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【#1鵜飼 卓】本当に支援を求めている人たちに、必要な支援を届けたい

HuMAの活動に携わる人々に注目するインタビュー。
第1回目はHuMAの初代理事長(現・顧問)の鵜飼卓さん。2002年にHuMAを立ち上げるずっと前から、災害人道支援の必要性を自身の行動で示してきました。そして今なお、現場の最前線に立ち続けています。

東日本
2011年東日本大震災被災者の自宅で

被災地には、温かい人の手による支援が必要だ

「日本の災害人道支援は遅れている。」私がそう感じたのは今から40年ほど前のことです。

1979年の秋、国内ではカンボジアの内戦による難民の悲惨な現状が、連日報じられていました。痩せた身体で子どもに母乳を与えようとする母親。その胸に抱かれている小さな赤ちゃんの顔にはハエが群がっている。メディアはそんな写真を取り上げては「日本は金銭的支援ばかりで人を派遣しない。現地で汗をかいて働く者はいないのか」と批判を繰り返していました。

その声を受け、政府は急遽医療チームを編成して現地に派遣することを決定。私は、メディアの批判に対する反発心と「自分にもできることがあるのではないか」という考えから、自らの意思でチームの一員に加わりました。

1979年カンボジア
1980年カンボジア難民救援医療外来診療

日本から現地に赴いたメンバーは469名。しかし、前向きな気持ちで活動に参加していた人は決して多くはありませんでした。それゆえに、本来であれば最も衛生面への配慮や大量の輸血が必要となる手術を、十分な環境が整わない中で計画する事例も見受けられました。

当時も、日本の医療は世界の中でも高いレベルにありました。その一方で、災害医療は諸外国から大幅に遅れをとっている。世界と乖離した日本の医療界の現実を目の前に突きつけられました。

日本の近代医療発展の背景には、諸外国からの支援があります。私たちは、これまでの国際社会の歩みの中で豊かさと健康的な暮らしを手にしてきたのです。「今度はその恩恵を世界に対して還元する番だ。そして、それは金銭的な支援だけではなく、温かい人の手によって実現しなければならない」そう強く思いました。

ニーズに合わせて柔軟に活動できるチームを

カンボジアから帰国後すぐに、同じ想いを持つ仲間と共に、災害人道支援の組織づくりに向けて動き始めました。

当初は活動の自由度が高いNGOの設立を考えましたが、資金面での課題が大きく断念。そこで、政府に働きかけることで1982年に外務省管轄のもとJMTDR(国際緊急援助隊医療チーム)という組織を立ち上げることになりました。

しかし、政府の管轄下にある組織は法律の下でしか動くことができません。JMTDRの活動を司る国際緊急援助隊法(JDR法)という法律ができ、さらに国際平和協力法(PKO法)ができると、紛争などによる人為災害である難民支援は自衛隊の活動対象とされ、私たちが働くことが許されなくなってしまいました。

また、国内の災害支援も対象外でした。1995年の阪神淡路大震災では、医療チームを派遣できる体制を持っていながら表立って活動することができなかった。そのもどかしさ、悔しさから私たちはNPO法人HuMAの立ち上げを決意しました。

ヨルダンテント
HuMA の初回活動 2003年湾岸危機時の難民支援(ヨルダン)

「本当にニーズのあるところに、技術と善意をもって柔軟に動けるチームを」それがHuMAのスタート時にあった想いです。このため、HuMAの活動は医療活動にとどまりません。2008年ミャンマーのサイクロン被害の支援活動では、きれいな水を必要とする人たちのために井戸を掘りました。井戸から水をくみ上げられた時の現地の人々の笑顔は今でも目に焼きついています。

国内でも東日本大震災や西日本豪雨などの被災地でHuMAは活動を続けてきました。その度に全国各地の医療従事者の皆さんが私たちの想いに賛同し、協力してくれることを心強く思います。熱意ある皆さんと共に、自分自身も可能な限り現場に立ち続けたいと思っています。

災害医療支援活動には多くの方々の支援が必要です。一人ひとりの協力が支えになります。HuMAについて、より詳しく知りたい方はこちら

[TEXT:堂本侑希(広報ボランティア)]


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