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高校生のための人権入門(11) 女性の人権について

なぜ「女性の人権」か

このところ、「女性の人権」という言い方をすると、すぐに「男性の人権はどうなっているのだ。」と言われます。そんなこともあってか、最近は「女性の人権」という言い方よりも、「ジェンダー・バイアス」というような言い方をする人が多くなってきました。しかし、わたしはここではあえて、「女性の人権」という言い方を使いたいと思います。その理由はふたつあります。ひとつは、今なお、女性は社会的にきわめて不利な立場におかれていることです。女性が現在の日本においても、いかに社会的に不利な立場におかれているかということは、現在のコロナ禍の中ではっきり目に見えるものになりました。もうひとつの理由は、女性の人権を考えることは、すなわち、男性の人権や性的少数者の人権を考えることだと思うからです。

新型コロナが日本を襲った2020年(令和2年)の全国の自殺者数は、警視庁の資料によれば、21,081人(前年比で912人の増。うち男性は14,055人(23人減)、女性は7,026人(935人増))でした。特徴的なことは、全国の自殺者数は、この11年間ずっと減少し続けてきたのに、2020年に一気に増加したことと、その増加の原因は女性の自殺が1000人近く増えたことによるものだということです。さらに、読売新聞(2020年10月18日)によれば、令和2年8月の女性の自殺は669人で、前年同月比で4割増え、特に40歳未満は7割以上増えています。40歳未満と言えば、まさに子育て世代です。さらに、ひと月ほど後の読売新聞(2020年11月11日)によれば、10月の女性の自殺者は851人で、前年同月比で83.3%も増えました。ほぼ倍になったということです。月別の変化をたどると、女性の自殺者数は令和2年6月から前年同月比がプラスになり、男性も8月からプラスに転じています。令和3年に入ってもこの傾向は続き、7月からようやく男女ともに前年比がマイナスに転じました。(厳密にいうと、令和3年1月のみ男性は8人のマイナス。)

もちろん、自殺の理由はわかない部分も多く、実際にはさまざまな要因が重なっていることが多いわけですが、11年間連続して減少傾向にあった女性の自殺者数が(厳密にいうと、平成29年から平成30年のところだけ+55人、あとは、一貫して減少。)、2020年からこのように増えたことと、同じ年の新型コロナの感染拡大は、どう見ても切り離して考えることはできないとわたしは考えます。新型コロナは女性になにをもたらしたのでしょうか。

ご存知の方も多いと思いますが、現在、日本の労働者(役員を除く雇用者)の約4割が非正規職であり、非正規職の約7割が女性です(総務省の統計より)。新型コロナ感染拡大による雇い止め・失業は、まず飲食業や旅館業、サービス業に従事している非正規職の女性たちを直撃し、その影響はさらに広い職種に広がりました。(また、これは統計等には出てきにくいのですが、シフトで働いている人たちは、次の月のシフトが入らなくなっただけで、収入がなくなります。)また、正規職の女性であっても、新型コロナによる学校の休校や保育園の休園のために、仕事をやめざるを得ない人が出ました。休校で家庭にいることになった子どもたちの面倒や、休業やテレワークなどで家にいるようになったおとなたちの面倒は、女性に重くのしかかったのです。特にコロナ禍の中で、もっとも深刻な影響を受けたのは、ひとり親の女性たちでした。彼女たちは、失業や雇い止め等で突然収入を失い、子どもを抱えて孤立し、数カ月の間に貯金を使い果たして、その結果、住まいと食べるものがない状態に陥りました。

なぜ、女性にこのようなことが起きたのでしょうか。よく考えてみれば、このような女性の社会的な不利さは、新型コロナ感染が起きる前からずっと日本にあったのです。ただ、女性たちがなんとかギリギリで持ちこたえて生活していたために、あまり見えてこなかったにすぎません。以前からあった女性がおかれている圧倒的に不利な立場を、コロナ禍ははっきり目に見えるようにしたのです。

なぜ、女性は今もこのような社会的に不利な立場におかれているのでしょうか。今の社会は、食料からケア(医療や福祉)にいたるまで、すべてが商品になり、お金がないとなにひとつ手に入れることはできません。これが資本主義社会です。お金を手に入れるためには働かなければなりませんが、今の日本社会の中で女性が働こうとした場合、女性が不利になる原因はいくつもあります。

ひとつは、生物学的な原因です。妊娠、出産は女性にしかできないため、女性はどうしても一定期間、仕事を休まざるを得なくなります。次に、家庭、家族の原因があります。「育児、家事は女性の役割」というジェンダー意識は今も根強いものがありますし、働いて稼ぎすぎると夫の扶養から外れてしまう「年収103万円の壁」などの制約もあります。さらには、これが一番大きいかもしれませんが、社会的な原因もあります。企業等は、「無駄をなくすため」、労働者を必要な期間だけ、できるだけ安い賃金で雇いたいと考えます。そのためには、正規職を減らして、足りなくなった労働力を、必要な期間だけ圧倒的に賃金の安い非正規職で補おうと考えます。これにぴったりだったのが、働きたいと考える女性だったわけです。結果として、今の日本の「非正規労働者が4割で、非正規労働者の7割が女性」という状態が生まれました。「1億総活躍社会」、「女性が輝く社会」というキャッチフレーズがもたらした現実がこれです。これ以外にもさまざまな原因がありますが、これらの原因が重なり合って、今なお続く、「女性の社会的な不利」をつくり上げています。みなさんは、このような今の日本の現状をどう考えますか。仕方ないと考えますか、それともおかしいと考えますか。わたしは、あきらかにこれはおかしいと思います。

世界経済フォーラム(World Economic Forum:WEF)が、2021年3月に発表した「The Global Gender Gap Report 2021」で、各国の男女格差を示すジェンダーギャップ指数(Gender Gap Index:GGI)を公表しました。日本の総合スコアは0.656で、順位は156か国中120位(前回は153か国中121位)でした。これは経済、政治、教育、健康の4つの観点から判断され、それぞれのスコアは1に近いほど男女のギャップが少ないことになります。日本のスコアは、経済が0.604、政治が0.061、教育が0.983、健康が0.973ですから、日本の順位を下げているのは、政治面や経済面での男女の格差であることはあきらかです。ここで問題になっている女性の国会議員の少なさや、女性の賃金の低さ等は、日本社会が一日も早く解決しなければならない問題です。

「女に生まれて損をした」〜女子という呪い〜

このような社会的な不利さや家庭での不利さを考えると、「何事においても、女性は不利だ」とか、「世の中は全部、男性に都合よく作られている」とか、「男の言うことを素直に聞く、やさしい、きれいな女でいてくれなんて、いいかげんにしてほしい」と女性が感じるのは、もっともなことです。このような女性の不利さを、「女子という呪い」と名づけた人もいます。しかし、ジェンダーの強いる「女らしさ」は、よく考えてみると、実は「男らしさ」の裏返し(正反対)ですから、「女子という呪い」というコインの裏側には、実は「男子という呪い」が刻まれています。(つまり、同じコインの裏と表の関係になります。)例えば、ジェンダーは女性に「おとなしくする」ことを強いるとともに、男性には逆に、「活発で積極的である」ことを強いているのです。「今の世の中では、女性だけが損をしている(ジェンダーの被害者だ)」という思いは、現在の社会が男中心の社会であることを考えれば、確かにもっともなところがありますが、自分の性を「呪われた性」ととらえることは、どう考えてもその人を幸せにはしません。むしろ、たしかに「女はつらいよね」、でも、「男もつらいかも」と考えた方がよいのではないかと思うのです。女性が生きづらい社会は、実は、男性も生きづらい社会なのではないかとわたしは思います。

「女子という呪い」というコインの裏側には、「男子という呪い」が刻まれていると言ったのは、具体的にはたとえば、こんなことです。職場において、女性社員は、「結局、若さがすべてだ。若いうちは、ちやほやされるが、それもせいぜい25歳までが限界で、それを過ぎるとたちまちどうでもいい扱いに変わる」という苦情を聞いたことがあります。しかし、男性社員はそれとは逆の事情を抱えています。「男は結局、経験と勝つことがすべてだ。男社会では若いことは未熟さとイコールで、何の意味もない。では、年をとれば認めてもらえるかと言えば、そんなことはない。運良く実績をあげた者だけが評価され、偉そうにふるまう」のです。ただ、そのような苦情を男性はふつう口にしません。それは、男性が自分の不利な立場に無自覚だから(つまりは、鈍くて馬鹿だから)か、そんなことを口にするのは、「男としてはずかしい」と思っているからです。同じようなことは、男女のさまざまな面で言えます。つまり、簡単に言ってしまえば、多くの場合、女性の不利さは男性の有利さですが、逆に女性の有利さは男性の不利さになっているのです。これは、人の持つさまざまな性質を、ジェンダーが「女らしさ」対「男らしさ」として、対照的に男女に振り分けているために、必然的に起きてくることです。(もちろん、その「振り分け」は単純ではありません。例えば、ある種の「活発さ、積極性」は、社会や家庭の中では、男性だけにではなく、当然、女性にも必要とされるからです。ただ、その「活発さ、積極性」の表し方に、また「女らしさ/男らしさ」を要求してくるところが、ジェンダーの巧妙なところです。)

では、われわれが感じる女と男の「生きづらさ」はどこから来るのでしょうか。それは、「あなたは、女(男)なんだから、女(男)らしく、こうでありなさい。」という性的役割(ジェンダー)と、そのとおりには振る舞えない(振る舞いたくない)自分との、「ズレ(その程度は人まちまち)」から生まれてくるのです。こういう話をすると、「まったく、ジェンダーなんてなんであるんだろう。ジェンダーなんてさっさとなくしてしまえばいいのに」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ただ、ジェンダーは「虚構(フィクション、つくりごと)」ではありますが、人と人を強く結びつける(「女らしさ」と「男らしさ」をわざと違うものにしておいて、その違いでお互いに自分にないものを持っている相手を求めさせる)大きな働きをしています。その点で、ジェンダーは「本能の壊れた」人間が、家族や社会をつくっていく上で不可欠の働きをしているのです。単純に、ジェンダーは悪と言ってしまえれば楽なのですが、そうは言ってしまえない理由がここにあります。ただ一方でジェンダーは、先ほどから述べているように、「女」や「男」を生きづらくしているのも事実です。(だれもが、ジェンダーが求めるような、100%の女、100%の男にはなれません。)

男女の違いや差はないのか

ここまで読んでいただいて、「でも、男女には、体の違いと結びついた違いはないのだろうか。ジェンダーが生まれたのも、もともとはそのような、人が持って生まれた男女の違いに基づいてではないのだろうか。」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、女性と男性に分けて、さまざま検査をすれば、いくつかの検査において、男女の平均値や分布は確かに違ってきます。しかし、重要なことは、どの検査においても「性差より個体差の方が大きい」ということです。(全体として男女それぞれの傾向がないわけではありませんが、個々を比べれば、その傾向と逆の例がいくらでも出てくるということです。たとえば、数学のテストをしてみれば、多くの高校では、男子の集団の方が、女子の集団よりも、平均点が高いことが多いかもしれません。しかし、個々の成績をみれば、女子の平均点よりも低い点数の男子はいくらでもいます。)

男女の特徴と思われているものは、たぶんほとんどが後天的な(生まれてから後、ずっと「女」、「男」として育てられたための)ものです。このところ何年かに一度、男女の脳の違い(脳の性差)を取り上げてベストセラーになる本が出てきます。ただ、結論から言うと、脳の性差というものは、科学的には証明されていません。何十年も前に、男女それぞれの脳梁(右脳と左脳をつないでいる部分)の太さを測ったら、女性のほうが太かった。その結果、女性の方が右脳と左脳の連携がよいから、男女の違いが出てくるというような話がまことしやかに行われました。しかし、この話のもととなった論文のデータは男女計14人の脳のデータだったそうです。何十億いる男女の脳の違いを14人の例で説明するのは、まさに、マユツバのお話です。現在は、生きている人の脳のさまざまな部分の大きさを、比較的簡単に測ることができるようになり、データ数は飛躍的に増えました。基本的に、その部分の大きさが大きければその部分が担当している機能が高いと考えますが、ここにおいても先ほどと同じように、性差より個体差の方が大きいのです。さらに、女性の方がある部分の機能が発達している傾向があるとわかっても、それが男女の遺伝子の違いによるものなのか、後天的に(女性として育てられ、女性として育ったために)そうなったのかは、生きた人間を実験台にはできませんので、証明のしようがないことになります。つまり、脳の性差は、研究しても成果のでない分野なのです。脳の性差というものが、科学的には証明されていないのはそんな事情があります。

さらに言えば、脳の機能やホルモンの働きから、人の思考や行動を説明する本もよくベストセラーになりますが、基本的にはこのような本はインチキ本だとわたしは思っています。なぜかと言うと、このような本の説明は、循環論法になっているからです。たとえば、「人はいじめをする」、「人は幸せを感じる」というような日常的、常識的な事実から出発し、そのような事実に対応すると思われる脳のある部分の興奮やホルモンを特定します(多くの場合、厳密な実験は人間には不可能ですから、あくまで仮説(可能性)として特定します)。そして、本の中では、逆に脳の興奮やホルモンの動きから、今度は断定的に、いじめが起きる理由や人の幸福感を説明します。これはあきらかな循環論法なので、なんの説明にもなっていないわけですが、結果として常識の「正しさ」を科学的に証明したように見えるので、常識(たとえば、「いじめは人の本性だ」)にしがみつきたい人は喜んで読むため、時々、ベストセラーになるのです。

女性蔑視(ミソジニー)のあらわれ方

2021年4月に、関西のある有名な男性市長が、コロナ感染拡大防止の話の中で、「(スーパーの買い物は)女の人が行くと時間がかかる。女の人が(買い物に)行くと、色々商品を見ながら、『これはいい』、『あれがいい』と時間がかかる。男は、『これ買って来て』と言われたら、そこに直接行ってパッパと買って帰る。(だから、コロナの時は、三密回避で男性がスーパーに行った方がいい。)」という意味の発言をしました。記者から「それは性別とは関係ないのではないか」と問われて、「わが家ではわたしの方が早いということです」と答えました。この発言は、性差別、女性蔑視の発言だと、多くの批判を受けました。「子どものおつかいじゃあるまいし、頼まれた二つや三つの買い物をさっさとして来たからといって、何が偉いんだ。」とか、「女性が、冷蔵庫の在庫や今日の献立を考えながら、あちこち見て選んで買っている事情をまったくわかっていない。」などの批判が次々に上がりました。

ここにも、パワーハラスメントのところで見た、人権侵害の構造を見ることができます。強い立場と弱い立場があり、その間に気持ちのずれや断絶があって、それが人権侵害を生んでいるのです。この場合、強い立場は、男性(の市長)です。弱い立場は、女性であり、市長の妻です。男性市長は、記者から質問されたり、ネットなどで批判されても、恐らく腹の中では、「なんでこれが問題になるんだ。俺は事実を言っただけだ。男たちはみんなこう思っているはずだ。本当のことを言ってなにが悪いんだ。」と思ったことでしょう。彼は、「正しいこと、当たり前のこと」を言っただけなのに、なぜそれが問題になるんだと当惑した(または、いら立った)だろうと思います。一方、この発言を聞いた女性たちは、「この人、何もわかってない。馬鹿じゃないの。許せない。」と思ったのではないでしょうか。

女性を男性よりも劣ったものだとして、馬鹿にし、見下す態度や考えを、「ミソジニー(女性蔑視、女性嫌悪、女嫌い)」と言います。ミソジニーを生んでいるのはジェンダーですから、ミソジニーは人間社会全体をおおっています。#MeToo運動への批判、#KuToo運動への批判、フェミニズム運動への批判、レイプ被害者への非難、セクハラ告発者への非難等、すべてミソジニーから生まれてきます。去年(2021年)の日本の様子を振り返ってみても、ミソジニーに基づく発言がいくつも話題になりました。ある女性の国会議員は、女性の性的被害などを議論する会議の中で、「女性はいくらでもウソをつけますから」と発言して、問題になりました。ここからわかることは、ミソジニーは男性だけのものではないということです。また、元首相のある男性は、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」、「(組織委員会の女性は)みなさん、わきまえておられて」と発言して、その責任を問われ、結局、当時ついていた日本を代表する役職を去りました。重要なことは、彼は最後まで、自分の発言のどこが問題だったのか、まったくわからなかったということです。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。

このような目に見えるミソジニー(問題発言など)の根底には、すでにお話ししたジェンダーがあります。ジェンダーは、物心つく前から、人の心にすり込まれている「正しさ」(女性はこうだ、こうあるべきだ)ですから、それに基づいた自分の判断には、人は基本的に疑いを持たないのです。そのため、形になって出てきた女性蔑視(発言等)だけを社会が批判しても、批判された当人は何が悪いのかまったくわかないということが起きます。また、ジェンダーに何の疑いも持たない人は、女性であっても平気で女性を見下したような発言をすることになります。(そのような発言をした時、たぶんその女性は、自分は女性的ではない女性だ、つまり男性的な見方ができる、女性よりは「上」の存在なのだと思っています。)

「女性の人権」ということで、この後さらにDV(ドメスティック・バイオレンス)のことや、男女のパートナー間の気持ちや思いのズレや断絶がどのようにして生まれるかを書きたいと思ったのですが、だいぶ文章が長くなってしまったので、それらはまた別の機会に回したいと思います。

女性の人権をふたつに分けて考える

最後にひとつだけ書いておきたいことがあります。それは、「女性の人権」やジェンダーの問題について考える場合、A「社会における女性の人権やジェンダーの問題」と、B「恋愛、結婚、家庭等における 女性の人権やジェンダーの問題」とは、分けて考えた方がよいのではないかということです。わたしがそう考える理由は、両者の目指すものは、解決の方向が違うからです。Aの「社会における女性の人権やジェンダーの問題」が目指す解決の方向は、「女性と男性の間の平等、公正」です。それに対して、Bの「恋愛、結婚、家庭等における女性の人権やジェンダーの問題」が目指す解決の方向は、「両者の納得(幸せ)」ということになると思うからです。

このふたつを一緒にしてしまって、個々の男女の関係にまで、社会的な平等、公正を実現しようとすると、大きな問題が起きます。1960年代から1970年代にかけて盛り上がったフェミニズム運動(ウーマン・リブ運動等)は、たくさんの成果をその後の社会にもたらしましたが、個々の男女の関係にまで、男女の平等、公正を実現しようとしたために、結果として「家事や育児に専念する女性は、自覚が足りない」と、専業主婦などを攻撃してしまう一面を持っていました。これは、フェミニズム運動にとっては、不幸なことでした。そこでわたしは、「女性の人権」やジェンダーの問題について考える場合、社会における「女性の人権」やジェンダーの問題と、恋愛、結婚、家庭等における「女性の人権」やジェンダーの問題とは、分けて考えた方がよいのではないかと思うのです。ただ、これはあくまで、現時点ではそう考えるのがいいのではないかということであって、これが唯一の正解ではないことは、言うまでもありません。「女性の人権」の問題は、正直言って、本当にむずかしい問題です。


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