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夜のクジラ

「おやすみなさい」

そう言って電気を消すと、部屋中にあるすべてのものは動かなくなった。

あーあ。さっきまで、オレンジ色の光の中で机も本もラジカセもにこにことたのしげにしていたのに、はじめからそうだったみたいにもう誰もぴくりともしない。

おふとんの中はあったかいはずのに、静寂がしんと冷えて、指先がしびれるような感じがした。

だから夜はきらいなんだ。

カーテンの隙間からもれるかすかな月明かりでは、この部屋をつつむには全然たりない。

目を閉じてしまいたくなくて、3回ねがえりを打つ。お日様の元ではクリーム色だった壁が、貧血を起こしたみたいに青白く目の前にそびえていてこわかった。

夜のクジラが今来てくれたらいいのに、と思う。

夜のクジラは、毎晩この部屋にあらわれる。わたしが眠りについて、朝になって目が覚めるまでのあいだ、この小さな部屋に大きな体をみっちりと押しこめてじっとしている。

でもわたしは、その姿を見たことはない。夜のクジラは、しっかり目を閉じているあいだしかあらわれないのだ。

目を開けているときに来てくれたら、すごくいいのに。わたしは一晩中、眠らなくてよくなるのに。そう思って待ってみても、来てくれないのはわかっている。わたしはしばらく両手を開いたり閉じたりしてから、やがて観念して目を閉じた。

目を閉じると、すぐにぬうっと空気の動く感じがして、夜のクジラがやって来た。潮くさい獣くさいしめったにおいが、部屋中にかすかにたちこめる。きもち悪くなるのに落ち着く、変なにおい。

そして、部屋ぜんたいが海になる。

夜のクジラは、たぶんわたしの数センチ上くらいのところでじっとしている。空気がずんっと重くなるからそうだとわかる。動いたり鳴いたりはしない。ただじっとしている。でも、重くのしかかるこの感じが安心する。

まぶたごしに、わたしは夜のクジラの姿を想像する。

想像の中で夜のクジラは、さびしそうな顔をしていた。ほんとうのところはわからない。けれど、空気をつたってさびしいという感情が、枕元まで流れてきている気がしたのだ。こんなに大きいのに、身動きひとつ取らずに静かにしている生きもの。

わたしとおんなじように、もしかしたら夜のクジラもひとりぼっちでさびしいのかもしれなかった。

そう思うと、ちょっと嬉しかった。目を開けてたしかめたくなったけれど、それはできない。代わりにわたしはもっと強く目をつぶる。

クジラの体は真っ白で、主食はきっと夜の闇だ。すこしずつ闇を食べて、黒く染まりながら、世界を朝に変えていくんだろう。だから朝が来ると消えてしまうんだ。

黒いだけのまぶたの向こうにある世界を想像する。しんと冷えた空気が色づき、いくらかわたしに優しくなる。夜のクジラがいてくれなかったら、わたしはきっと、だめだっただろうな。

そうやっていつも、いつのまにか想像は夢へと変わっていった。

目が覚めたらもうそこにクジラの姿はない。

枕元に差し込むやわらかい光、清潔なシーツの匂い、そこにあるのはもうこわくもさびしくもない世界だ。

部屋中にあるいろいろなものに「おはよう」の挨拶をしながら、わたしは窓の外を流れる風に、引きずるような遠いクジラの鳴き声を探した。


***

目を閉じているあいだだけこの部屋を夜のクジラが満たしているの

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