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月と人魚

地中海のある一角に、人魚の棲むという岩場がありました。

船乗りの男たちの間には、人魚の姿を見ると海の中に引きずり込まれるという言い伝えがあり、その岩場にはむやみに近寄ってはならないという暗黙の了解がありました。

港町の酒場は「おれは人魚を見た」と管を巻く船乗りたちで連日賑わいましたが、実際にその姿をとらえた証拠はなく、ロマンにあふれたおとぎ話のひとつだと、町の人々はおろか、当の船乗りたちでさえそう思っていました。

ところが、人魚は本当にいたのです。

たったひとりで、彼女はその岩場に棲んでいました。

人間を見つけて引きずりこむというのは伝説にすぎず、人魚はただ友達がほしいと思っていました。それでも漁船の明かりははるか遠くに見えるばかりで、こちらにやってくることもない。岩場を離れる勇気も持てず、彼女はその明かりに、人々のあたたかさを想像することしかできないのでした。

人魚はふだん海の中で暮らしていましたが、夜になると海面に出た岩に腰かけ、月光にその綺麗な鱗を乾かしました。

そんなとき彼女はいつも、空を見上げてため息をつきました。

彼女はお月さまに憧れていました。たったひとりだというのに、嘆くこともなく、いつでも優しい光を投げかけてくださる。その堂々とした姿に自分を重ねては、さびしくて涙のこぼれそうになる夜を何度もやり過ごしてきたのです。

そんなある、凪いだ夜のことでした。

人魚がいつものように岩に上がって空を見上げると、雲ひとつない暗闇には、穴のあいたように青白い満月が浮かんでいました。

潮は満ち、波が音さえ立てない、時間が止まったかのような不思議な夜でした。

鏡張りの海面は凛と澄み渡り、クレーターのひとつひとつまでありありと見えるほどに今夜の大きな満月を写しています。

ひとりぼっちの自分に寄り添ってくれているのだと、人魚は思いました。水面に写っているのはそれほどまでに、正真正銘のお月さまでした。

海面からは、その月が放つ青白い光が立ち上り、人魚を優しく照らしました。その光に誘われるようにして、彼女は両の腕からまっすぐ月に飛び込みました。

しぶきに揺らぎ、にじんでゆくお月さま。

その瞬間世界は反転し、海中だと思った先には、夜空が広がりました。

魚も、貝も、水草もいない。代わりにビーズのように散りばめられた星屑が、色を変えながら瞬き、興味津々に彼女を見つめています。

星屑に導かれ、夜空の中を人魚はぐんぐんと泳いでゆきました。苦しくも、怖くもありませんでした。海中と同じあたたかさが彼女を包みこんでいました。向かう先には本物のお月さまが待っています。無重力に何度も尾びれを打ちつけ、彼女はひたすらまっすぐに進みました。

ようやくひとりぼっちじゃなくなるのだと、その喜びにこれまで堪えていた涙が、次々にあふれて後ろに流れてゆきました。

そのしずくを、船乗りたちは流れ星だと思いました。美しい一筋の光は、ちりのように尾を引いてきらめき、海面を輝かせました。

地中海のある岩場に、たしかに人魚はいました。けれど、そういうわけで、今ではもう月にしか棲まなくなってしまったのです。


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泡になる人魚の溶けた水面に浮かぶ今夜の月はみずいろ

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