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日常

 1人暮らしを始めると家族、特に母親の偉大さが身に染みる。
 それは食事の時に感じるのではない。食事なんざは外に行けばいくらでも並べてある。たまにの調理なら気分転換にもなる。割高の金額を支払えば玄関を開けるだけで手に入る。それは洗濯の時に感じるものではない。確かに溜めてしまえば億劫になることはある。しかし洗濯機に押し込みボタンを押すことが出来ればそれで終いだ。初期投資を多めに行えば、干す作業もいらなくなる。体裁や皺を見ないようにすれば畳むこともしなくて済む。それは掃除の時に感じるものではない。目を瞑ればいい。
 わたしがこれを感じるのはゴミの収集の際だ。これこそ袋に詰めて出すだけの筈だ。しかし、ゴミ出しは外部によって勝手に決められる。月曜日と金曜日が燃えるゴミ、木曜日が燃えないゴミ、土曜日がビン・カン、隔週土曜日でペットボトルといった感じだ。私のゴミ事情に関係なくこの日は来る。それが非常に面倒なのだ。もし出せないようなら、それは私の部屋に居続けることになる。出張なんかが入ってしまえば、異臭を放って自分の居場所がここではないと教えてくれる。本当に有難い。
 こんな想いも慣れて仕舞えば感じなくなる。カレンダーを見ずとも今日が何の日かを思い出し、袋に詰める。地域指定のゴミ袋は割高だがそれにも慣れた。そういう意味では母親への偉大さが少々減ったかもしれない。
 今日も日常が訪れた。6時半のアラームを乱暴に消し布団を投げ出す。冷凍庫から小分けにした白米をレンジにかけ、それと同時に湯沸かし器のスイッチを押す。できた白米を茶碗に移しテーブルに置かれたレジ袋からお茶漬けの素を取り出す。寝ぼけた手つきでふりかけ、湯をゆっくり注ぎ、固形物が溶けていく様を見つめる。味は…想像がつくだろう。これもルーティーンである。少し違うとすれば今日は海苔味ではなく鮭味であることだ。テレビをつけ今日のトピックと天気を頭に垂れ流す。アナウンサーが昨日はゴミの日だったことを伝える。これも既に日常だ。
 さて、ゆっくりしている暇はもうない。正装に着替え出掛けるとしよう。仕事用具が入った鞄を右手に、異臭を放とうとするゴミ袋を左手に持ち玄関の扉を開いた。今日も日常が始まる。そんな今日は水曜日であった。


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