みのりちゃん
先生に頼まれていたプリントの束を持って、わたしは4年3組の教室から職員室へと向かっていた。
職員室は渡り廊下の先の別棟にある。別棟には図工室とか音楽室とか保健室とか、普段あんまり使わない教室しかないから、渡り廊下を歩くときはいつもほんのわずかに緊張するのだった。
しかも、今は放課後。先生に頼まれたプリントの仕分けのために残っていたわたしの他に、生徒は誰もいない。午後の陽射しがやわらかく差し込んでいる校舎はがらんと静かで、毎日通っている場所とはちがうところのような気がした。
渡り廊下を進みきって別棟にたどり着くと、奥からかすかにポロンポロンとピアノの音が聞こえてきた。あれは多分音楽室だ。
ピアノは、すごくへたっぴだった。ぎこちなくて、不安定だった。
よく聞くと、おんなじ旋律が高い音と低い音で奏でられている。低い方はなめらかで、高い方がぎこちない感じがするから、連弾なのかもしれない。
職員室は音楽室の奥だから、わたしの足は自然音楽室脇の廊下へと近づいていった。次第に音が大きくなる。弾いているのは、どうやら4年生が秋の音楽会で弾いた茶色の小瓶らしい。
誰が弾いているんだろう。音楽会でピアノを担当してたのは、たしか1組の中川さんだ。彼女はピアノを習っていて、とても上手だった。
音楽室の扉は開いていた。通りすがりに、わたしはちらりと中を覗いてみる。
春風がカーテンをやわらかく揺らす陽だまりの中で茶色の小瓶を弾いていたのは、音楽の先生と、同じクラスのみのりちゃんだった。
みのりちゃんだ、とわたしは思った。
みのりちゃんは、音楽の授業がとても苦手な子だった。歌もリコーダーも、奏でられるのはいつも調子の外れた音階で、テストでは何回もやり直しをさせられていた。男子がそれをからかったり、女子がそんな男子をにらんだりする中、それでもみのりちゃん自身はいつも少し困ったようなかんじで「ごめんねえ」と笑うのだった。
そういえば。と、わたしは思い出す。みのりちゃんは、茶色の小瓶のパートを決めるとき、ピアノに立候補しようとしていた。
ピアノは学年でも一人だけの大役で、他の立候補者はみんなピアノの上手な子たち。男子たちの「絶対むりだろー」と言う笑い声に「そうだよね」といつもの少し困ったような笑顔を浮かべてあげかけた右手をすぐにおろした。
そのとき、どれほどの思いがみのりちゃんの中にあったのかはわからない。悔しかったかもしれない、悲しかったかもしれない。
でも今、先生と一緒にぎこちなく指を動かすみのりちゃんは、とても幸せそうに見えた。困ったような笑顔じゃなくて、全然うまくいかなくても、間違えても、先生を見上げてうれしそうに笑っていた。
わたしはプリントの束を抱えたまま、少しその場所に立ち止まった。へたっぴなのに、どうして立候補するんだろう。あのときわたしは心のどこかでそう思った。それがとても恥ずかしかった。
上手だとか、へただとか、それは本人の幸せとは関係がない。ましてや他の人が決めつけることなんかじゃ絶対にないのに。
みのりちゃんが弾く茶色の小瓶は、上手だろうとへたっぴだろうと、とても素敵だった。幸せそうに弾くみのりちゃんが素敵だった。
わたしはなんとなく、今この場所に別の音が生まれてはいけないような気持ちになる。
上履きが床を鳴らさないよう、ゆっくりゆっくり、ピアノの音を聴きながら、春の長い廊下を歩いた。
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連弾の音のこぼれる放課後の光る廊下のかすかな軋み
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