地を目指して泳ぎはじめました。

灯台は大きく息を吐き出しました。これこそが彼の考えだったのです。あのままでは永遠に、人魚は憧れの「王子」に近づくことさえできない。こうでもしないと状況はいつまでも変えられないと思ったのです。

人魚が岩かげに彼を運んだのを見届けると、他の船乗りたちが乗るボートに、灯台は急いで明かりを照らしました。彼らは険しい表情を少しだけ和らげ、まっしぐらに港へ戻ってきました。

船乗りたちは全員無事でした。

岩かげに隠れて見えない「王子」も、人魚が一緒なら大丈夫だろうと灯台は思いました。

そして翌朝にはまたすっかり何事もなかったような晴天が広がり、この夜のできごとは船乗りたちの語り草になりました。

人魚を見たとか、灯台の明かりがついていなかったとか、どれも本当のことが伝説めいて語られていくのを、不思議な気持ちで灯台は見ていましたが、時が経つにつれ、その話をする人も少なくなってきました。

「結果オーライだけどさ、兄弟、やっぱり少しばかり無茶しすぎだったと、俺は思うね」

すべてを承知のかもめだけが、時折そうやって、その夜のできごとを揶揄しにわざわざに飛んでくるのでした。


***

灯台がまばたきをする間だけ夜のまほうが海をつつんで

最後まで読んでくれてありがとうございます。 これからもじんわり更新していきます。 気に入っていただけたらフォローしてくれるとうれしいです◎