日々の日記Vol.63 2024年5月20日~5月26日(一週間分まとめてアップ)
5/20
明日火曜日から職業訓練をお試しでやってみる。
合わなかったら別の機関で受ければよいし、生活費などはまだ余裕あるように備蓄されているので、少々長期戦で構えていられる。
転職あるあるとして、焦ってすぐ就職すると後悔するマーフィーの法則じみたものがある。
なのでじっくり職業訓練しつつ履歴書の添削、模擬面接、マナーチェックなどを行ってゆきたい。
今現在、喫茶店で8インチのタブレット端末とキーボードつき保護カバーで朝から入力している。
画面がもう少し大きい10インチを来月に購入する予定だ。
普段のワークシートやドキュメントが捗ればと期待する。
天気が良くなったら鎌倉や江ノ島、茅ヶ崎へサイクリングしたい。大磯まで行くとだいぶ遠いが、大磯も捨てがたい。
また相模湾沿いの猫たちに会いにゆきたい。
5/21
今日は職業訓練の現場に向かい見学。職員から簡単な説明を受け、後日体験で3日ほど職業訓練に参加することとなった。
見学の帰り、雑誌ターザンを読むが今回は猫背特集だ。雑誌の自己診断テストによれば、わたしは背骨タイプの猫背らしいから今後は思い出したら背骨のストレッチを行おうと思う。
猫背仲間がメシ待ちしている。餌の準備をせねば。
5/22
この漫画はいつも外の評価で自分の価値が決まると考えている高校生の女性が主役の物語である。
こういった人は「わたしはこうしたい」と言えるものがない。
5年後、10年後何をしたい事もなければ目標もない。
したい事もなく、現在目の前にある事だけを見て周りに流され、一度でも失敗したら、嫌われたら自分は終わりだと思いながら周囲に怯え、人間不審である。
夜は中年男性に若いその体を求められ、抱かれてお金をもらうパパ活にいそしむ。
パパ活で体を求められることによって己の存在意義を見出している。
過去の名作文芸は「どうかしている人たち」の「どうかしている物語」なので本書はその視点で見ると文学的でもある。
先月に知人が勧められてよんだあきやまえんま作『のあ先輩はともだち。』と通ずるものがある。
両方とも自分の人生の中心に自分がいない。
常に他者評価に左右され、それが辛いからこ不安に怯え、信じない深刻な人間不信が垣間見える。
おっと、腹を空かした猫が顔を覗かせている。
わたしは5年後、10年後も各地を旅して猫と関わっていたい。まずは顔覗かせる猫に餌やりしよう。
5/23
『阿片王』に登場する人物は序章から胡散臭い人たちのオンパレードである。その荒唐無稽さがむしろ面白いし、著者も取材したのだろう。
伊達家のご落胤を自称するも伊達順之助の長男本人が問い詰めるや否や逃走する自称スパイの山師。
戦中は大佐、戦後は密輸に手を染める不良軍人。
性的少数者の生きづらさから、諜報活動に身を置いた「男装の麗人」
などなど大層な肩書と違って実生活はと言うと、東京タワーのほうでテイクアウトの餃子屋にて売り子、家賃5千円のボロ屋で年金暮らしなど落差がとても大きいのも共通する。
いい加減で胡散臭いアウトローたちの取材ノートを読むうちにロバート・ホワイティング『トーキョーアンダーワールド』や渡辺謙出演で映像化されたジェイク・エーデルスタイン『トーキョーバイス』を読んでいるようだった。
誰も知らない白紙の場所は「ユートピア」であり「存在しない場所」を意味するウト・トポスでもある。
満州という白紙の場所に「存在しない場所」でもある自分だけの「ユートピア」をたとえ虚像の中だけであっても生きづらい人たちは築きたかったのだろう。
高齢になればなったで誇張やウソで膨らませ実像とかけ離れた偉業とその物語が死後も残ることに希望を見出すかのような傾向もある。
偽り続けた人たちにとって死後の世界と極楽浄土に相当するものは他者からの賞賛され続けることなのだろう。
この人たちの相関図に満州映画協会が必ずあるのも興味深い。
虚構の住人たちの紳士録ともいえる本書を読むうち、小さいながらも何かを耕してコツコツと築き上げる小市民か農民でありたい。そんな気持ちが強くなった。
物陰から視線を感じる。正体は忍者か腹ペコの猫のいずれかだ。餌を用意してやろう。
5/24
様々な読書とNetflix、Amazon prime videoやAmazon Kindle Unlimitedなどのサブスクリプションのコンテンツを視聴して思う。
・なぜ転生ありきなのか?
・転生・無双コンテンツはどういった層に向けて作られるのか?
・結論としてどういった層のコンテンツを選ぶべきか?
などを想う。
まず、死ぬかゲームの世界から帰って来れない前提ありきだが、それしかないのが疑問。
辞職して転職、起業する人もいれば『深夜特急』よろしく旅に出るひと、田舎暮らしをする人らもいる。
この現実世界でも方法はたくさんあるのに選択肢がなさ過ぎる。
現実逃避のコンテンツは昔からたくさんある。
開高健がエッセイ『最後の晩餐』にて”大人向けのおとぎ話””大人が読む童話”と表現したが、その本人が今を見たらあまりにも選択肢が少なく視野狭窄にように思うだろう。
人は精神的に追い詰められたり、ストレス過多、疲労困憊になると視野狭窄に陥る。
「生きづらさ」という単語が頻発する世の中では致し方ないのだろうか?
わたしは貧乏なのでサブスクリプションからコンテンツを消費するのだが、”転生”と銘打たれたものは低所得層と引きこもりまたは発達障害、精神障害などを抱えたひとたち向けに作られている印象を受ける。
先日、アッパーミドル層のご子息と食事をしたが社会資源、教育資源に恵まれた環境で育ち本棚と好んで読む本にも反映されていた。
わたしは『ヒルビリーエレジー』では低所得層出身の主人公は上流階級と会食するとき、どのスプーンとフォークから手に取れば良いのか困って彼女に電話するのだが、わたしも低所得層出身なので感情移入してしまう。
なろう系、異世界転生にはこういった葛藤がない。
親兄弟と暮らした実家を出て自己実現もなければ友達、彼女もいない。
キャリアアップに夢中になってパートナーおよび配偶者と口論になることもない。
こういったコンテンツに癒される人の大半は彼氏彼女、パートナー、配偶者はおろか友人もいない残酷な現実のなかにいる。
わたしは現実世界で悪戦苦闘(好きで行い、その感覚に乏しい)していたいのでどんどん古典や書店の平積みを手にとる方へシフトさせてゆきたい。
タイパ、コスパばかり考えていると低廉で量産されたコンテンツばかり消費してしまう。
それら中心の生活はジャンクフードで不健康太りするような生活に近い。
食生活もコンテンツもよく考えて選びたい。
猫の餌もよく考えてやらないと。
5/25
朝に猫と戯れて帰宅のち『阿片王』を読み返す。
わたしは狐狸 妖怪、幽霊登場する話は自身が体験したものも含めて“民話”だと思っている。
その“民話”を自らの承認欲求を得るため過去にweb上で拡散してからは“都市伝説”となって独り歩きしているのを見てほくそ笑むわたしがいる。
そんなわたしがいま読んでいる『阿片王』にも“都市伝説”となってほくそ笑む里見甫の秘書とされるLGBTの女性、梅村淳が登場する。
梅村は昭和19年に亡くなった女優、梅村蓉子に容姿も似ていたのであえて否定も肯定もせず、周囲にそう思わせていた。
著者が取材するまで梅村淳と梅村蓉子が別人である事を半世紀ほど気づかなかった。
この梅村の関係者に取材すると、金の無心をしては返さない、三人の女性と関係を持ったあげく居候したパートナーの土地を乗っ取ろうと経営権を主張、遺族は二千五百万円払ったなど金と女にだらしなく大抵は「どんでもない人ですよ!」と怒りを露わにするほど迷惑な人であった。著者もこの人物の正体が「高橋雪子」であると突き止めるまで故人が民謡歌手だったなど、様々な都市伝説を耳にする。
本書は結局のところ、里見甫の手記と実像はつかめずに終わる。それでも里見甫の周囲にいた魑魅魍魎たる人物たちが面白い。
これは民話や怪談話を集めるときに似ている。
狐狸妖怪や幽霊よりもその土地でそれらを語る人たちのほうが面白いのはよくある。
だた、そういった人たちは自ら主体性をもって語ることはまずない。
普段から自分や人を偽っているので、白日の下にさらされるのを恐れる。
自分の物語を自分で大衆に向けて語りかけたら、辻褄の合わない所を指摘され、プライドや自己愛が傷つくかも知れない。
それが怖いから直接語りかけない。でも虚栄心、自己愛、承認欲求は満たしたい面倒な性格だから誰かに知られたい。
なので、私のような語り手や作家に自ら作り出した虚像を本や映像、ラジオ、歌詞、ドラマなどにしてもらい説明責任のない形で虚栄心などを満たしたいからだ。
『夕日と拳銃』は伊達順之助のご落胤と自称する者が誇張した話を作者、檀一夫へ売り込みにむかい、実際より大げさな話が小説に反映されたと直接本人を見た伊達順之介の実子、伊達宗義は語る。
この自称ご落胤はその後、無銭飲食、窃盗、寸借詐欺など六回も逮捕され、放浪生活をおくり、米軍横田基地から機密を盗もうとしてロシアの当局者と少年探偵団レベルの秘密連絡を行っていた。
ウェブ上にはスマホ一つで怪談語りを行いYouTube上で承認欲求と虚栄心、それとわずかな収益を集めようとする人がごまんといる。
これまで、その類のひとたちと会話したことがある。
もれなく、ご落胤や梅村のような人たちであり、遠くから”講談”として聞くだけにしておきたい人たちばかりである。
なので、話が面白くても語り部には近づかないほうがいいだろう。
昔から詐欺師ほど話が面白いとはよく言うものである。
なので、人に佐藤優の著書を勧めてはいるが、そのような理由で注意喚起も促している。
繰り返すが胡散臭い人ほど話が面白い。
本書は講談師、神田伯山が読めば気に入ると思われる。
彼ならフィクション、または”講談”として偽りの世界の人たちを優しい目線で語ってゆくだろう。
餌の無心にやってきたから用意する。
5/26
彼女と会う予定なので、それまで再び『阿片王』に目を通す。嘘と虚像ばかりで惨めな実生活との落差が激しい人達の物語を読んで思う。
わたしは虚栄心、承認欲求、自己顕示欲を満たすために嘘をついた事は幾度とある。
その事は自己保身のため、積極的に外へ述べる事はない。しかしその事についてコメントを求められたら例えカメラがあろうとわたしは欲求を満たすために嘘をつき、いまは自分に正直であるよう心がけ、今日も実行し続けている。そう語る用意をしている。
キルケゴールは『死に至る病』などでは「単独者として神と対峙する」旨を述べていたが、個人の感想と偏見を承知のうえ、古代エジプトぽく例えるならば、死んだのちに冥界の神オシリスの前に出て「後悔なく生きた?」と質問される状況でもあると私は思う。
死後、閻魔大王の前で質問される状況と言い換えてもいい。
そこで後悔なく生きたと心の底から述べられるようにするためには、己を偽っていたが、それを改めて人にも自分にも正直に生きてきたと言えるようでありたい。
くれぐれも死後、神か閻魔大王の前でも嘘と言い訳と思わせぶりを重ねて偽りに偽りを重ねたりはしたくない。
ただし、この現世で正直な思いをそのまま言語化して出すと、無用なトラブルが増える。
なので、口頭や表情には出さないよう心掛けるのは言うまでもない。
猫が偽りなくおねだりに来た。餌を用意しよう。
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