見出し画像

学校の「いじめ」の解決方法とは 〜おとなの「責任」のあり方〜

前回、ある教員の「教師は(子どもに)だまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」という言葉を紹介しました。この言葉をとおして、今回は、教員やおとなの「責任」と、学校の「いじめ」の解決方法を考えてみたいと思います。

子どもが、教員やおとなを「信頼」できるためには

「いじめ」の解決は、子どもの集団の中で「強い立場」の加害者の子ども(たち)が、変わらない限り不可能です。そして、加害者の子ども(たち)を変えることができるのは、さらに「強い立場」である教員やおとなです。(これらの点については、この文章の末尾につけた「[参考]人権侵害についての基本的な原理」や「人権問題の解決とは 〜『正しさ(正義)』から『責任』へ」などをご覧いただけると幸いです。)

しかし、教員やおとなが、自分の「正しさ」を加害者の子ども(たち)に無理強いしても、加害者の子ども(たち)はおとなの「正しさ」には従いません。これが実際に起きていることです。だから学校の「いじめ」はいつまでたっても解決しなかったのです。「いじめ」が解決した状態を生み出すには、加害者の子どもの中に「責任」を発動させなければ不可能です。(くわしくは、前回の「なぜ、学校の『いじめ』が解決しなかったのか」をご覧ください。)そして、そのためには、加害者の子どもが、教員やおとなを「信じられる」ことが、ぜひとも必要です。では、子どもに「信頼される」、「信じてもらえる」ために、教員やおとなができることはなんでしょうか。

どうすれば、子どもは「信じて」くれるか

ふつう教員やおとなは、「自分が正しいことを言い、正しいことをしていれば、子どもは信じてくれる」と思っています。しかし、それはおとなにとって都合のいい理屈に過ぎません。前回も書きましたが、教員やおとなが考えている「正しさ」は、子どもの「正しさ」とは違うのです。そのため、いくら教員やおとなが「正しい」ことを言ったり、実行したりしているつもりでも、子どもはそんなおとなを「信じない」ということが起きてくるのです。

無条件でその子を「信じる」こと

子どもに「信じて」もらうために、教員やおとなができることは、実はたったひとつです。それは、無条件でその子どもを「信じる」ことです。無条件でその子どもを「信じる」ということは、裏返せば、この子に「だまされてもいい」と思うことです。だからこそ、「教師は(子どもに)だまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」という言葉が意味を持ってくるのです。

「信じること」は無前提で、無条件の行為

「だまされる」「裏切られる」ということは、その前に相手を「信じている」ということがなければ、成り立ちません。よく、子どもと「約束したのに、だまされた」というようなことを言うおとながいますが、それは勘違いです。おとなのわたしが信じたのは、「約束し、それを実行する子ども」です。そんな「子ども」は、わたしが頭の中で、自分に都合よくつくった「虚像(ウソのイメージ)」の子どもに過ぎません。「信じる」ということは、自分にとって都合のよい条件をそろえた「虚像(ウソのイメージ)」を信じることではありません。今、そこにいるその人(実体)を「信じる」ことです。その意味で、「信じること(信頼)」は、本来、無前提で無条件の行為です。もし仮に「信じること(信頼)」に、ひとつだけ前提や条件があるとすれば、それは「あなたが、あなたであること」だけです。

約束するのは、相手を信じていないから

わたしが、「こうする(または、こうしない)」と子どもに約束させてから、初めて子どもを信じるのは、(約束しないとそうしないのではないかと)その子を疑っているからです。そもそも人の世の中において「約束(契約)」するのは、相手がそれを守らない恐れがある時です。相手を信じられないからわれわれは、「約束(契約)」を結ぶのであって、そう考えれば、「約束(契約)」によって生まれた「信頼」は、時と場合によって破られても、ある意味「当然」のものです。「約束したのに、だまされた」などと思うのは、そういう意味で勘違いです。相手を信じられないからわたしは、「約束」をしたのですから。(そういえば、昔、「条約は破るためにある」と言った、ひどい政治家がいました。これはもちろん許しがたい発言ですが、「約束」というものが持つひとつの本質を突いている言葉ではあります。)

この人は「信じていいかもしれない」

話を戻しますが、子どもに「信じて」もらうために、教員やおとなができることは、たったひとつ、無条件でその子どもを「信じる」ことです。だからこそ、最初に紹介した、「教師は(子どもに)だまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」という言葉が、意味を持つのです。子どもは、何度も何度も自分の「ウソ」にだまされて、ひどい思いをし、それでも自分を「信じる」教員やおとなを見て、初めてこの人(教員、おとな)は違う、この人は「信じていいかもしれない」と思うのです。

「無条件でその子を信じる」などと言うと、非現実的だ、そんなの不可能だとお思いになる方も多いかもしれません。わたしもそれはよくわかります。ただ、ここではあくまで原理的なことを書いていますので、こういう言い方になるのです。(原理的でない、実際的なことは、この文章の最後に「あとがき」として書きました。できれば、そちらもご覧ください。)「信じる」ということについて、原理的に言えることは、「子どもは、自分を信じてくれるおとなしか信じない」、そして「信じるということは、本来、無前提、無条件だ」ということです。(くわしくは、「信じるということは危険な『賭け』なのか?」などをご覧ください。)

「だまされたら」、率直に「つらい」と伝えればいい

ただ、人間ですから「だましていい」と思っていなくても、結果として、相手をだましてしまうことはあります。(それは子どもに限らず、われわれおとなの間でも起きることです。)そんな時、教員やおとなはどうすればいいのでしょうか。子どものした(または、しなかった)ことに対して、「つらい」、「悲しい」、「切ない」、「くやしい」と思ったら、率直にそれを子どもに伝えていいのです。ただ、大事なことは、だからといって、「子どもを非難したり、見下したりする言い方」は一切しないことです。

子どもは(おとなもそうですが)、たとえ自分でも「まずかった」と思っていても、自分を非難したり、見下したりする人には、心を許しません。言い訳をし、口答えし、逃げていきます。逆に、非難など一切されることなく、自分のしたこと(しなかったこと)によって、相手がどんなにつらい思いをしているか知れば、嫌でも「まずかったな」と思います。言い訳をするのは、非難されていると思うからです。(これは、別に子どもに限りません。おとなでもまったく同じです。)この「まずかったな」が、実はその子の「責任」の発動なのです。子どもに「責任」が発動すれば、その後は、おとなは子どもを信じ続けて任せておけばいいのです。具体的にどうするのがよいかは、実は子どもの方がよくわかっています。

子どものおとなへの「信頼」がなければ、教育はない

教育は、一般に「自分が知っている正しいことを、子どもに教えること」だと考えられています。しかし、これは教育ということの半分しか言い表していません。子どもは、自分が「信じる」、「信頼している」人の言うことしか、「正しい」とは考えないからです。つまり、教育ということが成り立つためには、「この人の言うことは『正しい』(つまり、この人はウソは言わない)」という大前提が子どもの側になければなりません。

ただ悲しいことに、このような子どもからの「信頼」は、ごく簡単なことで壊れてしまうことがあります。そんなつもりはまったくなかったのに、教員やおとなが子どもの「信頼」を裏切ってしまうことが必ず起きます。そんな時、教員やおとなはどうすればいいのでしょうか。結局、「ごめん」と謝るしかないのだと思います。これは、口で言うのは簡単ですが、相手が子どもに限らず、あれこれ言い訳せずに相手に「ごめん」と謝ることは、実際にはとてもむずかしいことです。わたしなど、日々、そのむずかしさを身にしみて味わっています。しかし、やはり、謝るしか「信頼」を取り戻す方法はありません。

おとなの子どもへの「責任」とは

ここまで、子どもと、教員やおとなの関係をいろいろ述べてきました。ただ、どうして教員やおとなが、「無条件で子どもを信じ続ける」などということまでしなければならないのかと、疑問を持たれる方も多いでしょう。ひと言で言えば、それが「強い立場」の人(この場合は、教員やおとな)の「責任」だからです。ここでいう「責任」は、一般にいわれる「自分のしたことで、だれかに迷惑をかけたら、そのつぐないをしなければならない」という意味ではありません。(くわしくは、「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)

ここでいう「責任」は、自分より「弱い立場」の人がつらい思いをしている時に、「強い立場」の人が、「弱い立場」の人のつらさや苦しみを減らすために、なにか自分のできることを「しないではいられない」思いのことをいいます。この「責任」は、「義務(そうしなければならない)」とは、むしろ対立する自発的なものですし、さらにいえば、とかく「そうすべきだ」という思いと結びつきがちな「思いやり」や「同情」や「愛情」とも別のものです。

おとなの「責任」は、おとなの「義務」ではない

ですから、「教員だったら、子どもにそこまでしなければならないのか(それが義務なのか)」と聞かれれば、わたしとしては、「そんなことはない(義務ではない)」と答えることになります。実際には、そこまでしなくても教員という仕事をすることはできますし、給料をもらうこともできます。ここでいう「責任」とは、あくまで自分の内側から発動する(湧き上がる)自発的なものなので、そもそもそんなものは感じない人には、「ない」と同じですし、「義務」ではないので、教員だったら必ずそう感じなければ「いけない」ものだとは言えません

おとなの「責任」と、「いじめ」の加害者の「責任」の関係

学校の「いじめ」をなくすためには、どうしたらよいかを前回から書いてきました。そして、教員やおとなが自らの「責任」を果たす(目の前の子どもを無条件で信じる、受け入れる)姿が、「いじめ」の加害者となっている子ども(たち)に、「強い立場」である自分たちの「責任」を感じさせるものになるだろう、そして、それ以外に「いじめ」を解決する道はないと思うのです。もちろん、それにはどれほど時間がかかるかはわかりません。子どもたちが学校に在学しているうちには、解決の時が来ないかもしれません。だれもそれを予測したり、約束したりはできないのです。しかし、教員やおとながそれに向けて努力すれば、必ずそれなりの改善はあるのです。あきらめたら、そこで終わりです。

学校の「いじめ」の解決の方法

学校の「いじめ」の解決の具体的なあり方とは、「いじめ」の加害者となっている子ども(たち)、つまり子どもの集団の中で「強い立場」となっている子ども(たち)が、「いじめ」の被害者となっている子ども(たち)を、自分たちの集団に受け入れることが、自分たちの「責任」なのだと感じ、その「責任」を果たそうとすることです。そのために、教員やおとなにできることは、自分たちの「責任」を発動させて、子どもをまず「信じ」、その結果、「だまされる」ことをなんどもくり返す中で、子どもに「信じてもらう」ことです。そんなくり返しの中で、加害者の子どもに、被害者の子どもの「つらさ」が伝われば、加害者の子どもの中に「責任」が発動していきます。

「いじめ」の被害者となっている子ども(たち)を排除するのではなく、自分たちの集団に受け入れることが、実際にどうすれば実現できるのかは、教員やおとなが考える必要はあまりありません。「強い立場」の子ども(たち)が、本当にそれを自分たちの「責任」と感じれば、具体的で有効な方法は、子どもたちが自ら考え出すからです。

あとがき

今回は、1(イチ「信じる」)か0(ゼロ「信じない」)かという原理的、理念的な(つまり、非実際的な)書き方をしました。実際には、人を100%信じることはできませんし、100%疑うこともできません。前回もちょっと書きましたが、「うすうすわかっていながら、あえて『だまされる』こと」も、教員やおとなの「責任」の実際のあり方としてとても大切なことです。大事なことは、「信じていたのに、だまされた」と腹を立てて、「もう二度と信じてやらないぞ」と思うことではなく、「これでまたこの子の信頼を少しふやせたかな」と思うくらいがよいのではないかということです。そんな時こそ、「おとなは子どもにだまされていいんだ。それがおとなの役割(責任)なんだ」という考えるとよいと思うのです。

[参考] 人権侵害についての基本的な原理

学校の「いじめ」の解決方法について考えるために、「いじめ」を含む人権侵害について、このnoteで今まで述べてきた「基本的な原理」をいくつか書いておきます。

まず、人権侵害とはどのようなことか、人権侵害がどのようにして起きるかは、次のとおりです。

1 人権侵害は、人の集団において「弱い立場」の人が「強い立場」の人の思うように振る舞わない時、「強い立場」の人が「弱い立場」の人を、自分の「強い立場」や「力」を使って、無理やり自分の思うように振る舞わせようとした時に起きます。

2 それでも、「弱い立場」の人が「強い立場」の人の思うように振る舞わない時は、「強い立場」の人は「弱い立場」の人を、自分の集団から「力」で排除しようとします。

これらのことから、次の三つのことが出てきます。

3 人権侵害が起きる原因(要因)は、「強い立場」の人(加害者)と「弱い立場」の人(被害者)の両方にある。(この「原因(要因)」という言葉には、非難や批判の意味は一切含まれていません。ただ起きている事実として述べているだけです。)

4 人権侵害を解決できるのは、「強い立場」の人(加害者)だけである。

5 「強い立場」の人に人権侵害を解決しようと思わせるためには、「強い立場」の人の中に「責任」を発動させる必要がある。(この「責任」とは、「弱い立場」の人がつらい思いをしている時に、「強い立場」の人が、助けるために自分ができることを「しないではいられない」思いをいいます。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?