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【#3山下 公子】支援活動は柔軟で、いろんな形があっていい

HuMAの活動に携わる人々に注目するインタビュー。
第3回目は、産婦人科・救急医療・災害医療を専門とし、二児の母としての顔も持つ山下公子さん。
「普段の仕事や家庭を犠牲にしなくても、災害支援に関わることはできる」
それを自分自身の姿を通して伝えたいと話します。

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「家族の支えが力になる」と話す山下さん(写真右上)

幼い頃描いた医師の姿を追いかけて

人の命を救うブラックジャックに幼い頃から憧れていた私は「医師になればブラックジャックになれるはずだ」という、今思い返すととても単純な動機から医療の道を志しました。

そのためか、進学した大学で学問としての医療に直面した時、何とも言えない違和感を覚え「自分のやりたいことは何だろう」と悶々としながら学生生活を送っていました。

そんな中、ある講義で国境なき医師団のメンバーとして活動している医師の話を聞く機会がありました。外科や内科といった分野を超え、命の危機にさらされている人の全身を診て最善の処置をとる。その姿に、幼い頃自分が描いていた医師のイメージが重なったのだと思います。大学卒業後、背中を押されるように救命救急科を選びました。

HuMAを知ったのは、病院での勤務を始めてからのことです。既にHuMAの会員になっていた上司の話から活動に関心を持ち、2011年、東日本大震災の時に初めて医療支援のチームに加わりました。

それは正直、苦い経験でした。当時チームのリーダーを務めていたのは、レジェンドと呼ばれるほどのベテラン医師。その指導を受けながら、自分にできることを何とかこなすのに精一杯だったように思います。

特に強く覚えているのは、持病のガンが進行し非常に危険な状態にあった人のことです。寝たきりで病院に連れて行くこともままならない。そこでリーダーの医師の判断で、自宅で応急的な処置をすることになりました。私はそこで議論についていくこともできず、処置が行われている最中もただ側で立っているだけ。自分の無力さを痛感し、つらくなりました。

それでも不思議と、災害医療に関わることをやめようという気持ちにはなりませんでした。震災の翌年にはフィリピンを襲った台風の被災地での支援活動に参加。ここでも何か特別なことが自分にできたわけではないのですが「来てくれてありがとう」という現地の人々の言葉と笑顔に、こちらが元気をもらいました。本格的に災害医療支援を続けていこうと考えたのも、フィリピンでの活動がきっかけだったように思います。

皆が少しずつでも支援の輪に加われるように

2016年熊本地震での支援活動は、自分自身が妊娠している中での参加でした。妊娠中に災害の現場に行くというのは、周りから見ると考えにくいことかもしれません。しかし、自分がその立場だったからこそ、被災地にいる妊娠中の女性たちの不安を少しでも和らげたいと思いました。被害が大きかった阿蘇市に入り、現地の保健師の皆さんと連携し約1カ月かけて市内の妊婦全員の健康状態を確認してまわりました。

この時は一方で、広報担当としての役割も担っていました。自分自身も無理は禁物だったので身体への負担をかけないように、という理由もありましたが、支援活動を継続していくためにもHuMAの活動をより多くの人に知ってもらおうという声が高まってきたことを受け、SNSでの発信などを積極的に行うようになったのです。

山下先生②
2016年熊本地震の被災地で

災害医療支援は、医療行為以外にもさまざまな関わり方があります。活動の様子を広く伝えていくことや、活動のための資金を集めることも大切な役割の一つです。しかし多くの医療従事者には「数カ月、時には数年単位で現地に駐在しなければいけない」「病院での仕事や家庭が犠牲になる」と思われているのが現状です。

支援活動はもっと柔軟であっていい。勤務医としての仕事があっても、家庭があっても、自分のできることから関わっていける。それを自分の姿を通して伝えていくことができたらと思っています。

災害の現場では多くの人の手が必要になります。皆が少しずつでも支援の輪に加わることができれば、きっと命を救う大きな力が生まれるはずです。

山下先生③
2013年フィリピン 妊娠中の女性たちに寄り添う

災害医療支援活動には多くの方々の支援が必要です。一人ひとりの協力が支えになります。HuMAについて、より詳しく知りたい方はこちら

[TEXT:堂本侑希(広報ボランティア)]

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