ようかいはなまる
今日はだめだめな1日だった。
帰りの電車の中で、てすり際に立って窓の外を眺めながらため息をつく。
どうしてうまくいかなかったんだろう。
なんであんな風に言っちゃったんだろう。
後悔ばかりがいくらでも出てきて、そのどうしようもなさに余計気がめいる。わたし以外のすべての人が素敵に見えた。わたしだけが、世界の中でたったひとりの落ちこぼれみたいな気持ちだった。
流れる景色の中に灯るあったかそうな明かりに、またため息をつく。幸せそうな街明かりが、今のわたしにはとてもきつい。
そのとき、窓の外を電車と同じ速さで走るなにかの姿が目に入った。
「えっ」
それは、猫よりは大きく、人よりは小さい、とらえどころのない形をしていた。窓は車内の明かりを反射して、全貌はよく見えない。見間違いかとも思ったけれど、何度たしかめてもそこにいる。
それは全力で走りながら、わたしのことを見ていた。姿が判然としないのになぜかそう思った。
怖くはない。むしろ、なんだか出来の悪いコメディ映画のような光景だった。電車と同じ速度で走る得体の知れないいきもの。
駅に電車が止まると、その何かはぴったりわたしの前、窓越しの反対車線のホームで動きを止めた。そのときになってはじめて、その姿をはっきりと確認することができた。
やっぱり見たことのないいきものだ。それは、ひとことで言い表すなら“なるとのようなマルチーズ”だった。綿飴のようにふわふわな体いっぱいに、赤い線でぐるぐるが書いてある。ふわふわした体の上部には一応、目らしきものもついている。その目がずっとわたしを見ている。なにか言いたそうにしている。よくわからないけれど、嬉しそうにしている。
電車が走り出すと、それはまた並走をはじめた。嬉しそうにわたしを見たまま、ぴったりとついてくる。
わたしにしか見えていないのだろうか。
車内はそこそこ混んでいた。つり革につかまりながらぼんやりと窓の外を眺めている人は何人かいたけれど、明らかにそれを見ているような気配はなかった。
ふーむ。どういうことなんだろう。
それと見つめ合ったままそれについて考えていたら、危うく乗り過ごしそうになった。車内アナウンスが最寄り駅の名前を告げ、わたしは慌てて目の前で開いたドアから下車する。
それは、お待ちかねという様子で駅のホームに立っていた。マルチーズのようだけど、尻尾がないから多分犬ではない。でも、尻尾があったらきっとちぎれんばかりに振っていただろうなと思うくらい、嬉しそうなことが伝わる。目がきらきらしている。
他の人々は、それに目も留めずに改札へと向かっていった。ああ、やっぱり見えてないんだな。
わたしは少し戸惑いながらそれに近づくと、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「どうしたのかな」
優しく聞いたつもりだったけれど、声が少しかたくなってしまった。でも、それはまったく萎縮するそぶりを見せず、むしろさらに嬉しそうに目を輝かせると、綿飴のような白い毛の奥から同じように白くてふわふわの短い両手をぬっと差し出した。
その仕草は「手を出して」というジェスチャーに見えた。促されるままに、両の手のひらをお椀型に少しくぼめるようにして出す。
それは満足げにうなずくと、いきなりジャンプしてその両手の上にダイブした。
「えええっ」
びっくりしたけれど、それは少しも重くなかった。ただふわふわのお腹がわたしの両手の上にもさっと乗っかる。あったかくて、やわらかい。
ますますわけがわからないけれど、悪い気はまったくしない。
それはしばらくうつ伏せになったあと、逆回転のような動きで後ろにジャンプして元の位置に戻った。
「……これを、わたしに?」
手のひらの上に残ったものを見て、わたしは尋ねた。
それはいかにも嬉しそうに、何度もうなずく。
それが離れたあとの手のひらには、両手いっぱいの大きなはなまるが描かれていた。
子どものころのテストで先生にもらったような、それはそれは綺麗なはなまるだ。
なるとのようだと思っていたそのいきもののお腹の模様は、大きなはなまるだったということにそのとき気がついた。
それは小さくその場で何度かジャンプすると、最初に見たときと同じ電車の速さで、いつの間にか人気のなくなっていた駅のホームをシャーっと駆けて夜の闇に溶けていった。
両手のはなまると、わたしだけがそこに残された。
ああ、そう言えば。
わたしは、落ち込んでいたんだった。
それを見つけたときから今の今まで、そのことをすっかり忘れていた。
突然思い出されたあれやこれに一瞬心が揺らぎかけたけれど、大きくて立派なはなまるを見ていたら、なんだかどれもあまりに小さいことのような気がした。
誰もがはなまるをもらって生まれてきてるんだもんな。
そのいきものがわたしに伝えたかったのがそういうことなのかどうか、本当のところはわからない。
でも、駅のホームから見える街明かりは、今はなんだかとても穏やかで優しいものに見えたのだ。
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赤ペンを買いに行こうよこれまでの日々にはなまるつけてあげるよ
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