スペシャルホリデー
通勤電車がとつぜん停止した。駅と駅の間の、踏切も何もない場所だ。人々は顔を見合わせて、アナウンスを待った。少し経って困惑したような車掌の声が車内中に響き渡った。
「ただいま、線路上に羊の群れを確認したため、運転を見合わせております」
車内はにわかにざわめき出した。しかつめらしい表情のサラリーマンも、眠たげだった学生も、驚きと期待に揺り動かされてことの展開を待った。先頭車両の人々は窓を開け、身を乗り出して羊の姿を探した。
「ほんとうだ」
「羊がいるぞ、それもたくさん」
「かわいいなあ」
人々が口々に指さしたとおり、羊の大群が線路上を覆いつくしていた。何匹、という数ではない。見渡す限りの白いふわふわが、電車の行く手を阻んでいる。慌てる様子もなく線路脇の草を食べ、ときどき、思い出したかのようなまばらなタイミングで「めえー」という声が上がる。
車掌は電車を降りると、腕を組んで天を仰いだ。どこまでも青く澄み渡る秋晴れと羊たちのコントラストは、まるで空中の雲がここに降りてきたかのようだった。
「こりゃあ、しばらくは運転どころじゃないな」
この上ないほどに壮大で平和なこの様子に、今自分の力でどうにかできることは何もないのだという気がした。
車掌はひとつ頷くと、車掌室に戻り、マイクを手にした。
「羊たちが退きそうにないので、本日は運休とさせていただきます」
そのアナウンスに車内はふたたび騒然となりかけたが、パニックには至らなかった。
これもすべて何も感知していないのんきな羊たちによるものだと思うと、心から焦る気力がどうも湧かないのだった。
そういうことじゃあしょうがないね。まったく困った話だね。
なんとなく肩をすくめて笑い合うと、人々はおとなしく電車を降りて別の交通手段を探しはじめた。
しかし実は、そのとき羊が発生したのはその線路上だけではなかった。
高速道路のジャンクション付近に、教室の入り口に、高層ビルのエレベーターに、世界中のありとあらゆる場所にとつぜん羊たちがあらわれ、草を食べたり鳴き声をあげたりしながらおとなしくひしめき合っていたのだ。
交通機関は軒並み封鎖されてしまった。退いてもらおうにも、行くところ行くところすでに羊がいるのだからそれもかなわない。移動手段を失われて、人々はやむなく休暇届けを出すほかなかった。
それは本当に誰のせいでもない、どうしようもないことだった。羊たちはただのんきに、当たり前に、現実を生き、草を食べていた。その堂々としたもこもこたちを前になぜこうなったかの理由を探るのは、あまりに無意味だと誰もが思った。
車掌が見上げた空だけでなく、その日地球を包む空には、たったひとつの雲も浮かんでいなかった。どこもかしこもすこんと澄み渡り、太陽が照らす場所からは青空が、月が照らす場所からは星空がはっきりと見えた。牧歌的な目の前の羊たちと相まって、悩んだり慌てたりすることを誰もがやめてしまった。
その日、世界中のすべての人々は、休暇届けを出して、空と羊を眺めて過ごした。何のドラマも起きない。ただそこかしこに羊がいるだけ。それは、奇跡的なほどに平穏な1日だった。
あの羊たちは本当に雲だったのかもしれない。ぐるりと地球が一周して迎えた次の朝、空は厚い雲に覆われ、あれほど地上を埋め尽くしていた羊たちは綺麗にその姿を消した。人々はまた同じように服を着替え、コーヒーを飲んで、それぞれが行くべき場所へ向かった。
あまりにも当たり前のように、人々は日常をまたはじめた。以前と同じように悩み、考え、言葉を交わして過ごす。羊たちがあらわれた前と後で特に変わったところが見当たらないほど、日々はそうやって自然な流れで形づくられていった。
ただ、ひとつだけ変わったことがあるとすれば、雲のないよく晴れた日に、木の影やビルの隙間に羊たちの姿を探す人が、その日を境に少し増えたということだ。
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車窓から見える羊を数えつつまどろむ2両目の昼下がり
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